
木下尚江(きのした なおえ)は、1869年(明治2年9月8日)に、信濃国松本城下(現在の長野県松本市)に松本藩下級武士の父・木下廉左衛門秀勝、母・くみの長男として生まれました。
開智学校を経て、1881年(明治14)秋に、松本中学校に入学します。在学中にオリバー・クロムウェルの影響を受け、法律を学ぶため、東京専門学校(現在の早稲田大学)法律科に進みました。
1888年(明治21)に卒業後、『信陽日報』(長野県松本)の記者や禁酒運動・廃娼運動に取り組みます。1893年(明治26)に代言人試験に合格し、松本の大名町に木下法律事務所を開設、弁護士として活動を始め、同じ時期にキリスト教の洗礼を受けました。
1897年(明治30)には、中村太八郎らとわが国初めての普通選挙運動を起こしたものの、捉えられて入獄を経験します。1899年(明治32)に毎日新聞(旧横浜毎日新聞)に入り、廃娼問題、足尾鉱毒問題などの社会問題を取り上げて、激しい言論活動を続けました。
1901年(明治34)には幸徳秋水、片山潜、堺利彦らの社会民主党の結成にも参加し、日露開戦にあたっては非戦運動を開始し、『毎日新聞』に小説『火の柱』(1904年)、『良人の自白』(1904~05年)を連載して非戦論と家族制度批判を展開します。
1906年(明治39)の母の死を契機に、社会主義から次第に離れ、新聞社を退社後、自然主義的傾向を強くしていきました。1910年(明治43)の大逆事件後、その著作はすべて発禁処分を受けて隠棲し、一時群馬県の伊香保に住んで作家活動に沈潜しています。
また、1913年(大正2)の田中正造の死期に立ち会い、看護を行って、その後『田中正造翁』(1922年)を刊行しました。
晩年は、明治史の調査に打ち込みましたが、病気によって中断され、1937年(昭和12)11月5日に、東京市滝野川区西ヶ原(現在の東京都北区西ヶ原)の自宅において、68歳で亡くなります。
尚、長野県松本市の「松本市歴史の里」内に、1983年(昭和58)に木下尚江の生家が移築され、「木下尚江記念館」が出来ました。
〇木下尚江の主要な著作
・『足尾鉱毒問題』(1900年)
・『廃娼之急務』(1900年)
・小説『良人(りょうじん)の自白』(1904~06年)
・小説『火の柱』(1904年)
・『懺悔』(1906年)
・評論集『飢渇(きかつ)』(1907年)
・『墓場』(1908年)
・『田中正造翁』(1922年)