後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、後宇多天皇(第91代天皇)の第2皇子(母は談天門院忠子)として生まれましたが、名は尊治(たかはる)と言いました。
1302年(乾元元)に、親王宣下を受け、1303年(嘉元元)に三品に叙品、1304年(嘉元2)大宰帥となり、帥宮(そちのみや)と呼ばれます。
1308年(延慶元)には、持明院統(当時皇統は大覚寺・持明院両統に分裂していた)の花園天皇(第95代天皇)の即位に伴って皇太子に立てられ、1318年(文保2)に花園天皇の譲位を受けて第96代天皇に即位しました。
1321年(元亨元)から院政を廃して天皇親政を復活し、吉田定房、北畠親房らの人材を登用、記録所を再興するなど、政治改革に努力します。
その中で、鎌倉幕府打倒を企て、1324年(正中元)には、六波羅探題に漏れて、多数の側近が逮捕(正中の変)されました。さらに、1331年(元弘元)に、幕府に不満をもつ諸国の武士、寺社勢力などに蜂起を呼びかけたものの、幕府軍に包囲され捕らえられて、翌年隠岐島に配流(元弘の変)されます。
1333年(元弘3/正慶2)に、名和長年らを頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山(現在の鳥取県東伯郡琴浦町)で挙兵、追討のため幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が後醍醐方に寝返って、六波羅探題を攻略しました。一方、東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させます。
京都に戻って、幕府の擁立した持明院統の光厳天皇を廃し、いわゆる「建武の新政」を行いますが、論功行賞が公家優先で、従来の所領の領有権に介入したり、皇居造営の臨時賦課を強行するなどして、地方武士の不満が急速に高まりました。
これは、足利尊氏らの離反を招き、2年余で新政は瓦解し、1336年(建武3/延元元)に吉野に移り南朝を立て、以後南北朝併立時代に入ります。
諸皇子を各地方に派遣し、地方武士の掌握に努めたものの、これもなかなかうまくいかず、吉野に従う公家も少数派となり、孤立が深まるなかで、1339年(延元4/暦応2)に後村上天皇に譲位しました。
京都回復の夢を果たせぬまま、同年(延元4年8月16日)に、吉野において、数え年52歳で亡くなりました。
〇後醍醐天皇関係略年表(日付は旧暦です)
・1288年(正応元)11月2日 後宇多天皇(第91代天皇)の第2皇子(母は談天門院忠子)として生まれる
・1302年(乾元元) 親王宣下を受ける
・1303年(嘉元元) 三品に叙品する
・1304年(嘉元2) 大宰帥となり、帥宮(そちのみや)と呼ばれる
・1308年(延慶元) 持明院統の花園天皇(第95代天皇)の即位に伴って皇太子に立てられる
・1318年(文保2)2月26日 花園天皇の譲位を受けて第96代天皇に即位する
・1321年(元亨元) 院政を廃して天皇親政を復活する
・1324年(正中元) 討幕計画が六波羅探題に漏れて、多数の側近が逮捕される(正中の変)
・1329年(元徳2) 中宮の御産祈祷として密かに関東調伏の祈祷を行い、興福寺や延暦寺等の寺社に赴いて寺社勢力と接近する
・1330年(元徳2) 米価・酒価の公定、関所停止令を出す
・1331年(元弘元) 幕府に不満をもつ諸国の武士、寺社勢力などに蜂起を呼びかけたが、幕府軍に包囲され捕らえられる(元弘の変)
・1332年(元弘2) 隠岐島に配流される
・1333年(元弘3/正慶2) 名和長年らを頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山で挙兵する
・1333年(元弘3/正慶2)6月 京都に帰る
・1335年(建武2)7月 関東での北条時行の反乱(中先代の乱)を平定する
・1335年(建武2)10月 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて挙兵する
※南北朝の対立が始まる
・1336年(建武3/延元元)5月25日 湊川の戦いで後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成軍が足利尊氏軍に敗れる
・1336年(延元元/建武3)8月 足利尊氏により光明天皇が擁立される
・1336年(延元元/建武3)11月 足利尊氏により「建武式目」が制定される
・1336年(延元元/建武3)12月 後醍醐天皇が吉野へ逃れ、南朝を立てる
・1337年(延元2/建武4)3月 足利尊氏が高師泰に越前金ヶ崎城を攻略させる
・1338年(延元3/暦応元)5月 足利尊氏が北畠顕家を堺の石津浜に敗死さる
・1338年(延元3/暦応元)閏7月 足利尊氏が新田義貞を越前藤島で戦死させる
・1338年(延元3/暦応元)8月 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開く
・1339年(延元4/暦応2) 後村上天皇に譲位する
・1339年(延元4/暦応2)8月16日 吉野において、数え年52歳で亡くなる