ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2018年10月

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 今日は、昭和時代後期の1970年(昭和45)に、物理学者坂田昌一の亡くなった日です。
 坂田昌一(さかた しょういち)は、1911年(明治44)1月18日に、東京市麹町区(現在の東京都千代田区)で、財界人坂田幹太の長男として生まれました。
 大阪の7年制の旧制甲南高等学校(現在の甲南中学校・高等学校)を経て、1930年(昭和5)に、京都帝国大学理学部物理学科へ入学します。
 1933年(昭和8)に卒業後、理化学研究所仁科研究室に入り、朝永振一郎と共に電子対発生の研究に取り組みました。翌年に湯川秀樹に招かれて大阪帝国大学へ移り、理学部助手(後に講師)となって、中間子理論研究に従事します。
 1937年(昭和12)に、中間子論第2論文(湯川秀樹と共著)を発表、1939年(昭和14)には、湯川秀樹と共に京都帝国大学へ戻り、講師となりました。
 1942年(昭和17)に「二中間子論」(谷川安孝、井上健、中村誠太郎と共著)を発表、同年名古屋帝国大学教授(後に理学部長)となります。これらの功績により、1949年(昭和24)に朝日文化賞、翌年に日本学士院恩賜賞を受賞します。
 また、日本学術会議の発足(1949年)で第1期会員に選出され、以来第8期まで連続選出されました。1956年(昭和31)に素粒子の複合模型(坂田模型)、1962年(昭和37)に統一模型(新名古屋模型)を提唱して、素粒子論の新たな展開を生み出します。
 一方で、研究体制の民主化や平和運動にも取り組み、1956年(昭和31)のストックホルム世界平和会議、1958年(昭和33)の第3回パグウォッシュ会議にも出席しました。
 ノーベル物理学賞の有力候補と目されるようになりましたが、1970年(昭和45)10月16日に、59歳で亡くなっています。

〇坂田昌一の主要な著作

・『物理学と方法 素粒子論の背景』白東書館(1947年)
・『科学と平和の創造 一原子科学者の記録』岩波書店(1963年)
・『科学に新しい風を』新日本新書(1966年)
・『科学者と社会』岩波書店(1972年)
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 今日は、昭和時代中期の1956年(昭和31)に、天竜川中流に佐久間ダムが竣工し、完成式が行われた日です。
 佐久間ダムは、天竜川中流の静岡県浜松市天竜区佐久間町と愛知県北設楽郡豊根村にまたがる、発電用を主とする重力式コンクリートダムです。太平洋戦争後の急増する電力需要に対応するため、1952年(昭和27)の「電源開発促進法」で成立した電源開発会社が最初に行なったダム工事でした。
 1953年(昭和28)に着工し、アメリカから大型建設機械および施工技術を導入した工法によって、わずか3年後の1956年(昭和31)に竣工し、10月15日に完成式が行われましたが、ダム工法を革新した画期的な事業とされています。
 堤高155.5m(当時日本一、現在でも第9位)、堤頂長293.5m、堤体積112万m3、総貯水量3.3億m3(日本第8位)、有効貯水量2億544万4千万m3、湖水面積7.15平方kmで、上流端は約33km上流の長野県下伊那郡天竜村平岡に達します。所属の佐久間発電所の最大出力は35万kW、50Hzと60Hzの周波数調整器があり、関東・関西両地域に送電できるのが大きな特徴でした。
 しかし、このダム工事のための事故死者は96名に上り、建設にあたって248世帯が水没し、飯田線の付替え工事も行われています。
 副次的に豊川用水の水源にもなり、2004年(平成16)から国土交通省によって、洪水調節目的を付加して多目的ダムとするダム再開発事業が進められてきました。
 ダムによって形成された人造湖は佐久間湖と命名され、周辺にはサクラとツツジが植えられて名所となり、新緑や紅葉も美しく、1969年(昭和44)には、天竜奥三河国定公園の一部として指定されました。
 また、2005年(平成17)には、財団法人水源地環境センターにより「ダム湖百選」にも選定されています。
 尚、ダム堰堤東岸には「佐久間電力館」がありましたが、1997年(平成7)に「さくま電力舘」(入場無料)としてリニューアルオープンし、佐久間ダムの歴史や電気の科学を学ぶことができるようになりました。

〇日本のダムの堤高ベスト13

黒部ダム[アーチ式](富山県)黒部川水系黒部川 堤高186.0m 総貯水量199,285千m3 【関西電力】1963年完成
高瀬ダム[ロックフィル式](長野県)信濃川水系高瀬川 堤高176.0m 総貯水量76,200千m3 【東京電力】1979年完成
徳山ダム[ロックフィル式](岐阜県)木曽川水系揖斐川 堤高161.0m 総貯水量660,000千m3 【水資源機構】2008年完成
奈良俣ダム[ロックフィル式](群馬県)利根川水系楢俣川 堤高158.0m 総貯水量90,000千m3 【水資源機構】1991年完成
奥只見ダム[重力式](福島県・新潟県)阿賀野川水系只見川 堤高157.0m 総貯水量601,000千m3 【電源開発】1961年完成
宮ヶ瀬ダム[重力式](神奈川県)相模川水系中津川 堤高156.0m 総貯水量193,000千m3 【国土交通省】2000年完成
浦山ダム[重力式](埼玉県)荒川水系浦山川 堤高156.0m 総貯水量58,000千m3 【水資源機構】1998年完成
温井ダム[アーチ式](広島県)太田川水系滝山川 堤高156.0m 総貯水量82,000千m3 【国土交通省】2001年完成
佐久間ダム[重力式](静岡県・愛知県)天竜川水系天竜川 堤高155.5m 総貯水量326,848千m3 【電源開発】1956年完成
奈川渡ダム[アーチ式](長野県)信濃川水系犀川 堤高155.0m 総貯水量123,000千m3 【東京電力】1969年完成
手取川ダム[ロックフィル式](石川県)手取川水系手取川 堤高153.0m 総貯水量231,000千m3 【国土交通省・電源開発・石川県】1979年完成
小河内ダム[重力式](東京都)多摩川水系多摩川 堤高149.0m 総貯水量189,100千m3 【東京都水道局】1957年完成
田子倉ダム[重力式](福島県)阿賀野川水系只見川 堤高145.0m 総貯水量494,000千m3 【電源開発】1960年完成

〇日本の重力式コンクリートダムの堤高ベスト10(計画中含む)

奥只見ダム(福島県・新潟県)阿賀野川水系只見川 堤高157.0m 総貯水量601,000千m3 【電源開発】1961年完成
宮ヶ瀬ダム(神奈川県)相模川水系中津川 堤高156.0m 総貯水量193,000千m3 【国土交通省】2000年完成
浦山ダム(埼玉県)荒川水系浦山川 堤高156.0m 総貯水量58,000千m3 【水資源機構】1998年完成
佐久間ダム(静岡県・愛知県)天竜川水系天竜川 堤高155.5m 総貯水量326,848千m3 【電源開発】1956年完成
小河内ダム(東京都)多摩川水系多摩川 堤高149.0m 総貯水量189,100千m3 【東京都水道局】1957年完成
田子倉ダム(福島県)阿賀野川水系只見川 堤高145.0m 総貯水量494,000千m3 【電源開発】1960年完成
有峰ダム(富山県)常願寺川水系和田川 堤高140.0m 総貯水量222,000千m3 【北陸電力】1959年完成
草木ダム(群馬県)利根川水系渡良瀬川 堤高140.0m 総貯水量60,500千m3 【水資源機構】1976年完成
戸草ダム(長野県)天竜川水系三峰川 堤高140.0m 総貯水量61,000千m3 【国土交通省】計画中
滝沢ダム(埼玉県)荒川水系中津川 堤高132.0m 総貯水量63,000千m3 【水資源機構】2007年完成
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 今日は、明治時代前期の1873年(明治6)に、祝祭日を定める太政官布告「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」が発布された日です。
 これは、明治新政府において初めて祝祭日を定めたもので、1873年(明治6年)10月14日に太政官布告として公布・即日施行されました。当初は、元始祭(1月3日) 、新年宴会(1月5日)、孝明天皇祭(先帝祭。1月30日)、紀元節(2月11日)、神武天皇祭(4月3日)、神嘗祭(9月17日)、天長節(11月3日)、新嘗祭(11月23日)の8日でしたが、皇室関係の行事が中心になっています。
 その後、1878年(明治11)6月5日の改正により、春季皇霊祭(春分日)と秋季皇霊祭(秋分日)が追加されて10日となりました。さらに、1879年(明治12年)7月5日の改正により、神嘗祭の日が9月17日から10月17日に変更され、1912年(大正元年)9月4日、勅令「休日ニ関スル件」(昭和2年勅令第25号)の公布・即日施行と同時に廃止されました。
 この時に、大正天皇祭(12月25日)が追加され、天長節祝日(10月31日)を廃止、天長節を8月31日から4月29日に変更されます。それからも、1913年(大正2)7月16日に、天長節祝日(10月31日)が追加されて年間日数が11日となって、1927年(昭和2)3月4日には大正天皇祭(12月25日)が追加され、天長節祝日(10月31日)を廃止、天長節を8月31日から4月29日に変更されました。
 しかし、太平洋戦争後の1948年(昭和23)7月20日には、それまでの勅令が廃止され、新たに「国民の祝日に関する法律」(昭和23年法律第178号)が制定され、年間日数9日と定められます。
 この法律は何回か改正され祝日も増やされて、2014年(平成26年)5月30日改正で、山の日(8月11日)が追加(2016年から)されてからは、年間日数は16日となりました。

〇「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」(明治6年太政官布告第344号) 1873年(明治6)10月14日

年中祭日祝日等ノ休暇日左ノ通候、此旨布告候事

元始祭 一月三日
新年宴會 一月五日
孝明天皇祭 一月三十日
紀元節 二月十一日
神武天皇祭 四月三日
神嘗祭 九月十七日
天長節 十一月三日
新嘗祭 十一月廿三日

☆日本の祝祭日の変遷

・1873年(明治6)10月14日制定<年間8日> 
 元始祭[1月3日]、新年宴會[1月5日]、孝明天皇祭[1月30日]、紀元節[2月11日]、神武天皇祭[4月3日]、神嘗祭[9月17日]、天長節[11月3日]、新嘗祭[11月23日]を制定
・1878年(明治11)6月5日改正<年間10日> 
 春季皇靈祭[春分日]、秋季皇靈祭[秋分日]を追加
・1879年(明治12)7月5日改正<年間10日> 
 神嘗祭を9月17日から10月17日に変更
・1912年(大正元)9月3日廃止・制定<年間10日>
 明治天皇祭[7月30日]を追加、孝明天皇祭[1月30日]を廃止、天長節を11月3日から8月31日に変更
・1913年(大正2)7月16日改正<年間11日>
 天長節祝日[10月31日]を追加
・1927年(昭和2)3月4日改正<年間11日>
 大正天皇祭[12月25日]を追加、天長節祝日[10月31日]を廃止、天長節を8月31日から4月29日に変更
・1948年(昭和23)7月20日それまでの勅令が廃止され、新たに制定<年間9日>
 元日[1月1日]、成人の日[1月15日]、春分の日[春分日]、天皇誕生日[4月29日]、憲法記念日[5月3日]、こどもの日[5月5日]、秋分の日[秋分日]、文化の日[11月3日]、勤労感謝の日[11月23日]を制定
・1966年(昭和41年)6月25日改正<年間12日>
 建国記念の日[2月11日]、敬老の日[9月15日]、体育の日[10月10日]を追加
・1973年(昭和48年)4月12日改正
 祝日が日曜日の場合はその翌日の月曜日を休日とする振替休日を制定
・1985年(昭和60年)12月27日改正
 2つの祝日に挟まれた平日を休日とする国民の休日を制定→5月4日が毎年国民の休日となる
・1989年(平成元年)2月17日改正<年間13日>
 みどりの日[4月29日]を追加、天皇誕生日を4月29日から12月23日へ変更
・1995年(平成7年)3月8日改正<年間14日>
 海の日[7月20日]を追加(1996年から)
・1998年(平成10年)10月21日改正
 ハッピーマンデー制度により、成人の日を1月15日から1月の第2月曜日へ、体育の日を10月10日から10月の第2月曜日へ変更(2000年から)
・2005年(平成17年)5月20日改正<年間15日>
 昭和の日[4月29日]を追加、みどりの日を4月29日から5月4日へ変更(2007年から)
・2014年(平成26年)5月30日改正<年間16日>
 山の日[8月11日]を追加(2016年から)
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 今日は、鎌倉時代の1282年(弘安5)に、僧侶・日蓮宗の開祖日蓮が亡くなった日ですが、新暦では11月14日となります。
 日蓮(にちれん)は、1222年(貞応元年2月16日)に、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市)で、有力漁民の子として生まれましたが、幼名を薬王丸、本名は蓮長と言いました。
 1233年(天福元年)に、清澄山清澄寺の道善房を師として修学に励みます。1238年(暦仁元)に出家して、是生房蓮長と称し、鎌倉、京畿、比叡山などで諸教学を学びました。
 1253年(建長5)に清澄寺に帰山し、法華信仰に立って「南無妙法蓮華経」と題目を唱え始め(立教開宗)、名を日蓮と改めます。法華仏教至上の立場から浄土教を批判したため、浄土教徒に圧迫され清澄寺を退出、鎌倉にて辻説法を開始しました。
 『立正安国論』を著し、国難を予言して北条時頼に献じましたが、その忌諱に触れ、1261年(弘長元)に伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ配流されます。
 1263年(弘長3)に赦免され、鎌倉に戻って伝道活動を再開しますが、幕府・諸宗批判を止めなかったため、1269年(文永6)に龍ノ口で処刑(龍ノ口法難)されかけたものの、免れて佐渡に流されました。
 1274年(文永11)に赦免後は、甲斐身延山に隠棲し、弟子の育成に努めます。1282年(弘安5)に病を得て下山し、武蔵国千束郡(現在の東京都大田区池上)へ行き、六老僧を定めた後、同年10月13日に、数え年61歳で没しました。

〇日蓮の主要な著作

・『立正安国論』
・『開目鈔』
・『撰時鈔』
・『報恩鈔』
・『観心本尊鈔』
・『守護国家論』
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 今日は、江戸時代中期の1694年(元禄7)に、俳聖松尾芭蕉が亡くなった日(芭蕉忌)ですが、新暦では11月28日となります。
 松尾芭蕉(まつお ばしょう)は、江戸時代前期の1644年(寛永21)に、伊賀国上野(現在の三重県伊賀市)において(伊賀国柘植出生説あり)、士分待遇の農家の松尾与左衛門の子として生まれましたが、幼名は金作、本名は宗房と言いました。
 若年にして、伊賀上野の藤堂藩伊賀支城付の侍大将家の嫡子藤堂良忠(俳号蟬吟)の近習となり、良忠と共に北村季吟に俳諧を学びます。1666年(寛文6)に良忠の死とともに仕官を退き、兄の家に戻って、俳諧に精進しました。
 1672年(寛文12)に郷里の天満宮に句合『貝おほひ』を奉納、延宝初年には江戸に出て上水道工事に携わったりしますが、談林派の感化を受けつつ、俳諧師の道を歩むようになります。
 1680年(延宝8)には、『桃青門弟独吟二十歌仙』を刊行するにおよび、俳壇内に地盤を形成し、深川の芭蕉庵で隠逸生活に入った頃から、独自の蕉風を開拓し始めました。
 1684年(貞享元)以後は、『野ざらし紀行』(1685~86年頃)、『鹿島詣』(1687年)、『笈の小文』、『更科紀行』(1688年)に書かれたように諸国を行脚するようになります。1689年(元禄2)には、もっとも著名な『おくのほそ道』の旅に弟子の河合曾良を伴って出て、東北・北陸地方を回りました。
 そして、最後に西へ向かって旅立ち、大坂の南御堂で門人に囲まれて、1694年(元禄7年10月12日)に、数え年51歳で息を引き取ったと伝えられています。まさに旅に生き、旅に死するの境地で、辞世の句も「旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る」というものでした。
 弟子も多く、死後は蕉門の十哲(榎本其角・服部嵐雪・各務支考・森川許六・向井去来・内藤丈草・志太野坡・越智越人・立花北枝・杉山杉風)などによって、蕉風俳諧が広められ、芭蕉は俳諧文学の第一人者とされ、俳聖とも呼ばれるようになります。

<代表的な句>
「古池や 蛙飛びこむ 水の音」、「野ざらしを 心に風の しむ身哉」、「夏草や 兵どもが 夢の跡」、「荒海や 佐渡によこたふ 天河」、「五月雨をあつめて早し 最上川」

〇『奥の細道』とは?

 江戸時代中期に俳聖と呼ばれた松尾芭蕉が書いた紀行文で、最も代表的なものです。1689年(元禄2)の3月27日(新暦では5月16日)に深川芭蕉庵を愛弟子の河合曾良一人を連れて出立し、東北・北陸地方を回りながら、弟子を訪ね、歌枕を巡って歩いた日数150日、旅程600里に及ぶ大旅行のもので、9月6日(新暦では10月18日)に大垣から伊勢へ旅立つところで、結びになっています。現在では、各所に句碑や資料館が立てられ、史蹟として保存されている所も多く、いにしえの芭蕉の旅を偲ぶことも可能です。また、近年芭蕉の自筆本が発見されて話題になりました。

〇松尾芭蕉の主要な著作

<句集>
・第一集『冬の日』(1684年)
・第二集『春の日』(1686年)
・第三集『阿羅野(あらの)』(1689年)
・第四集『ひさご』(1690年)
・第五集『猿蓑(さるみの)』(1691年)
・第六集『炭俵(すみだわら)』(1694年)
・第七集『続猿蓑』(1698年)

<紀行文>
・『野ざらし紀行』(1685~86年頃)
・『鹿島詣』(1687年)
・『笈の小文』(1687~88年)
・『更科紀行』(1688年)
・『奥の細道』(1689年)

<俳文>
・『幻住庵記』(1690年)

<日記>
・『嵯峨日記』(1691年)
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