ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2018年10月

イメージ 1

 今日は、鎌倉時代の1311年(応長元)に、鎌倉幕府第9代執権北条貞時の亡くなった日ですが、新暦では12月6日となります。
 北条貞時(ほうじょう さだとき)は、1272年1月14日(文永8年12月12日)に、相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)において、鎌倉幕府第8代執権だった父・北条時宗の嫡男(母は安達泰盛の娘)として生まれましたが、幼名は幸寿丸と言いました。
 1277年(建治3)に元服して貞時と名乗り、1281年(弘安4)に第2回元寇(弘安の役)が起きています。
 1282年(弘安5)従五位下に叙し、左馬権頭に任官、1284年(弘安7)4月4日には、14歳で幕府の第9代執権となりました。
 得宗専制政治の確立を意図して、1285年(弘安8)に内管領平頼綱と対立していた外祖父泰盛を排除して安達氏一族を滅ぼしました(霜月騒動)。
 その後、権勢を振るっていた平頼綱を、1293年(正応6)自ら滅ぼし(平禅門の乱)、幕政の実権を握ります。そして、要職に御内人を配するなど得宗としてその権力を強化しました。
 また、窮乏化した御家人救済のため、1297年(永仁5)に永仁の徳政令を出す一方で、越訴(訴訟の再審制)を廃止するなど御家人を統制しました。
 1301年(正安3)執権職を北条師時に譲って出家し、崇演と号しながら、得宗として幕政を指導します。1305年(嘉元3)に、内管領の北条宗方によって、連署の北条時村が殺害され、宗方の陰謀とし誅殺する事件(嘉元の乱)が起こりました。
 1311年(応長元)には第10代執権の師時が死去し、その約1ヶ月後の10月26日に、北条貞時も数え年40歳で亡くなります。

〇北条貞時関係略年表(日付は旧暦です)

・1272年(文永8)12月12日 鎌倉幕府第8代執権の父・北条時宗の嫡男(母・安達泰盛の娘)として生まれる
・1277年(建治3)12月2日 元服して貞時と名乗ります
・1281年(弘安4) 第2回元寇(弘安の役)が起こる
・1282年(弘安5)6月27日 従五位下に叙し、左馬権頭に任官する
・1284年(弘安7)4月4日 幕府の第9代執権となる
・1285年(弘安8)4月18日 相模守に遷任される
・1285年(弘安8)11月17日 頼綱の讒言により泰盛を討伐する命を下す(霜月騒動)
・1287年(弘安10)1月5日 従五位上に昇叙する
・1289年(正応2)1月5日 正五位下に昇叙する
・1289年(正応2)6月25日 従四位下に昇叙する
・1293年(正応6)4月 平禅門の乱が起こる
・1297年(永仁5)3月 永仁の徳政令を出す
・1301年(正安3)4月12日 従四位上に昇叙する。
・1301年(正安3)8月22日 執権職を北条師時に譲って出家し、崇演と号する
・1305年(嘉元3)4月23日 嘉元の乱が起こる
・1311年(応長元)9月21日 第10代執権北条師時が死去する
・1311年(応長元)10月26日 鎌倉において死去する(享年40歳、満39歳没)
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、明治時代後期の1909年(明治42)に、写真家土門拳の生まれた日です。
 土門拳(どもん けん)は、山形県飽海郡酒田町鷹町(現在の酒田市相生町)に父・土門熊造、母・とみえの長男として生まれました。1916年(大正5)に一家で東京へ移住し、1918年(大正7)には神奈川県横浜市磯子区へ転居しました。
 1928年(昭和3)に旧制神奈川県立第二中学校(現在の神奈川県立横浜翠嵐高等学校)を卒業後、逓信省の倉庫用務員となります。その後、弁護士の書生など職を転々としたあと、1933年(昭和8)に、東京の上野にあった宮内写真場に内弟子として入門し、写真の道に入りました。
 1935年(昭和10)には、名取洋之助の主宰する日本工房に入って報道写真家の道を歩み始めます。1938年(昭和13)に、田村茂、藤本四八、濱谷浩らと青年報道写真研究会を結成しましたが、翌年に著作権の取り扱いをめぐって名取と対立し、日本工房を退社しました。
 外務省の外郭団体国際文化振興会の嘱託となり、奈良県の室生寺を訪れて、代表作「古寺巡礼」シリーズの撮影に着手します。1941年(昭和16)に、文楽の人形や名人たちの撮影を開始し、徴兵検査を受けるものの不合格となり帰郷しました。
 太平洋戦争後は、フリーランスとなり、各カメラ雑誌で幅広く活動し、リアリズムを提唱して、熱心にアマチュアの指導にあたります。
 その中で、写真集の『室生寺』(1954年)、『ヒロシマ』(1958年)、『筑豊のこどもたち』(1960年)などを刊行し、日本写真批評家協会賞(1958年)、毎日写真賞(1958年)、芸術選奨(1960年)などを受賞しました。
 一方、日本の伝統文化にも眼をむけ、1938~51年に『古寺巡礼』全5巻を発表して、第19回菊池寛賞(1971年)も受けています。
 木村伊兵衛とともに戦後の写真界をリードしてきましたが、1979年(昭和54)に、脳血栓で倒れ、意識が戻らないまま、1990年(平成2)9月15日に、東京において80歳で亡くなりました。
 それを顕彰するため、1982年(昭和57)に、毎日新聞主催により、プロ写真家を対象とする「土門拳賞」が設けられ、1983年(昭和58)に生地である酒田市に「土門拳記念館」が開館しています。

〇土門拳の主要な著作

・写真集『風貌』アルス(1953年)
・写真集『室生寺』美術出版社(1954年)
・写真集『ヒロシマ』研光社(1958・) 
・写真集『筑豊のこどもたち』パトリア書店(1960年)
・写真集『るみえちゃんはお父さんが死んだ 続・筑豊のこどもたち』研光社(1960年)
・写真集『古寺巡礼』第1~5集(1963~75年)
・随筆集『死ぬことと生きること』正・続 築地書館(1974年) 
・写真論集『写真作法』ダヴィッド社(1976年)
・写真集『風景』矢来書院(1976年)
・随筆集『三人三様』共著 講談社(1977年)
・写真集『生きているヒロシマ』築地書館(1978年) 
・『写真批評』ダヴィッド社(1978年)
・随筆集『写真随筆』ダヴィッド社(1979年)
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、江戸時代中期の1708年(宝永5)に、数学者・和算の祖関孝和の亡くなった日ですが、新暦では12月5日となります。
 関孝和(せき たかかず)は、1642年(寛永19)頃に、江戸城の天主番(150石)だった父・内山永明の次男(母は湯浅与右衛門の娘)として生まれましたが、通称は新助、字は子豹(しひょう)と言いました。
 若くして関家の養子となり、甲府の徳川綱重とその子綱豊に仕えます。甲府藩における国絵図の作成に関わり、また授時暦を深く研究しました。
 その中で、独学で数学を習得したとされ、1674年(延宝2)『発微算法(はつびさんぽう)』を刊行しましたが、初めて筆算による代数(点竄術)を創始して、和算を高等数学として高める基礎を作ります。
 また、暦の作成の過程で、円周率を求める必要があったので、1681年(天和元)頃に角数の多い正多角形を使って、小数第11位まで算出しました。1683年(天和3)には、『解伏題之法』で交式斜乗の法と称して、世界に先駆けて行列式を作ったとされています。
 1704年(宝永元)に、綱豊が江戸幕府第6代将軍家宣となって、江戸城に入ると共に、幕府直属の武士となり、西の丸御納戸組頭250俵10人扶持(のち300俵)となりました。1706年(宝永3)に病のため職を辞し、1708年(宝永5年10月24日)に、江戸において亡くなります。
 死後、弟子の荒木村英が遺稿を整理して、1712年(正徳2)『括要算法』4巻を刊行しましたが、不定方程式、正多角形の辺と対角線の関係式、級数の和、ベルヌーイ数、近似分数、外挿法、円および球の求積などが書かれていました。
 その後、弟子や系列に連なる和算家たちが「関流」と称するようになります。

〇関孝和の主要な著書

・『発微算法』(1674年)
・『授時発明』(1680年)
・『授時暦経立成之法』(1681年)
・『解伏題之法』(1683年)
・『関訂書』(1686年)
・『括要算法』4巻(1712年)
・『天文数学雑著』
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、明治時代前期の1871年(明治4)に、詩人・英文学者土井晩翠の生まれた日ですが、新暦では12月5日となります。
 土井晩翠(どい ばんすい)は、仙台県仙台の北鍛治町(現在の宮城県仙台市青葉区)で、富裕な質屋の父・土井林七、母・あいの長男として生まれましたが、本名は林吉と言い、最初姓は「つちい」と呼んでいました。
 仙台の第二高等中学校(後の第二高等学校)を経て、1894年(明治27年)に帝国大学英文科(現在の東京大学文学部)に入学します。在学中は、雑誌『帝国文学』の編集委員となって作品を発表、同派の詩人として名をなし、1897年(明治30)に東京帝国大学文科大学英文学科を卒業しました。
 その後、郁文館中学に就職し、1898年(明治31)にはカーライルの『英雄論(英語版)』を翻訳出版、東京音楽学校編『中学唱歌』のために『荒城の月』を作詞、翌年には第1詩集『天地有情』を刊行します。
 漢語を多用する男性的な新体詩人として、島崎藤村と並称されるようになり、1900年(明治33)には、母校である第二高等学校教授となり帰郷しました。
 そして、第2詩集『暁鐘』(1901年)を出してから、職を辞してヨーロッパを遊学し、1904年(明治37)に帰国、翌年に第二高等学校に復職します。
 第3詩集『東海遊子吟』(1905年)を出し、それからは、評論、翻訳で多数の著作をなしましが、カーライルやバイロンなどのすぐれた訳業が知られました。
 それらによって、1947年(昭和22)に日本芸術院会員となり、1950年(昭和25)には、詩人としては初めて文化勲章を受章します。しかし、1952年(昭和27)10月19日に、仙台市の自宅において、80歳で亡くなりました。

〇土井晩翠の主要な著作

・第1詩集『天地有情』(1899年)
・第2詩集『暁鐘』(1901年)
・第3詩集『東海遊子吟』(1905年)
・第4詩集『曙光』 (1919年)
・第5詩集『天馬の道に』(1920年)
・翻訳『チャイルド・ハロウドの巡礼(英語版)』バイロン作(1924年)
・第6詩集『アジアに叫ぶ』(1932年)
・第7詩集『神風』(1937年)
・翻訳『イーリアス』ホメロス作(1940年)
・翻訳『オヂュッセーア』ホメロス作(1943年)
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、1945年(昭和20)に、GHQが「日本教育制度ニ対スル管理政策」(SCAPIN-178)を出した日です。
 太平洋戦争終結にあたり、日本が受諾した「ポツダム宣言」の軍国主義の除去、日本の民主化の条項において、教育分野では、軍国的思想や軍事教育を一掃し、科学的思考力や平和愛好の精神を育てることが求められました。
 その中で、敗戦後の日本政府は、学徒動員解除、学徒軍事教育の廃止措置、平常授業の再開、学徒隊廃止、教科書の軍国教育的部分を塗りつぶした「墨ぬり教科書」、集団疎開学童の復帰などの一連の平時に戻す措置を行ないます。
 しかし、これらの措置においても「益々国体ノ護持ニ努ムル」という旧態依然とした教育理念が問題視されました。
 そこで、連合国軍最高司令部(GHQ)は1945年(昭和20)10月22日に、「日本教育制度ニ対スル管理政策」(SCAPIN-178)を出し、学校の教育内容から軍国主義、超国家主義を廃し、代りに基本的人権の思想に合致する諸概念の教授および実践の確立を奨励したのです。
 具体的には、A、第一は軍国主義、国家主義の禁止で、第二は言論、思想、集会、信教の自由の確立。B、教師や教育関係の関係者は、できるだけ早く、公的機関で軍国主義者だったかの調査を受け、そうだったものは追放される。C、現在の教科書などから軍国主義的な一面を削除し、平和的公民養成の新教科目、新教科書を準備し、初等教育の教員養成を急げと指示しました。
 この指令を厳格に実施させるため、10月30日に「教員及び教育関係者の調査、除外、認可に関する件」(教育関係者の資格についての指令)、12月15日に「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督並びに弘布の廃止に関する件」(国家神道についての指令)、12月31日に「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」(修身科・国史科・地理科の中止についての指令)が出されます。
 これらは教育に関する連合国軍最高司令部(GHQ)の「四大指令」といわれ、その後の軍国主義者の教職追放、教科書の編集、教科の編成、学校制度、教育行政に影響を与え、民主教育が目指されることとなりました。

〇「日本教育制度ニ対スル管理政策」(SCAPIN-178) 1945年(昭和20)10月22日発令

(昭和二十年十月二十二日連合国軍最高司令部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府ニ対スル覚書)

一 日本新内閣ニ対シ教育ニ関スル占領ノ目的及政策ヲ充分ニ理解セシムル連合国軍最高司令部ハ茲ニ左ノ指令ヲ発スル

A 教育内容ハ左ノ政策ニ基キ批判的ニ検討、改訂、管理セラルベキコト
(1)軍国主義的及び極端ナル国家主義的イデオロギーノ普及ヲ禁止スルコト、軍事教育ノ学科及ビ教練ハ凡テ廃止スルコト
(2)議会政治、国際平和、個人ノ権威ノ思想及集会、言論、信教ノ自由ノ如キ基本的人権ノ思想ニ合致スル諸概念ノ教授及実践の確立ヲ奨励スルコト

B アラユル教育機関ノ関係者ハ左ノ方針ニ基キ取調ベラレソノ結果ニ従ヒ夫々留任、退職、復職、任命、再教育又ハ転職セラルベキコト
(1)教師及ビ教育関係官公吏ハ出来得ル限リ迅速ニ取調ベラルベキコト、アラユル職業軍人乃至軍国主義、極端ナル国家主義ノ積極的ナル鼓吹者及ビ占領政策ニ対シテ積極的ニ反対スル人々ハ罷免セラルベキコト
(2)自由主義的或ハ反軍的言論乃至行動ノ為解職又ハ休職トナリ或ハ辞職ヲ強要セラレタル教師及ビ教育関係官公吏ハ其ノ資格ヲ直ニ復活セシメラルベキコトヲ公表シ、且ツ彼等ガ適当ナル資格ヲ有スル場合ハ優先的ニ之ヲ復職セシムルコト
(3)人権、国籍、信教、政見又ハ社会的地位ヲ理由トスル学生、教師、教育関係官公吏ニ対スル差別待遇ヲ禁止スル、而シテ叙上ノ差別待遇ヨリ生ジタル不公平ハ直チニ是正セラルベキコト
(4)学生、教師、教育関係官公吏ハ教授内容ヲ批判的理智的ニ評価スルコトヲ奨励セラルベク、マタ政治的、公民的、宗教的自由ヲ含ム各般ノ事項ノ自由討議ヲ許容セラルベキコト
(5)学生、教師、教育関係官公吏及ビ一般民衆ハ連合軍占領ノ目的及ビ政策、議会政治ノ理論及実践ニ就テ知ラシメラルベキコト

マタ軍国主義的指導者、ソノ積極的協力者ノ演ジタル役割並ニソノ消極的黙認ニヨリ日本国民ヲ戦争ニ陥レ、不可避的ナル敗北ト困窮ト現在ノ悲惨ナル状態トヲ結果セシメタル者ノ演ジタル役割ヲ知ラシメラルベキコト

C 教育過程ニ於ケル技術的内容ハ左ノ政策ニ基キ批判的ニ検討、改訂、管理セラルベキコト

(1)急迫セル現情ニ鑑ミ一時的ニ其ノ使用ヲ許サレテヰル現行ノ教課目、教科書、教授指導書ソノ他ノ教材ハ出来得ル限り速カニ検討セラルベキデアリ、軍国主義的乃至極端ナル国家主義的イデオロギーヲ助長スル目的ヲ以テ作成セラレタル箇所ハ削除セラルベキコト
(2)教育アル平和的且ッ責任ヲ重ズル公民ノ養成ヲ目指ス新教科目、新教科書、新教師用参考書、新教授用材料ハ出来得ル限リ速カニ準備セラレ現行ノモノト代ヘラルベキコト
(3)正常ニ実施セラレツツアル教育体制ハ出来得ル限り迅速ニ再建セラルベキデアルガ未ダ設備等不充分ノ場合ハ初等教育及ビ教員養成ヲ優先セシメルコト

二 日本文部省ハ連合国軍最高司令部ノ該当部局ト適当ニ連絡シ得ルヤウナ機関ヲ設ケ且之ヲ維持スルコト、而シテ連合国軍側ノ要求ニ応ジ本指令各条項ニ基イテ為サレタル実施事項ノ詳細ナル説明報告ヲ提出スベキコト

三 日本政府ノ官公吏、属僚ニシテ本指令各条項実施ニ関与スル者並ニ公立、私立ヲ問ハズ凡テノ教師及学校教職員ハ本指令ニ明示シアル政策ノ精神並ニ条文ヲ遵奉スル個人的責任ヲ負フモノトス

   「文部科学省ホームページ」より

☆民主化関係の主要な連合国最高司令官指令(SCAPIN)一覧

<1945年(昭和20年)>
・9月2日 SCAPIN-1 陸海軍解体・軍需工業停止などを指令
・9月10日 SCAPIN-16 「言論及び新聞の自由に関する覚書」
・9月10日 SCAPIN-17 13日24時までの大本営廃止を発令
・9月21日 SCAPIN-33 「日本に与うる新聞遵則」(プレスコード)
・10月4日 SCAPIN-93 「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」
・10月16日 SCAPIN-146 「映画企業に対するの日本政府の統制の撤廃に関する覚書」
・10月22日 SCAPIN-178 「日本教育制度ニ対スル管理政策」
・10月30日 SCAPIN-212 「教育及ビ教育関係官ノ調査、除外、認可ニ関スル件」
・11月6日 SCAPIN-244 「持株会社解体に関する司令部覚書」
・11月24日 SCAPIN-337 「戦時利得の除去及び国家財政の再編成に関する覚書」
・12月9日 SCAPIN-411 「農地改革ニ関スル覚書」
・12月15日 SCAPIN-448 「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(神道指令)
・12月31日 SCAPIN-519 学校教育における「修身、日本歴史及ビ地理停止ニ関スル件」

<1946年(昭和21年)>
・1月4日 SCAPIN-548  超国家主義団体の解体の指令
・1月4日 SCAPIN-550 公職追放の指令
・1月21日 SCAPIN-642 公娼廃止の指令
・1月28日 SCAPIN-658 「映画検閲に関する覚書」
・2月27日 SCAPIN-775 「社会救済に関する覚書」
・10月12日 SCAPIN-1266 日本史学科再開はSCAP認可の教科書使用を条件とする旨の指令
・10月25日 SCAPIN-1294 石油関係法令廃止と配給会社解散を指令

<1948年(昭和23年)>
・2月4日 SCAPIN-1855 「農地改革ニ関スル覚書」
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ