北条貞時(ほうじょう さだとき)は、1272年1月14日(文永8年12月12日)に、相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)において、鎌倉幕府第8代執権だった父・北条時宗の嫡男(母は安達泰盛の娘)として生まれましたが、幼名は幸寿丸と言いました。
1277年(建治3)に元服して貞時と名乗り、1281年(弘安4)に第2回元寇(弘安の役)が起きています。
1282年(弘安5)従五位下に叙し、左馬権頭に任官、1284年(弘安7)4月4日には、14歳で幕府の第9代執権となりました。
得宗専制政治の確立を意図して、1285年(弘安8)に内管領平頼綱と対立していた外祖父泰盛を排除して安達氏一族を滅ぼしました(霜月騒動)。
その後、権勢を振るっていた平頼綱を、1293年(正応6)自ら滅ぼし(平禅門の乱)、幕政の実権を握ります。そして、要職に御内人を配するなど得宗としてその権力を強化しました。
また、窮乏化した御家人救済のため、1297年(永仁5)に永仁の徳政令を出す一方で、越訴(訴訟の再審制)を廃止するなど御家人を統制しました。
1301年(正安3)執権職を北条師時に譲って出家し、崇演と号しながら、得宗として幕政を指導します。1305年(嘉元3)に、内管領の北条宗方によって、連署の北条時村が殺害され、宗方の陰謀とし誅殺する事件(嘉元の乱)が起こりました。
1311年(応長元)には第10代執権の師時が死去し、その約1ヶ月後の10月26日に、北条貞時も数え年40歳で亡くなります。
〇北条貞時関係略年表(日付は旧暦です)
・1272年(文永8)12月12日 鎌倉幕府第8代執権の父・北条時宗の嫡男(母・安達泰盛の娘)として生まれる
・1277年(建治3)12月2日 元服して貞時と名乗ります
・1281年(弘安4) 第2回元寇(弘安の役)が起こる
・1282年(弘安5)6月27日 従五位下に叙し、左馬権頭に任官する
・1284年(弘安7)4月4日 幕府の第9代執権となる
・1285年(弘安8)4月18日 相模守に遷任される
・1285年(弘安8)11月17日 頼綱の讒言により泰盛を討伐する命を下す(霜月騒動)
・1287年(弘安10)1月5日 従五位上に昇叙する
・1289年(正応2)1月5日 正五位下に昇叙する
・1289年(正応2)6月25日 従四位下に昇叙する
・1293年(正応6)4月 平禅門の乱が起こる
・1297年(永仁5)3月 永仁の徳政令を出す
・1301年(正安3)4月12日 従四位上に昇叙する。
・1301年(正安3)8月22日 執権職を北条師時に譲って出家し、崇演と号する
・1305年(嘉元3)4月23日 嘉元の乱が起こる
・1311年(応長元)9月21日 第10代執権北条師時が死去する
・1311年(応長元)10月26日 鎌倉において死去する(享年40歳、満39歳没)