ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2018年10月

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 今日は、1943年(昭和18)に、「軍需会社法」が公布(施行は12月17日)された日です。
 この法律は、太平洋戦争下の1943年(昭和18)11月1日に、「軍需省官制」(勅令第824号)に基づき、商工省の大半と企画院の国家総動員部門を統合して軍需省が設置されたのに伴い、軍需生産の責任制を明確にするために1943年(昭和18)10月31日に公布された法律で、同年12月17日に施行されました。
 「本法ニ於テ軍需会社トハ兵器、航空機、艦船等重要軍需品其ノ他軍需物資ノ生産、加工及修理ヲ為ス事業ヲ営ム会社ニシテ政府ノ指定スルモノヲ謂フ(後略)」(第2条)と規定され、航空機増産を中心に軍需生産を強化するため、必要な会社を軍需会社に指定し、「国家要請ニ応エ全力ヲ発揮シ責任ヲ以テ軍需事業ノ遂行ニ当ルベシ」(第3条)としています。
 この法律により軍需会社として指定された会社には、商法の役員とは別に政府に対して、会社全体について責任を負う生産責任者と、現場について責任を負う生産担当者をおくことが義務づけられ、さらに会社の従業員は両者の指揮下に置かれることになりました。
 政府は生産責任者を解任したり(第4条)、定款変更や懲戒の命令権(第2条)を持つなど、政府が企業に直接統制を加えるものとなっています。
 また、1944(昭和19)年1月に出された大蔵省通達「軍需会社に対する資金融通に関する件」にもとづいて、軍需会社指定金融機関制度も導入され、軍需会社には大蔵省から特定の金融機関が定められました。
 「軍需会社」として指定を受けた会社数は、施行時の第一次指定が150社、翌年4月の第二次指定が424社、1945年(昭和20)年3月時点で総数678社に及んでいます。

〇「軍需会社法」に基く第一回指定(12月17日)の軍需会社一覧(150社)

・三菱重工業
・中島飛行機
・川崎航空機
・立川飛行機
・日本国際航空工業
・愛知航空機
・川西航空機
・昭和飛行機
・日本飛行機
・九州飛行機
・日立航空機
・石川島航空工業
・日本楽器
・住友金属工業
・東京飛行機
・東京航空機
・富士飛行機
・太刀洗航空機
・松下航空工業
・中島航空金属
・日本光学工業
・中央工業
・日本建鉄工業
・愛知時計電機
・東京光学機械
・東京航空計器
・小西六写真工業
・川西機械
・田中航空計器
・住友通信工業
・日本無線
・松下無線
・日本電池
・湯浅蓄電池製造
・富士電機製造
・日本電気兵器
・芝浦製作所
・日立兵器
・服部時計店
・日野重工業
・池貝自動車製造
・日本造船
・沼津兵器
・関東工業
・九州兵器
・旭兵器製造
・関東電気工業
・東京製綱
・函館船渠
・三井造船
・東京石川島造船所
・浦賀船渠
・川南工業
・播磨造船所
・藤永田造船所
・日立造船
・日本製鉄
・日本鋼管
・中山製鋼所
・尼崎製鋼所
・小倉製鋼
・川崎重工業
・日本冶金工業
・神戸製鋼所
・日立製作所
・日本製鋼所
・大同製鋼
・日本特殊鋼
・特殊製鋼
・三菱製鋼
・日本軽金属
・日本曹達
・昭和電工
・日本アルミニュウム
・住友化学工業
・住友アルミニュウム製錬
・日東化学工業
・国産軽銀工業
・大日本化学工業
・浅野セメント
・東北振興アルミニュウム
・理研金属
・関東電化工業
・帝国マグネシウム
・旭電化工業
・信越化学工業
・日本マグネシウム
・古河電気工業
・日立精機
・芝浦工作機械
・大日本兵器
・三菱工作機械
・大阪機工
・唐津鉄工所
・大阪鉄工所
・新潟鉄工所
・池貝鉄工所
・東洋工業
・三井精機工業
・津上安宅製作所
・日本精工
・東洋ベアリング
・不二越鋼材工業
・住友電気工業
・東京芝浦電気
・三菱電機
・芝浦共同工業
・住友機械工業
・小松製作所
・関東特殊製鋼
・久保田鉄工所
・日産自動車
・トヨタ自動車
・ヂーゼル自動車工業
・日本内燃機
・東洋高圧工業
・日本窒素肥料
・日窒化学工業
・三井化学工業
・保土谷化学工業
・日本化成工業
・日本合成化学工業
・日本火薬製造
・旭硝子
・日本油脂
・昭和農産化工
・合同酒精
・ミヨシ化学興業
・大日本油脂
・日本特殊製造
・日本石油
・三菱石油
・東亜燃料工業
・昭和石油
・丸善石油
・三池石油合成
・日産液体燃料
・尼崎人造石油
・宇部油化工業
・宇部興産
・北海道人造石油
・日本車両製造
・汽車製造
・川崎車両
・田中車両
・帝国車両工業
・三井木船建造
・帝国特殊製鋼
・島津製作所
・松下造船
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 今日は、明治時代前期の1874年(明治7)に、評論家・イギリス文学者・翻訳家・詩人上田敏の生まれた日です。
 上田敏(うえだ びん)は、東京築地(現在の東京都中央区)において、旧幕臣だった幕末の儒者の父・乙骨耐軒 (おつこつたいけん) の次男(母は孝子)として生まれました。
 静岡尋常中学、私立東京英語学校を経て、1889年(明治22)に第一高等学校に入学し、北村透谷・島崎藤村らの『文学界』同人となります。1894年(明治27)に東京帝国大学英文科に進学し、翌年に『帝国文学』の創刊に参画し、フランス象徴詩などの海外文学の紹介を精力的に行いました。
 1897年(明治30)に卒業後、東京高等師範学校で教鞭をとり、評伝『耶蘇(やそ)』(1899年)をはじめ、訳文集『みをつくし』、評論集『最近海外文学』文友、『文芸論集』春陽堂、評論集『詩聖ダンテ』(ともに1901年)と多彩な西欧文学紹介の著作をまとめます。
 1902年(明治35)に雑誌『芸苑(げいえん)』を出しますが1号で廃刊、続いて『芸文』『万年艸(まんねんぐさ)』を出し、訳詩を試み、その中で、1905年(明治38)に出した訳詩集『海潮音』は、日本象徴詩運動の先駆をなし、詩壇に大きな影響を与えました。そこに収められたドイツの詩人カール・ブッセの詩『山のあなた』を訳した「山のあなたの空遠く 「幸」住むと人のいふ……」やフランスの詩人ポール・ヴェルレーヌの詩『落葉』を訳した「秋の日の ヴィオロンの ためいきの……」は特に有名です。
 1908年(明治41)欧州へ留学後、京都帝国大学教授となり、森鴎外とともに『三田文学』、『スバル』の顧問ともなって活躍しました。
 1910年(明治43)に、慶應義塾大学文学科顧問に就任しましたが、1916年(大正5)7月9日に、東京の自宅において、43歳で亡くなっています。

〇上田敏の主要な著作

・評伝『耶蘇(ヤソ)』博文館(1899年)
・訳文集『みをつくし』文友館(1901年)
・評論集『最近海外文学』文友館(1901年)
・評論集『文芸論集』春陽堂(1901年)
・評論集『詩聖ダンテ』金港堂(1901年)
・訳詩集『海潮音』本郷書院(1905年)
・『文芸講話』金尾文淵堂(1907年)
・小説『うづまき』大倉書店(1910年)
・『現代の芸術』実業之日本社(1916年)
・訳詩集『牧羊神』金尾文淵堂(1920年)
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 今日は、江戸時代後期の1815年(文化12)に、幕末の大老・彦根藩第15代藩主井伊直弼の生まれた日ですが、新暦では11月29日となります。
 井伊直弼(いい なおすけ)は、近江国彦根城内(現在の滋賀県彦根市)において、彦根藩第13代藩主の父・伊井直中の十四男(母は側室お富の方)としてに生まれましたが、幼名は鉄之介、のち鉄三郎と言いました。
 1831年(天保2)の父の死後、三の丸尾末町の屋敷(埋木舎)に移り、32歳までの15年間を300俵の部屋住みとして過ごしましたが、文武を修業し、国学者長野主膳に師事します。
 1846年(弘化3)に兄である第14代藩主直亮の養子となり、1850年(嘉永3)に、直亮が亡くなると家督を継いで第15代藩主に就き、掃部頭(かもんのかみ)と称しました。
 藩政改革に努め、1853年(嘉永6)ペリーの浦賀来航に際しては、彦根藩として相洲警備の重責を果たします。開国和親を主張し、尊王攘夷派の阿部正弘・徳川斉昭などと対立、将軍継嗣問題でも血統論から紀伊の徳川慶福を推し、一橋慶喜を推す尊王攘夷と対峙しました。
 老中堀田正睦らの要請で、1858年(安政5)4月23日に幕府の大老に就任し、勅許を得ないまま同年6月19日に「日米修好通商条約」に調印して、尊王攘夷派の反感を買いました。さらに、同年​10月25日には、一橋(徳川)慶喜擁立派を押さえて、14代将軍を徳川慶福(家茂)とすることに成功します。
 この中で翌年にかけて、反対する一橋慶喜擁立派の公卿・大名・志士ら百余名を処罰し、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等8名を死刑とする、いわゆる「安政の大獄」が起こります。
 このため恨みを買って、1860年(万延元年3月3日)の桜田門外の変で水戸・薩摩の浪士に、数え年46歳で暗殺されました。
 尚、禅・国学・和歌など諸学芸に通じ、茶道では石州流を学んで自ら一派を立てるほどで、『茶湯一会集(いちえしゅう)』を著しています。

〇安政の大獄とは?

 幕末の1858年(安政5)から翌年にかけて、大老井伊直弼が行った尊王攘夷派に対して行なった弾圧です。
 安政の五か国条約の調印および将軍継嗣問題(家茂を14代将軍に定めたこと)に対して、反対する一橋慶喜擁立派の公卿・大名・志士ら百余名を処罰し、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等8名を死刑としました。
 この事件は、井伊直弼が1860年(安政7)に江戸城外で暗殺された桜田門外の変のきっかけとなります。

〇桜田門外の変とは?

 幕末の1860年(安政7年3月3日)に、江戸幕府の大老井伊直弼が、水戸浪士等18名により、江戸城の桜田門外で暗殺された事件です。
 井伊直弼が勅許を得ずに、「日米修好通商条約」に調印したことと「安政の大獄」で、尊皇派を弾圧したことに水戸浪士等が憤激して起こしました。
 この事件で、幕府の衰退が明らかになり、鎖国攘夷を主張する朝廷や諸雄藩の非難をさらに受けて危機が深まります。
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 今日は、江戸時代後期の1860年(万延元)に、教育者・柔道家・講道館柔道の創始者嘉納治五郎の生まれた日ですが、新暦では12月10日となります。
 嘉納治五郎(かのう じごろう)は、摂津国菟原郡御影村(現在の兵庫県神戸市東灘区御影町)で、廻船問屋を営む父・嘉納治郎作(希芝)と母・定子の三男として生まれましたが、幼名は伸之助と言いました。
 1870年(明治3)に、明治新政府に招聘された父の下へと上京し、箕作秋坪塾などで書道・英語等を学んだ後、官立東京開成学校(のちの東京大学)に進学します。1877年(明治10)に東京大学に入学し、在学中から自身の虚弱非力を克服し、自らの意志を鍛錬する手段として古流柔術に注目するようになり、福田八之助について天神真楊流、飯久保恒年について起倒流の柔術を学びました。
 大学卒業後、柔術の抜本的な合理化と体系化に取り組むため、1882年(明治15)に、東京下谷永昌寺内に私塾講道館を開き門弟に柔術を指導するようになります。やがて門下に西郷四郎、横山作次郎らの俊秀が集まり、1884年(明治17)の警視庁主催の武道大会で好成績を収め、世間に知られることになりました。1888年(明治21)には、古来の柔術を改良した“柔道”の成立を宣言し、以来講道館柔道を完成させていきます。
 一方で、1883年(明治16)に学習院の講師となり英語と理財学を教え、院長谷干城の信任を得、4年後には教授兼教頭を命ぜられました。1892年(明治25)には文部省参事官に転じ、第五高等中学校校長等を経て、1894年(明治27)に東京高等師範学校(現在の筑波大学)校長となり、以来24年にわたって(二度の中断あり)勤めます。
 1909年(明治42)に日本最初の国際オリンピック委員会(IOC)委員となり、日本のオリンピック参加に尽力し、1911年(明治44)には、大日本体育協会(のちの日本体育協会)を創立して、初代会長に就任、翌年、日本のオリンピック初参加となった第5回ストックホルム大会には選手2人を率いて行きました。
 1938年(昭和13)に、カイロでのIOC総会で第12回東京オリンピック大会招致に成功(のち戦争のため中止)しましたが、帰路の氷川丸船上において、同年5月4日に77歳で病死します。
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 今日は、昭和時代後期の1977年(昭和52)に、日本画家前田青邨の亡くなった日です。
 前田青邨(まえだ せいそん)は、1885年(明治18)1月27日に、岐阜県恵那郡中津川村(現在の中津川市)で、食料品屋(乾物屋)を営む父・常吉、母・たかの次男として生まれましたが、本名は廉造と言いました。
 1898年(明治31)に上京して、京華中学校に入学するものの体をこわして中途退学して帰郷します。1901年(明治34)に再び上京し、尾崎紅葉の勧めで梶田半古の門に入りましたが、2歳年上で塾頭の小林古径を知り、以来行動をともにするようになりました。
 翌年17歳で第12回日本絵画共進会展に『金子家忠』を出品、3等褒状を受けて半古から青邨の号をもらいます。1907年(明治40)に紅児会に入り、今村紫紅、小林古径、安田靫彦らと共に研究を重ねました。
 1912年(明治45)に岡倉天心の示唆をうけて制作した『御輿振絵巻』を第6回文展に出品、3等賞を受け、名を知られるようになります。1914年(大正3)の再興日本美術院の第1回展で『湯治場』、『竹取物語絵巻』が認められて同人に推挙されました。
 1922年(大正11)に日本美術院留学生として小林古径とともに約1年間渡欧します。1927年(昭和2)の『羅馬(ローマ)使節』、1929年(昭和4)の『洞窟の頼朝』(第1回朝日文化賞受賞)は共に高い評価を得ました。
 歴史・人物・花鳥画に秀で、美しい描線と、たらしこみ描法を用いた清新・豊麗な画風を確立し、1935年(昭和10)に帝国美術院会員、1944年(昭和19)に帝室技芸員となります。
 太平洋戦争後の1951年(昭和26)から8年間東京芸術大学教授を務め、1955年(昭和30)には文化勲章も受章しました。1967年(昭和42)の法隆寺金堂壁画再現模写、1973年(昭和48)の高松塚古墳壁画模写事業をそれぞれ監修、監督するなど文化財保護事業にも携わります。
 しかし、1977年(昭和52)10月27日に、東京において、老衰のため92歳で亡くなりました。

〇前田青邨の主要な作品

・『金子家忠』(1902年)
・『御輿振(みこしふり)絵巻』(1912年)
・『湯治場』(1914年)
・『竹取物語絵巻』(1914年)
・『清水寺(京名所八題)』(1916年)東京国立博物館蔵
・『西遊記』(1927年)MOA美術館蔵
・『羅馬(ローマ)使節』(1927年)早稲田大学蔵
・『洞窟の頼朝』(1929年)大倉集古館蔵 国指定重要文化財
・『唐獅子』(1935年)宮内庁三の丸尚蔵館蔵
・『奎堂先生』(1942年)
・『風神雷神』(1949年)
・『お水取(みずとり)』(1959年) 平木浮世絵美術館蔵
・『石棺』(1962年)東京国立近代美術館蔵
・『腑分』(1970年)山種美術館蔵
・『紅白梅図』(1970年)
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