今日は、江戸時代後期の1860年(万延元)に、教育者・柔道家・講道館柔道の創始者嘉納治五郎の生まれた日ですが、新暦では12月10日となります。
嘉納治五郎(かのう じごろう)は、摂津国菟原郡御影村(現在の兵庫県神戸市東灘区御影町)で、廻船問屋を営む父・嘉納治郎作(希芝)と母・定子の三男として生まれましたが、幼名は伸之助と言いました。
1870年(明治3)に、明治新政府に招聘された父の下へと上京し、箕作秋坪塾などで書道・英語等を学んだ後、官立東京開成学校(のちの東京大学)に進学します。1877年(明治10)に東京大学に入学し、在学中から自身の虚弱非力を克服し、自らの意志を鍛錬する手段として古流柔術に注目するようになり、福田八之助について天神真楊流、飯久保恒年について起倒流の柔術を学びました。
大学卒業後、柔術の抜本的な合理化と体系化に取り組むため、1882年(明治15)に、東京下谷永昌寺内に私塾講道館を開き門弟に柔術を指導するようになります。やがて門下に西郷四郎、横山作次郎らの俊秀が集まり、1884年(明治17)の警視庁主催の武道大会で好成績を収め、世間に知られることになりました。1888年(明治21)には、古来の柔術を改良した“柔道”の成立を宣言し、以来講道館柔道を完成させていきます。
一方で、1883年(明治16)に学習院の講師となり英語と理財学を教え、院長谷干城の信任を得、4年後には教授兼教頭を命ぜられました。1892年(明治25)には文部省参事官に転じ、第五高等中学校校長等を経て、1894年(明治27)に東京高等師範学校(現在の筑波大学)校長となり、以来24年にわたって(二度の中断あり)勤めます。
1909年(明治42)に日本最初の国際オリンピック委員会(IOC)委員となり、日本のオリンピック参加に尽力し、1911年(明治44)には、大日本体育協会(のちの日本体育協会)を創立して、初代会長に就任、翌年、日本のオリンピック初参加となった第5回ストックホルム大会には選手2人を率いて行きました。
1938年(昭和13)に、カイロでのIOC総会で第12回東京オリンピック大会招致に成功(のち戦争のため中止)しましたが、帰路の氷川丸船上において、同年5月4日に77歳で病死します。
嘉納治五郎(かのう じごろう)は、摂津国菟原郡御影村(現在の兵庫県神戸市東灘区御影町)で、廻船問屋を営む父・嘉納治郎作(希芝)と母・定子の三男として生まれましたが、幼名は伸之助と言いました。
1870年(明治3)に、明治新政府に招聘された父の下へと上京し、箕作秋坪塾などで書道・英語等を学んだ後、官立東京開成学校(のちの東京大学)に進学します。1877年(明治10)に東京大学に入学し、在学中から自身の虚弱非力を克服し、自らの意志を鍛錬する手段として古流柔術に注目するようになり、福田八之助について天神真楊流、飯久保恒年について起倒流の柔術を学びました。
大学卒業後、柔術の抜本的な合理化と体系化に取り組むため、1882年(明治15)に、東京下谷永昌寺内に私塾講道館を開き門弟に柔術を指導するようになります。やがて門下に西郷四郎、横山作次郎らの俊秀が集まり、1884年(明治17)の警視庁主催の武道大会で好成績を収め、世間に知られることになりました。1888年(明治21)には、古来の柔術を改良した“柔道”の成立を宣言し、以来講道館柔道を完成させていきます。
一方で、1883年(明治16)に学習院の講師となり英語と理財学を教え、院長谷干城の信任を得、4年後には教授兼教頭を命ぜられました。1892年(明治25)には文部省参事官に転じ、第五高等中学校校長等を経て、1894年(明治27)に東京高等師範学校(現在の筑波大学)校長となり、以来24年にわたって(二度の中断あり)勤めます。
1909年(明治42)に日本最初の国際オリンピック委員会(IOC)委員となり、日本のオリンピック参加に尽力し、1911年(明治44)には、大日本体育協会(のちの日本体育協会)を創立して、初代会長に就任、翌年、日本のオリンピック初参加となった第5回ストックホルム大会には選手2人を率いて行きました。
1938年(昭和13)に、カイロでのIOC総会で第12回東京オリンピック大会招致に成功(のち戦争のため中止)しましたが、帰路の氷川丸船上において、同年5月4日に77歳で病死します。