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 今日は、昭和時代後期の1977年(昭和52)に、日本画家前田青邨の亡くなった日です。
 前田青邨(まえだ せいそん)は、1885年(明治18)1月27日に、岐阜県恵那郡中津川村(現在の中津川市)で、食料品屋(乾物屋)を営む父・常吉、母・たかの次男として生まれましたが、本名は廉造と言いました。
 1898年(明治31)に上京して、京華中学校に入学するものの体をこわして中途退学して帰郷します。1901年(明治34)に再び上京し、尾崎紅葉の勧めで梶田半古の門に入りましたが、2歳年上で塾頭の小林古径を知り、以来行動をともにするようになりました。
 翌年17歳で第12回日本絵画共進会展に『金子家忠』を出品、3等褒状を受けて半古から青邨の号をもらいます。1907年(明治40)に紅児会に入り、今村紫紅、小林古径、安田靫彦らと共に研究を重ねました。
 1912年(明治45)に岡倉天心の示唆をうけて制作した『御輿振絵巻』を第6回文展に出品、3等賞を受け、名を知られるようになります。1914年(大正3)の再興日本美術院の第1回展で『湯治場』、『竹取物語絵巻』が認められて同人に推挙されました。
 1922年(大正11)に日本美術院留学生として小林古径とともに約1年間渡欧します。1927年(昭和2)の『羅馬(ローマ)使節』、1929年(昭和4)の『洞窟の頼朝』(第1回朝日文化賞受賞)は共に高い評価を得ました。
 歴史・人物・花鳥画に秀で、美しい描線と、たらしこみ描法を用いた清新・豊麗な画風を確立し、1935年(昭和10)に帝国美術院会員、1944年(昭和19)に帝室技芸員となります。
 太平洋戦争後の1951年(昭和26)から8年間東京芸術大学教授を務め、1955年(昭和30)には文化勲章も受章しました。1967年(昭和42)の法隆寺金堂壁画再現模写、1973年(昭和48)の高松塚古墳壁画模写事業をそれぞれ監修、監督するなど文化財保護事業にも携わります。
 しかし、1977年(昭和52)10月27日に、東京において、老衰のため92歳で亡くなりました。

〇前田青邨の主要な作品

・『金子家忠』(1902年)
・『御輿振(みこしふり)絵巻』(1912年)
・『湯治場』(1914年)
・『竹取物語絵巻』(1914年)
・『清水寺(京名所八題)』(1916年)東京国立博物館蔵
・『西遊記』(1927年)MOA美術館蔵
・『羅馬(ローマ)使節』(1927年)早稲田大学蔵
・『洞窟の頼朝』(1929年)大倉集古館蔵 国指定重要文化財
・『唐獅子』(1935年)宮内庁三の丸尚蔵館蔵
・『奎堂先生』(1942年)
・『風神雷神』(1949年)
・『お水取(みずとり)』(1959年) 平木浮世絵美術館蔵
・『石棺』(1962年)東京国立近代美術館蔵
・『腑分』(1970年)山種美術館蔵
・『紅白梅図』(1970年)