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 今日は、江戸時代後期の1856年(安政3)に、農政家・思想家二宮尊徳の亡くなった日ですが、新暦では11月17日となります。
 二宮尊徳(にのみや たかのり)は、1787年(天明7年7月23日)に、相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山)において、百姓の父・二宮利右衛門、母・好(よし)の長男として生まれましたが、通称は金次郎と言いました。
 14歳のとき父を、16歳のとき母を失い、田畑は酒匂川の洪水によって流失して、伯父の家を手伝いながら学問に励みます。『論語』、『大学』、『中庸』などを独自に学びながら、奮励努力して没落した生家を20歳で再興し、田畑約4町歩をもつ地主となりました。
 1812年(文化9)に、小田原藩家老服部十郎兵衛家の若党となり、1818年(文政元)には、服部家の家政改革を託されて、倹約と借入金の運用によりそれを成功させます。
 その手腕を認められて、小田原城主大久保忠真から模範篤農家として表彰され、1822年(文政5)には小田原藩に登用されます。
 藩主忠真より分家旗本宇津氏の領地下野国桜町領(現在の栃木県真岡市・二宮町)の領地再建を命ぜられ、1837年(天保8)にかけて、報徳仕法として他の範となる桜町仕法を施して成功しました。その他、駿河国、相模国、伊豆国、常陸国真壁、芳賀両郡、幕府の日光神領90ヵ村などの復興に従事します。
 1842年(天保13)に、江戸幕府に召し抱えられ、普請役格20俵2人扶持となって印旛沼開拓・利根川利水についての提案を行ない、晩年は、日光神領の立直しの命をうけました。
 しかし、その仕法の業の途中で、1856年(安政3年10月20日)に、下野国今市村(現在の栃木県日光市)の報徳役所において数え年70歳で病没します。
 その思想や行動は、報徳社運動として受け継がれ、明治時代には、国民教化の観点から政府によって二宮尊徳が顕彰されるようになりました。そして、1904年(明治37)以降の修身教科書には、多くの徳を備えた人物として登場することとなり、昭和時代前期には、小学校校庭の薪を背負って読書する二宮金次郎像も一般化します。

〇二宮尊徳の主要な著書

・『為政鑑(いせいかがみ)』
・『富国方法書』
・『三才報徳金毛録』