坂田昌一(さかた しょういち)は、1911年(明治44)1月18日に、東京市麹町区(現在の東京都千代田区)で、財界人坂田幹太の長男として生まれました。
大阪の7年制の旧制甲南高等学校(現在の甲南中学校・高等学校)を経て、1930年(昭和5)に、京都帝国大学理学部物理学科へ入学します。
1933年(昭和8)に卒業後、理化学研究所仁科研究室に入り、朝永振一郎と共に電子対発生の研究に取り組みました。翌年に湯川秀樹に招かれて大阪帝国大学へ移り、理学部助手(後に講師)となって、中間子理論研究に従事します。
1937年(昭和12)に、中間子論第2論文(湯川秀樹と共著)を発表、1939年(昭和14)には、湯川秀樹と共に京都帝国大学へ戻り、講師となりました。
1942年(昭和17)に「二中間子論」(谷川安孝、井上健、中村誠太郎と共著)を発表、同年名古屋帝国大学教授(後に理学部長)となります。これらの功績により、1949年(昭和24)に朝日文化賞、翌年に日本学士院恩賜賞を受賞します。
また、日本学術会議の発足(1949年)で第1期会員に選出され、以来第8期まで連続選出されました。1956年(昭和31)に素粒子の複合模型(坂田模型)、1962年(昭和37)に統一模型(新名古屋模型)を提唱して、素粒子論の新たな展開を生み出します。
一方で、研究体制の民主化や平和運動にも取り組み、1956年(昭和31)のストックホルム世界平和会議、1958年(昭和33)の第3回パグウォッシュ会議にも出席しました。
ノーベル物理学賞の有力候補と目されるようになりましたが、1970年(昭和45)10月16日に、59歳で亡くなっています。
〇坂田昌一の主要な著作
・『物理学と方法 素粒子論の背景』白東書館(1947年)
・『科学と平和の創造 一原子科学者の記録』岩波書店(1963年)
・『科学に新しい風を』新日本新書(1966年)
・『科学者と社会』岩波書店(1972年)