松尾芭蕉(まつお ばしょう)は、江戸時代前期の1644年(寛永21)に、伊賀国上野(現在の三重県伊賀市)において(伊賀国柘植出生説あり)、士分待遇の農家の松尾与左衛門の子として生まれましたが、幼名は金作、本名は宗房と言いました。
若年にして、伊賀上野の藤堂藩伊賀支城付の侍大将家の嫡子藤堂良忠(俳号蟬吟)の近習となり、良忠と共に北村季吟に俳諧を学びます。1666年(寛文6)に良忠の死とともに仕官を退き、兄の家に戻って、俳諧に精進しました。
1672年(寛文12)に郷里の天満宮に句合『貝おほひ』を奉納、延宝初年には江戸に出て上水道工事に携わったりしますが、談林派の感化を受けつつ、俳諧師の道を歩むようになります。
1680年(延宝8)には、『桃青門弟独吟二十歌仙』を刊行するにおよび、俳壇内に地盤を形成し、深川の芭蕉庵で隠逸生活に入った頃から、独自の蕉風を開拓し始めました。
1684年(貞享元)以後は、『野ざらし紀行』(1685~86年頃)、『鹿島詣』(1687年)、『笈の小文』、『更科紀行』(1688年)に書かれたように諸国を行脚するようになります。1689年(元禄2)には、もっとも著名な『おくのほそ道』の旅に弟子の河合曾良を伴って出て、東北・北陸地方を回りました。
そして、最後に西へ向かって旅立ち、大坂の南御堂で門人に囲まれて、1694年(元禄7年10月12日)に、数え年51歳で息を引き取ったと伝えられています。まさに旅に生き、旅に死するの境地で、辞世の句も「旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る」というものでした。
弟子も多く、死後は蕉門の十哲(榎本其角・服部嵐雪・各務支考・森川許六・向井去来・内藤丈草・志太野坡・越智越人・立花北枝・杉山杉風)などによって、蕉風俳諧が広められ、芭蕉は俳諧文学の第一人者とされ、俳聖とも呼ばれるようになります。
<代表的な句>
「古池や 蛙飛びこむ 水の音」、「野ざらしを 心に風の しむ身哉」、「夏草や 兵どもが 夢の跡」、「荒海や 佐渡によこたふ 天河」、「五月雨をあつめて早し 最上川」
〇『奥の細道』とは?
江戸時代中期に俳聖と呼ばれた松尾芭蕉が書いた紀行文で、最も代表的なものです。1689年(元禄2)の3月27日(新暦では5月16日)に深川芭蕉庵を愛弟子の河合曾良一人を連れて出立し、東北・北陸地方を回りながら、弟子を訪ね、歌枕を巡って歩いた日数150日、旅程600里に及ぶ大旅行のもので、9月6日(新暦では10月18日)に大垣から伊勢へ旅立つところで、結びになっています。現在では、各所に句碑や資料館が立てられ、史蹟として保存されている所も多く、いにしえの芭蕉の旅を偲ぶことも可能です。また、近年芭蕉の自筆本が発見されて話題になりました。
〇松尾芭蕉の主要な著作
<句集>
・第一集『冬の日』(1684年)
・第二集『春の日』(1686年)
・第三集『阿羅野(あらの)』(1689年)
・第四集『ひさご』(1690年)
・第五集『猿蓑(さるみの)』(1691年)
・第六集『炭俵(すみだわら)』(1694年)
・第七集『続猿蓑』(1698年)
<紀行文>
・『野ざらし紀行』(1685~86年頃)
・『鹿島詣』(1687年)
・『笈の小文』(1687~88年)
・『更科紀行』(1688年)
・『奥の細道』(1689年)
<俳文>
・『幻住庵記』(1690年)
<日記>
・『嵯峨日記』(1691年)