今日は、明治時代前期の1877年(明治10)に、北海道石狩町(現在の石狩市)で開拓使石狩缶詰所が創業し、本格的な缶詰生産が始まった日で、「缶詰の日」とされています。
開拓使石狩缶詰所は、開拓使によって北海道で産業を振興させるために作られた官営事業の一つで、鮭が豊富に獲れることから、その原料としての活用を目指してのものでした。
石狩川河口に建設され、日本で最初にアメリカ製の製缶機や製造機械を導入、1877年(明治10)10月10日から本格的な缶詰の生産を始めました。敷地内には製造工場と倉庫、職人が寝泊りする宿舎や鍛冶場、氷室などが配置され、アメリカからのお雇い外国人技師U.S.トリートと助手W.S.スウェットを指導者に、他は日本人を使い、総勢19人で操業にあたります。
最初は、石狩川で獲れた50尾の鮭を使って缶詰の生産が始まり、翌年3月までに、サケ12,092缶、スモークサーモン769本、カキ3,226缶、シカ肉9,358缶、牛肉222缶などが製造されました。
製造された缶詰(当時は管詰)は、東京や横浜はもとより、遠くアメリカやフランスの万国博覧会に出品するようになり、好評を博しました。その後開拓使缶詰工場は、別海や厚岸、エトロフ島など5ヶ所に建てられるようになります。
しかし、官営事業としては10年で終わり、1887年(明治20)に民間に払い下げられ、工場は高橋儀兵衛が引き継ぎました。それから「高橋合資会社」の経営となり、資金や人材不足などの課題を抱えながらも、1912年(明治45)まで存続しています。
缶詰は、明治時代には主に日本国外向けの輸出用、国内向けには軍需用として生産されていたため、庶民には普及しませんでしたが、1923年(大正12)の関東大震災で、アメリカから送られた支援物資に缶詰が用いられたことによって、国内にも広がってていきました。また、大正時代~昭和時代にかけて、かに、さけ、ます缶詰の輸出が盛んに行われていきます。
尚、1987年(昭和62)に、日本缶詰協会創立60周年を機に、開拓使石狩缶詰所の創業日を記念し、10月10日を「缶詰の日」と定めました。
〇缶詰とは?
食品等をブリキ缶やアルミ缶などの容器に詰め、空気を抜いて密封したあと、微生物による腐敗・変敗を防ぐために加熱・殺菌し、長期間保存できるようにしたものです。
19世紀の初めナポレオン1世の懸賞に応募したフランス人ニコラ・アペールの考案(瓶詰)によるとされ、1810年に英国人P.デュランドがブリキなどの缶を使用する特許を得ました。
日本では1871年(明治4)に、松田雅典が長崎でイワシの油漬缶詰を試作したのが最初とされ、1874年(明治7)には、アメリカ人教師ライマンから製法を習った山田箕之助が野菜缶詰を制作しました。
翌年には、勧農局の東京の内藤新宿出張所で果実缶詰の製造が試みられましたが、本格的生産は、1877年(明治10)10月10日の開拓使石狩缶詰所(北海道石狩町)が創業によってとされています。
当時の缶詰の価格は、1缶が20銭から35銭(白米1升が7.65銭の時代)で、とても高価だったので、国内の庶民には手が届きませんでした。明治時代には、主に日本国外向けの輸出用、国内向けには軍需用(兵隊の食糧)として生産されます。
1897年(明治30)に北千島漁業の開始に伴って、カニやサケ・マスの缶詰製造が始められ、1907年(明治40)の日露漁業協約締結でカムチャツカ沿岸の漁獲が可能となってからはさらに拡大されました。
その中で、1923年(大正12)の関東大震災で、アメリカから送られた支援物資に缶詰が用いられたことによって、国内にも普及していくことになります。また、ミカン、マグロ、イワシなどの缶詰製造も盛んになり、国内消費も増加、重要な輸出産業ともなりました。
戦時下で生産量が落ち込みますが、太平洋戦争後の缶詰業の伸びは特に著しく、1955年(昭和30)には早くも戦前の最高生産量を上回る水準に達しました。
開拓使石狩缶詰所は、開拓使によって北海道で産業を振興させるために作られた官営事業の一つで、鮭が豊富に獲れることから、その原料としての活用を目指してのものでした。
石狩川河口に建設され、日本で最初にアメリカ製の製缶機や製造機械を導入、1877年(明治10)10月10日から本格的な缶詰の生産を始めました。敷地内には製造工場と倉庫、職人が寝泊りする宿舎や鍛冶場、氷室などが配置され、アメリカからのお雇い外国人技師U.S.トリートと助手W.S.スウェットを指導者に、他は日本人を使い、総勢19人で操業にあたります。
最初は、石狩川で獲れた50尾の鮭を使って缶詰の生産が始まり、翌年3月までに、サケ12,092缶、スモークサーモン769本、カキ3,226缶、シカ肉9,358缶、牛肉222缶などが製造されました。
製造された缶詰(当時は管詰)は、東京や横浜はもとより、遠くアメリカやフランスの万国博覧会に出品するようになり、好評を博しました。その後開拓使缶詰工場は、別海や厚岸、エトロフ島など5ヶ所に建てられるようになります。
しかし、官営事業としては10年で終わり、1887年(明治20)に民間に払い下げられ、工場は高橋儀兵衛が引き継ぎました。それから「高橋合資会社」の経営となり、資金や人材不足などの課題を抱えながらも、1912年(明治45)まで存続しています。
缶詰は、明治時代には主に日本国外向けの輸出用、国内向けには軍需用として生産されていたため、庶民には普及しませんでしたが、1923年(大正12)の関東大震災で、アメリカから送られた支援物資に缶詰が用いられたことによって、国内にも広がってていきました。また、大正時代~昭和時代にかけて、かに、さけ、ます缶詰の輸出が盛んに行われていきます。
尚、1987年(昭和62)に、日本缶詰協会創立60周年を機に、開拓使石狩缶詰所の創業日を記念し、10月10日を「缶詰の日」と定めました。
〇缶詰とは?
食品等をブリキ缶やアルミ缶などの容器に詰め、空気を抜いて密封したあと、微生物による腐敗・変敗を防ぐために加熱・殺菌し、長期間保存できるようにしたものです。
19世紀の初めナポレオン1世の懸賞に応募したフランス人ニコラ・アペールの考案(瓶詰)によるとされ、1810年に英国人P.デュランドがブリキなどの缶を使用する特許を得ました。
日本では1871年(明治4)に、松田雅典が長崎でイワシの油漬缶詰を試作したのが最初とされ、1874年(明治7)には、アメリカ人教師ライマンから製法を習った山田箕之助が野菜缶詰を制作しました。
翌年には、勧農局の東京の内藤新宿出張所で果実缶詰の製造が試みられましたが、本格的生産は、1877年(明治10)10月10日の開拓使石狩缶詰所(北海道石狩町)が創業によってとされています。
当時の缶詰の価格は、1缶が20銭から35銭(白米1升が7.65銭の時代)で、とても高価だったので、国内の庶民には手が届きませんでした。明治時代には、主に日本国外向けの輸出用、国内向けには軍需用(兵隊の食糧)として生産されます。
1897年(明治30)に北千島漁業の開始に伴って、カニやサケ・マスの缶詰製造が始められ、1907年(明治40)の日露漁業協約締結でカムチャツカ沿岸の漁獲が可能となってからはさらに拡大されました。
その中で、1923年(大正12)の関東大震災で、アメリカから送られた支援物資に缶詰が用いられたことによって、国内にも普及していくことになります。また、ミカン、マグロ、イワシなどの缶詰製造も盛んになり、国内消費も増加、重要な輸出産業ともなりました。
戦時下で生産量が落ち込みますが、太平洋戦争後の缶詰業の伸びは特に著しく、1955年(昭和30)には早くも戦前の最高生産量を上回る水準に達しました。