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 今日は、昭和時代後期の1986年(昭和61)に、小説家石坂洋二郎の亡くなった日です。
 石坂洋二郎(いしざか ようじろう)は、明治時代後期の1900年(明治33)1月25日に、青森県弘前市代官町で生まれました。
 弘前市立朝陽小学校を経て、1913年(大正2)に青森県立弘前中学校(現在の青森県立弘前高等学校)に入学します。在学中は、小説をよく読み、少年雑誌に投書したりして卒業し、1919年(大正8)に上京して、慶應義塾大学文学部予科に入学しました。
 1925年(大正14)に慶應義塾大学文学部国文科を卒業した後、青森県立弘前高等女学校(現在の青森県立弘前中央高等学校)に勤務、翌1926年(昭和元)から秋田県立横手高等女学校(現在の秋田県立横手城南高等学校)に変わりました。
 1927年(昭和2)に『三田文学』に掲載された処女作「海をみに行く」、「炉辺夜話」で注目されるようになります。1929年(昭和4)に秋田県立横手中学校(現在の秋田県立横手高等学校)に移り、1933年(昭和8)から『三田文学』に連載された「若い人」が評判となり、1936年(昭和11)に第1回三田文学賞を受賞しました。
 翌年に本が出版されると、たちまちベストセラーになって映画化もされましたが、右翼団体の圧力をうけ、1938年(昭和13)に教員を辞職、上京して作家活動に専念し、『何処(いずこ)へ』(1941年)などを書きます。
 戦時中は陸軍報道班員として、フィリピンに派遣されたりしましたが、太平洋戦争後は、『青い山脈』(1947年)、『石中先生行状記』(1948~54年)などを書いて、ベストセラー作家となりました。
 その後も、『あじさいの歌』(1958~59年)、『河のほとり』(1961年)、『光る海』(1963年)などの新聞小説を連載し、1966年(昭和41)には、第14回菊池寛賞を受けます。
 独特のユーモアと健康で明るい庶民感覚のあふれた作品が多く、大衆に愛されて、映画化・テレビドラマ化された作品も多くありましたが、1986年(昭和61)10月7日に、静岡県伊東市の自宅において、86歳で亡くなりました。

〇石坂洋二郎の主要な作品

・『海をみに行く』 (1927年)
・『炉辺夜話』(1927年)
・『外交員』(1929年)
・『金魚』(1933年)
・『若い人』(1933年)
・『麦死なず』(1936年)
・『何処(いずこ)へ』(1941年)
・『わが日わが夢』(1946年)
・『青い山脈』(1947年)
・『暁の合唱』(1947年)
・『石中先生行状記』(1948~54年)
・『丘は花ざかり』(1952年)
・『山と川のある町』(1956年)
・『陽(ひ)のあたる坂道』(1956~57年)
・『あじさいの歌』(1958~59年)
・『河のほとり』(1961年)
・『光る海』(1963年)
・『水で書かれた物語』(1965年)