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 今日は、大正時代の1920年(大正9)に、小説家・評論家・翻訳家・ジャーナリスト黒岩涙香の亡くなった日です。
 黒岩涙香(くろいわ るいこう)は、江戸時代後期の1862年(文久2年9月29日)に、土佐国安芸郡川北村(現在の高知県安芸市川北)において、土佐藩郷士の父・黒岩市郎と母・信子の次男として生まれましたが、本名は周六と言いました。
 幼少時には、藩校文武館で漢籍を学び、16歳で大阪に出て中之島専門学校(後の大阪英語学校)で英語力を身につけます。その後17歳で上京し、成立学舎や慶應義塾に入学しましたが、卒業には至りませんでした。
 折からの自由民権運動に参加し、1882年(明治15)に、「北海道開拓使官有物払い下げ問題」に関する論文を書いて、官吏侮辱罪に問われ有罪となり、投獄されて労役に服します。
 同年に創刊された『絵入自由新聞』に入社し、2年後には主筆となって、論文や探偵小説を掲載して活躍しました。1889年(明治22)に、『都新聞』に移り、多くの小説を書いて、評判となります。
 しかし、社長と対立して退社後、1892年(明治25)に朝報社を設立し、『萬朝報(よろずちょうほう)』を創刊しました。
 同誌は、黒岩の『鉄仮面』ボアゴベイ原作(1892~93年)、『白髪鬼』マレー・コレリ原作(1893年)、『幽霊塔』ベンジスン夫人原作(1899~1900年)などの翻案小説連載と上流階級の腐敗を暴露したセンセーショナルなスキャンダル記事によって人気を博し、大衆新聞として一躍東京一の発行部数となります。
 さらに、日清戦争後は、幸徳秋水、内村鑑三、堺利彦、石川三四郎などの論客を迎えて、進歩的な論調を張り、1901年(明治34)には、社会救済を目指す理想団と称する団体を組織し、社会改良運動を起こそうとしました。
 一方で、五目並べを組織化して「連珠(聯珠)(れんじゅ)」と命名、1904年(明治37)に東京連珠社を設立し段位制を制定、自ら初代名人となって高山互楽を名乗り、『聯珠真理』(1906年)を刊行したりしました。
 ところが、日露戦争(1904~05年)に際しては、それまで非戦論を唱えていた黒岩が、時局の進展にともない開戦論に転じたため、社員内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦らが連袂退社することになります。
 それからも、大正初期の憲政擁護運動や1914年(大正3)のシーメンス事件では政府攻撃のキャンペーンを張りましたが、続く大隈内閣を擁護したことから、不評を招きました。
 晩年は、長男のために米問屋兼小売商の増屋商店を開業したりしましたが、1920年(大正9)10月6日、肺癌のため東京において、59歳で亡くなりました。

〇黒岩涙香の主要な作品

・翻訳『法廷の美人』(1888年)
・翻訳『人耶鬼耶(ひとかおにか)』(1887~88年)
・翻訳『鉄仮面』ボアゴベイ原作(1892~93年)
・翻訳『白髪鬼』マレー・コレリ原作(1893年)
・翻訳『幽霊塔』ベンジスン夫人原作(1899~1900年)
・翻訳『巌窟王(がんくつおう)』デュマ原作(1901~02年)
・翻訳『噫無情(ああむじょう)』ユゴー原作(1902~03年)
・翻訳『暗黒星』ニューコム原作(1904年)
・翻訳『八十万年後の社会』H・G・ウェルズ原作(1913年)
・評論『天人論』(1903年)
・『聯珠真理』(1906年)
・評論『人尊主義』(1910年)