ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2018年09月

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 今日は、江戸時代前期の1691年(元禄4)に、大和絵師・土佐派中興の祖土佐光起の亡くなった日ですが、新暦では11月14日となります。
 土佐光起(とさ みつおき)は、1617年(元和3年10月23日)に、和泉国堺(現在の大阪府堺市)において、土佐派の画家である父・土佐光則の子として生まれましたが、幼名は藤満丸といいました。
 1634年(寛永11)に、父とともに京都に移住、1654年(承応3)、38歳のときに従五位下左近衛将監に叙任されて、土佐光元が没して以来久しく失われていた宮廷の絵所預の職につき、土佐家再興をはたします。同年からの承応度京都御所造営では、内裏(だいり)の障壁画を描くなどしました。
 1681年(延宝9)には、絵所預の地位を子の光成に譲り、同年に仏門に入って常昭と号して剃髪、法橋となり、1685年(貞享2)には法眼にまで進みます。
 伝統的な土佐派の手法に、狩野派の要素を加え、漢画や宋の院体画の要素も取り入れて、江戸時代の土佐様式をつくりあげましたが、1691年(元禄4年9月25日)に、京都において、数え年75歳で亡くなりました。

〇土佐光起の主要な作品

<絵画>
・『粟穂鶉図屏風』(個人蔵)
・『大寺縁起絵巻』1690年頃(開口神社蔵・大阪市立美術館寄託)国指定重要文化財
・『秋郊鳴鶉図』光成との合作(東京国立博物館蔵)
・『北野天神縁起絵巻』(北野天満宮蔵)国指定重要文化財
・『厳島(いつくしま)・松島図屏風(びょうぶ)』(徳川美術館蔵)重要美術品
・『源氏物語図屏風』(東京国立博物館蔵)
・『粟穂鶉(あわほうずら)図屏風』(個人蔵)重要美術品

<著作>
・『本朝画法大伝』(1690年)
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 今日は、江戸時代中期の1744年(延享元)に、思想家・石門心学の祖石田梅岩の亡くなった日ですが、新暦では10月29日となります。
 石田梅岩(いしだ ばいがん)は、1685年(貞享2年9月15日)に丹波国桑田郡東懸村(現在の京都府亀岡市)の農家の父・石田権右衛門と母・たねの二男として生まれましたが、名は興長、通称は勘平と言いました。
 1695年(元禄8)、11歳で呉服屋に丁稚奉公に出て、その後15歳で一旦帰郷、1707年(宝永4)に,23歳で再び上京し、商家黒柳氏に20年余奉公しながら独学で神道、儒教、仏教などを学びます。
 「人の人たる道」を追求する中で、43歳で奉公を辞し、市井の隠者とされる小栗了雲に師事しました。1729年(享保14)に悟りを開き、自宅に聴講無料の講席を開き、後に「石門心学」と呼ばれる教えの普及に努めます。
 朱子学に依拠しながらも、神儒仏老荘の諸思想をも自由に取り入れるという柔軟な思考方法により、人間価値の平等や商人の利潤の正当性をみとめていたため、町人を中心として庶民の間に門弟が漸増し、大坂・河内・和泉などにも出講するようになります。
 最盛期には、門人400名にのぼり、手島堵庵、斎藤全門、富岡以直、蒹葭慈音尼らの人材を得て、心学興隆の基礎を築きます。
 生涯独身で、畿内でもっぱら教えを伝えていましたが、1744年(延享元年9月24日)に、京都の自宅において、数え年60歳で亡くなりました。

〇石田梅岩の主要な著作

・『都鄙問答(とひもんどう)』4巻(1739年)
・『倹約斉家論(けんやくせいかろん)』2巻(1744年)
・『莫妄想(まくもうそう)』
・『石田先生語録』24巻(1806年)門弟の編纂
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 今日は、江戸時代後期の儒学者・詩人頼山陽の亡くなった日ですが、新暦では10月16日となります。
 頼山陽(らい さんよう)は、1781年(安永9年12月27日)に大坂・江戸堀において、儒学者の父・頼春水、母・静子の長男として生まれましたが、幼名は久太郎(ひさたろう)と言いました。
 1781年(天明元)春水の広島藩儒登用後、しばらくして広島に移り、9歳で学問所に入学し、早くより詩文に秀でていたとされています。1797年(寛政9)には、江戸に遊学し、父の学友・尾藤二洲に学びましたが、翌年帰郷しました。
 1800年(寛政12)脱藩しますが連れ戻されて24歳まで幽閉され、この間史書執筆を志して、『日本外史』を起稿し、尊攘派につよい影響をあたえます。
 1803年(享和3)に廃嫡のうえ、幽閉を許され、郷里を出て菅茶山の廉塾の塾頭となりましたが、1811年(文化8) に京都洛中に私塾を開き、詩を教えました。
 1818年(文政元)に西日本の旅に出て、広く文人や儒者と交流し、詩才を発揮、帰京後は詩文の両面で活躍します。
 しかし、1832年(天保3年9月23日)に、京都において、肺結核により数え年53歳で亡くなりました。

〇頼山陽の主要な著作

・『日本楽府 (がふ) 』(1828年)
・『日本政記』16巻(1832年成立)
・『山陽詩鈔』8巻(1833年)
・『日本外史』22巻(1836年)
・『山陽遺稿』(1841年)
・『通議』
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 今日は、昭和時代後期の1968年(昭和43)に、第3宮古島台風により宮古島(沖縄県)で、日本歴代4位の最大瞬間風速(79.8m/s)を観測した日です。
 第3宮古島台風は、昭和時代後期の1968年(昭和43)9月12日に、沖ノ鳥島の南南東の海上で発生した、昭和43年台風第16号(国際名:Della)のことで、西から北西、北へと進路を変え、22日夜半頃に宮古島付近を通過しました。その後、南西諸島に沿って進み、24日23時過ぎに鹿児島県串木野市付近に上陸後は、急速に衰えながら九州西岸を北上し、佐賀県から長崎県にループ状に向きを変えるといった特異なコースをとり、25日12時に弱い熱帯低気圧に変わります。
 この台風により、宮古島では、最低海面気圧942.5hPa、最大風速54.3m/s、最大瞬間風速79.8m/s(日本歴代4位)を観測し、久米島(沖縄県)で最大風速43.7m/s、最大瞬間風速62.4m/s、枕崎(鹿児島県)で最大風速37.5m/s、最大瞬間風速50.1m/sを観測するなど記録的な暴風となりました。
 また、西日本の南海上にあった前線を刺激し、23日~27日にかけて九州東部、四国南部、紀伊半島南部では大雨となり、尾鷲(三重県尾鷲市)では、それまでで最多となる806.0mmの日降水量を観測します。
 この台風による被害は、全国で死者11人、負傷者80人、損壊家屋は 5,715棟、浸水15,322棟、耕地被害2,747ha、船舶被害85隻と大きなものでした。
 特に、宮古島では暴風により住家や農作物に大きな被害が出たので、その後気象庁は、この台風を第3宮古島台風と命名します。

〇日本で観測した最大瞬間風速ベスト10

1 第2宮古島台風(昭和41年台風第18号)85.3m/s 北東の風 1966年(昭和41)9月5日(沖縄県宮古島)観測
2 第2室戸台風(昭和36年台風第18号)84.5m/s 西南西の風 1961年(昭和36年)9月16日(高知県室戸岬)観測
3 平成27年台風21号 81.1m/s 南東の風 2015年(平成27年)9月28日(沖縄県与那国島)観測
4 第3宮古島台風(昭和43年台風第16号)79.8m/s 北東の風 1968年(昭和43年)9月22日(沖縄県宮古島)観測
5 昭和45年台風第9号 78.9m/s 東南東の風 1970年(昭和45年)8月13日(鹿児島県名瀬)観測
6 昭和40年台風第23 77.1m/s 西南西の風 1965年(昭和40年)9月10日(高知県室戸岬)観測
7 枕崎台風(昭和20年台風第16号)75.5m/s 南南東の風 1945年(昭和20年)9月17日(宮崎県細島)観測
8 平成15年台風第14号 74.1m/s 北の風 2003年(平成15年)9月11日(沖縄県宮古島)観測
9 昭和31年台風第12号 73.6m/s 南の風 1956年(昭和31年)9月8日(沖縄県那覇)観測
10 昭和39年台風第20号 72.3m/s 西の風 1964年(昭和39年)9月25日(愛媛県宇和島)観測

☆気象庁命名台風一覧

・洞爺丸台風(昭和29年台風第15号) 1954年[国際名:Marie]
・狩野川台風(昭和33年台風第22号) 1958年[国際名:Ida]
・宮古島台風(昭和34年台風第14号) 1959年[国際名:Sarah]
・伊勢湾台風(昭和34年台風第15号) 1959年[国際名:Vera]
・第2室戸台風(昭和36年台風第18号) 1961年[国際名:Nancy]
・第2宮古島台風(昭和41年台風第18号) 1966年[国際名:Cora]
・第3宮古島台風(昭和43年台風第16号) 1968年[国際名:Della]
・沖永良部台風(昭和52年台風第9号) 1977年[国際名:Babe]
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 今日は、明治時代前期の1874年(明治7)に、日本画家菱田春草の生まれた日です。
 菱田春草(ひしだ しゅんそう)は、筑摩県飯田町(現在の長野県飯田市)で、旧飯田藩士の菱田鉛治の三男として生まれましたが、本名は三男治(みおじ)と言いました。
 次兄為吉のすすめで、1889年(明治22)に上京し、結城正明に日本画を学んだのち、翌年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学します。
 橋本雅邦らの指導を受け、卒業制作『寡婦と孤児』(1895年)によって戦争被害を表現してその創作力を認められました。1895年(明治28)帝国博物館嘱託として京都と高野山で古画の模写に従事、翌年には東京美術学校絵画科の嘱託教員となります。
 また、日本絵画協会に加わり絵画共進会に出品、1897年(明治30)の『拈華微笑(ねんげみしょう)』で銀牌を受賞しました。
 翌年の岡倉天心の校長辞職時に、それに従って横山大観、下村観山らと共に職を辞し、日本美術院創立に参加します。日本画の革新に努め、1900年(明治33)頃から横山大観らと没線描法を試み、『菊慈童』、『雲中放鶴(ほうかく)』などを発表しましたが、朦朧体と呼ばれて非難を浴びました。
 1903年(明治36)には大観とともにインドへ渡航、翌年には岡倉、大観とともにアメリカへ渡り、ヨーロッパへも行き、パリで個展を開いて好評を博して帰国します。1906年(明治39)に日本美術院の茨城県五浦移転に伴い、同地に転居し、横山大観、下村観山とともに岡倉天心門下の三羽烏と称されるほどでしたが、眼病を患って、1908年(明治41)に東京へ戻り、代々木に住んで療養しました。
 しかし、病状が悪化する中で描いた『黒き猫』(1910年)、『早春』(1911年)などを残して、1911年(明治44)9月16日に、腎臓疾患(腎臓炎)のため、36歳で夭折しました。

〇菱田春草の主要な作品

・『寡婦と孤児』(1895年)東京藝術大学大学美術館蔵
・『四季山水』(1896年)富山県立近代美術館蔵
・『拈華微笑(ねんげみしょう)』(1897年)東京国立博物館蔵
・『水鏡』(1897年)東京藝術大学大学美術館蔵
・『菊慈童』(1900年)飯田市美術博物館蔵
・『王昭君』(1902年)山形・善寶寺蔵・国指定重要文化財
・『賢首菩薩(ぼさつ)』(1907年)東京国立近代美術館蔵・国指定重要文化財
・『落葉(おちば)』(1909年)東京・永青文庫蔵(熊本県立美術館寄託)・国指定重要文化財
・『雀(すずめ)に鴉(からす)』(1910年)東京国立近代美術館蔵
・『黒き猫』(1910年)東京・永青文庫蔵(熊本県立美術館寄託)・国指定重要文化財
・『早春』(1911年)個人蔵
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