ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2018年09月

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 今日は、平安時代前期の894年(寛平6)に、菅原道真の建白により遣唐使の停止が決定した日ですが、新暦では11月1日となります。
 遣唐使は、遣隋使を引き継いで、630年(舒明天皇2)に、犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)を大使として派遣されたのに始まり、260余年間続けられてきました。
 しかし、唐は安史の乱(755~763年)後、しだいに勢力が衰え、874年頃から起きた黄巣の乱によりさらに弱体化します。
 そこで、寛平6年(894年)に、遣唐大使となっていた菅原道真により、建議「請令諸公卿議定遣唐使進止状」が9月14日に出され、9月30日に停止されることが決まりました。
 その後、道真が左遷されて大使を解かれ、907年(延喜7)には唐が滅亡して、再開されないまま終わりを告げました。
 以下に、菅原道真の建議「請令諸公卿議定遣唐使進止状」(全文)を原文・読み下し文・現代語訳で掲載しておきますので、ご参照ください。

〇菅原道真「請令諸公卿議定遣唐使進止状」(全文) 894年(寛平6年9月14日)

請令諸公卿議定遣唐使進止状       菅原道眞

右臣某謹案在唐僧中瓘去年三月附商客王訥等所到之録記大唐凋弊載之具矣更告不朝之問終停入唐之人中瓘雖區々之旅僧爲聖朝盡其誠代馬越鳥豈非習性臣等伏撿舊記度々使等或有渡海不堪命者或有遭賊遂亡身者唯未見至唐有難阻飢寒之悲如中瓘所申報未然之事推而可知臣等伏願以中瓘録記之状遍下公卿博士詳被定其可否國之大事不獨爲身且陳欵誠伏請處分謹言

  寛平六年九月十四日 大使參議勘解由次官從四位下兼守左大辨行式部權大輔春宮亮菅原朝臣某

 『日本古典文学大系72 菅家文草 菅家後集』(岩波書店発行)による

<読み下し文>(読み仮名は、現代かなづかい)

 諸公卿をして遣唐使の進止[1]を議定せしめんことを請ふの状   菅原道真

 右臣某[2]、謹みて在唐の僧中瓘、去年三月[3]、商客[4]王訥等に附して到るところの録記を案ずるに、大唐の凋弊[5]、之を載すること[6]具なり[7]。更に不朝[8]の問を告げ、終に入唐の人を停む[9]。中瓘区々の旅僧[10]たりと雖も、聖朝のためにその誠を尽くす。代馬・越鳥[11]、豈に習性に非ざらんや。臣等、伏して旧記を検するに、度々の使等、或は海を渡りて命に堪えざりし者有り。或は賊に遭ひて遂に身を亡ぼせし者有り。唯だ、未だ唐に至りて難阻飢寒の悲しみ[12]有りしことを見ず。中瓘が申報するところの如くむば、未然の事[13]、推して知るべし。臣等、伏して願はくは、中瓘が録記の状を以て、遍ねく公卿・博士に下し、詳に其の可否を定められむことを。国の大事にして、独り身の為[14]ならず。且く款誠を陳べ[15]、伏して処分を請ふ。謹みて言す。

 寛平六年九月十四日
 大使[16]参議[17]勘解由次官[18]従四位下兼守[19]左大弁[20]行式部権大輔[21]春宮亮[22]菅原朝臣某

【注釈】
 [1]進止:しんじ=進退。存廃。
 [2]臣某:しんそれがし=菅原道真のこと。
 [3]去年三月:さるとしさんがつ=893年(寛平5年3月)のこと。
 [4]商客:しょうきゃく=商人。
 [5]凋弊:ちょうへい=衰えること。
 [6]之を載すること:これをのすること=これを掲載すること。これが書かれていること。
 [7]具なり:つぶさなり=詳しい。具体的である。
 [8]不朝:ふちょう=来朝しないこと。
 [9]入唐の人を停む:にゅうとうのひとをとどむ=遣唐使の派遣を停止すること。
 [10]区々の旅僧:くくのりょそう=取るに足らない旅の僧。
 [11]代馬・越鳥:だいばえつちょう=代(地方名)に産する馬と越(国名)の鳥をいい、馬や鳥でも故郷を忘れがたいこと。
 [12]難阻飢寒の悲しみ:なんそきかんのかなしみ=旅の困難や飢えや寒さによる悲哀。
 [13]未然の事:みぜんのこと=将来のこと。
 [14]独り身の為:ひとりみのため=遣唐大使に選ばれている自身のため。
 [15]款誠を陳べ:かんせいをのべ=誠心を述べる。
 [16]大使:たいし=遣唐大使のこと。
 [17]参議:さんぎ=大臣・納言とともに国政を審議する官。
 [18]勘解由次官:かげゆのすけ=勘解由使局の次官。
 [19]守:かみ=官は高いが位の低い場合に記すもの。
 [20]左大弁:さだいべん=太政官の事務局の一つ、左弁官局の局長。
 [21]式部権大輔:しきぶごんのたいふ=式部省の権官で次官。
 [22]春宮亮:とうぐうのすけ=皇太子の宮の内政を担当する役所の次官。

<現代語訳>

 諸公卿の方々に遣唐使の存廃を審議し決定して頂くことを願う書状  菅原道真

 右のことについて私(菅原道真)がつつしんでんで申し上げます。唐に滞在中の僧中灌(チュウカン)が昨年3月に商人の王訥(オウトツ)らに託して送ってきた記録を見ましたところ、大唐の衰退した様子が詳しく記載されておりました。更に来朝しないことを問われたと報告し、ついには遣唐使の派遣を停めようとします。中瓘は取るに足らない旅の僧とはいえ、朝廷のために誠意を尽くしています。代(中国の北方地方)に産する馬や越(中国の南方の国)の鳥のさえも故郷を忘れず、それが習性というものでしょう。
 私達がつつしんで古い記録を調べてみますと、何回かの使節(遣唐使)は、海で遭難して命が絶えてしまった者や、賊に遭遇して命を落とした者がいます。ただ唐に到着してからは、旅の困難や飢えや寒さによる悲哀はありませんでした。
 中灌が報告した通りであれば、これからの遣唐使は何が起こるかは推して知るべきでしょう。
 私達臣下が心からお願いしたいことは、中灌の記録に記された内容をひろく公卿・博士に渡して、遣唐使派遣の可否を事細かに審議し決定するよう願うものであります。
このことは国家の大事であり決して我が身一人の安全のために申しているのではありません。まさに誠心を述べ、取り計らって頂くことを求めます。以上謹んで申し上げます。

  寛平6年9月14日 大使參議勘解由次官從四位下兼守左大辨行式部權大輔春宮亮菅原朝臣某

〇菅原道真(すがわら みちざね)とは?

 平安時代前期の学者・政治家です。845年(承和12)に、菅原是善の3男として生まれ。幼少の頃より詩歌に才能があったと言われています。
 862年(貞観4)に18歳で文章生となり、877年(元慶1)には、文章博士となりました。以後,宇多天皇の信任を得て、藤原氏を抑えるために重用され、894年(寛平6)には、遣唐使に任ぜられましたが建議して、これを中止したのです。
 899年(昌泰2)に、右大臣となりますが、左大臣藤原時平の中傷により、大宰権帥に左遷されました。そして、903年(延喜3)に大宰府において、59歳で亡くなっています。
 著作としては、詩文集に『菅家文草』、『菅家後集』、編著に『日本三代実録』、『類聚国史』などがあります。

〇遣唐使(けんとうし)とは?

 飛鳥時代から平安時代前期にかけて、国際情勢や大陸文化を摂取するために、遣隋使のあとをうけ、10数回にわたって日本から唐へ派遣された公式使節です。使節は、大使、副使、判官、録事から構成され、留学生、留学僧を伴って、数百人が数隻の船に分乗し、2~3年がかりで往復し、国書・物品などを奉献しました。第1回は、630年(舒明天皇2)に、犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)を大使として派遣され、第5回までは朝鮮半島沿岸を北上して山東半島に上陸する北路を、その後新羅による朝鮮統一により、九州から東シナ海を横断して、揚子江河口に上陸する南路をとって入唐するようになります。とても厳しい航海で、計画したものの断念したり、途中で難破して沈没したり、引き返したこともありましたが、政治・学問・宗教などに多くの貢献をしました。しかし、唐も安史の乱(755~763年)後、しだいに勢力が衰え、また、商人による貿易もさかんになってきていたので、894年(寛平6)に、菅原道真の建議により停止され、907年(延喜7)には唐が滅亡してなくなりました。

☆遣唐使一覧(カッコの回は唐へ行っていない)

・1回 舒明2年(630年)~舒明4年(632年)---犬上御田鍬(大使)・薬師恵日 唐使高表仁来日、僧旻帰国
・2回 白雉4年(653年)~白雉5年(654年)---吉士長丹(大使)、高田根麻呂(大使)、吉士駒(副使)、掃守小麻呂(副使)、道昭・定恵・道観(派遣者) 第2船が往途で遭難
・3回 白雉5年(654年)~斉明元年(655年)---高向玄理(押使)、河辺麻呂(大使)、薬師恵日(副使) 高向玄理は帰国せず唐で没
・4回 斉明5年(659年)~斉明7年(661年)---坂合部石布(大使)、津守吉祥(副使)、伊吉博徳(派遣者) 第1船が往途で南海の島に漂着し、坂合部石布が殺される
・5回 天智4年(665年)~天智6年(667年)---守大石(送唐客使)、坂合部石積、吉士岐彌、吉士針間 唐使の劉徳高を送る。唐使の法聡が来日
・(6)回 天智6年(667年)~天智7年(668年)---伊吉博徳(送唐客使) 唐使の法聡を送る。唐には行かず?
・7回 天智8年(669年)~不明 河内鯨(大使)---第5次から第7次は、百済駐留中の唐軍との交渉のためか
・8回 大宝2年(702年)~慶雲元年(704年)---粟田真人(執節使)、高橋笠間(大使)、坂合部大分(副使)、山上憶良・道慈(派遣者)
・9回 養老元年(717年)~養老2年(718年)---多治比縣守(押使)、大伴山守(大使)、藤原馬養(副使)、阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉・井真成(派遣者) 
・10回 天平5年(733年)~天平6年(734年)---多治比広成(大使)、中臣名代(副使)、平群広成(判官)、大伴古麻呂(派遣者)
・(11)回 天平18年(746年)~ 石上乙麻呂(大使) 停止される
・12回 天平勝宝4年(752年)~天平勝宝6年(754年)---藤原清河(大使)、吉備真備(副使)、大伴古麻呂(副使) 鑑真が来日する
・13回 天平宝字3年(759年)~天平宝字5年(761年)---高元度(迎入唐大使使)、内蔵全成(判官)
・(14)回 天平宝字5年(761年)---仲石伴(大使)、石上宅嗣(副使)、中臣鷹主(遣唐判官) 船破損のため停止
・(15)回 天平宝字6年(762年)---中臣鷹主(送唐客使)、藤原田麻呂(副使)、高麗広山(副使) 唐使沈惟岳を送らんとするも安史の乱の影響により渡海できず停止する
・16回 宝亀8年(777年)~宝亀9年(778年)---小野石根(持節副使・大使代行)、大神末足(副使)
・17回 宝亀10年(779年)~天応元年(781年)---布施清直(送唐客使) 唐使孫興進を送る
・18回 延暦23年(804年)~大同元年(806年)10月---藤原葛野麻呂(大使)、石川道益(副使)、最澄・空海・橘逸勢・霊仙(派遣者)
・19回 承和5年(838年)~承和6年(839年)---藤原常嗣(大使)、円仁、藤原貞敏(准判官)、長岑高名(准判官)、良岑長松(准判官)、菅原梶成(知乗船事・医師) 小野篁(副使)は拒否して流罪
・(20)回 寛平6年(894年)---菅原道真(大使)、紀長谷雄(副使) 予定されたが菅原道真の建議により停止する
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 今日は、江戸時代後期の1801年(享和元)に、国学四大人の一人・国学者本居宣長の亡くなった日ですが、新暦では11月5日となります。
 本居宣長(もとおり のりなが)は、1730年(享保15年5月7日)に、伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿商の父・小津定利の次男(母は勝)として生まれましたが、幼名は富之助と言いました。
 1740年(元文5)に11歳で父を亡くし、1748年(寛延元)19歳で同国山田の紙商今井田家の養子となりましたが、21歳で不縁となって実家に出戻ります。
 1751年(宝暦元)に兄が亡くなって、小津家の家督を相続しましたが、商売には向かず店をたたんで、医師を志し、上洛しました。この頃、姓を本居と変え、医学を堀元厚・武川幸順に、儒学を堀景山に師事し、漢学や国学なども学びます。
 1758年(宝暦7)に松坂に帰郷し、医師を開業、その一方で、自宅で『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励みました。
 1763年(宝暦13)賀茂真淵と会い、のちに入門、『古事記伝』を書き始めます。並行して、語学研究、評論執筆にいそしみ、門人も増えていきました。
 1793年(寛政5)には64歳で随筆『玉勝間』を起稿、1798年(寛政10)には、『古事記伝』44巻を完成させます。
 その後も、国文、神話、神道、国語などの研究に努めましたが、1801年(享和元年9月29日)に、松坂において、数え年72歳で亡くなりました。門人は487人に達し、田中道麿、服部中庸、横井千秋、石塚竜麿らを輩出しています。

〇本居宣長の主要な著作

・歌論『排蘆小船』(1756年)
・文学論『石上私淑言』(1763年)
・文学論『紫文要領』(1763年)
・語学書『てにをは紐鏡』(1771年)
・神道論『直毘霊』(1772年)
・語学書『字音仮名用格』(1776年)
・歴史書『馭戎慨言』(1777年)
・国学書『万葉集玉乃小琴』(1779年)
・歌論『葛花(くずばな)』(1780年成立)
・暦学書『真暦考』(1782年)
・天文書『天文図説』(1782年)
・語学書『御国詞活用抄』(1782年頃成立)
・語学書『詞の玉緒』(1785年)
・語学書『漢字三音考』(1785年刊)
・国学書『鉗狂人(けんきょうじん)』(1785年成立)
・歌集『玉鉾(たまほこ)百首』(1787年)
・政治論『秘本玉くしげ』(1787年)
・国学書『呵刈葭(かかいか)』(1790年頃成立)
・語学書『玉あられ』(1792年刊)
・随筆『玉勝間(たまかつま)』(1793年)
・国学書『古今和歌集遠鏡(とおかがみ)』(1793年頃成立)
・国学書『源氏物語玉の小櫛(おぐし)』(1796年)
・国学書『古事記伝』44巻(1798年完成)
・『家のむかし物語』(1798年成立)
・注釈書『古訓古事記』(1799年)
・国学書『初山踏(ういやまぶみ)』(1799年)
・歌文集『鈴屋集』(1798~1800年刊)
・『遺言書』(1800年)
・『古語拾遺疑斎辨(こごしゅういぎさいべん)』
・『おもひ草』
・国学書『鈴屋答問録』
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 今日は、太平洋戦争下の1943年(昭和18)に、東条英機内閣により「官庁ノ地方疎開ニ関スル件」が閣議決定され、官庁の地方疎開が決められた日です。
 これは、戦局の悪化に伴う都市部の空襲に備え、政府の行政機関を前もって地方移転させ、これら被害を最小限にとどめ、機能を継続させることにありました。同年10月12日には、「官庁ノ第一次地方疎開実施ニ関スル件」が閣議決定され、官庁の地方疎開が具体化されていきます。
 その後、生産疎開(工場疎開)、建物疎開、人員疎開へと展開されていきました。

〇地方疎開とは?

 一般的には、都市部に集中する施設、人員などを地方各地に分散させることですが、太平洋戦争の末期には、大都市の防衛強化のために一連の強制的疎開政策が実施されました。
 これによって、空襲や火災などの被害を少なくするため、官庁、軍需工場、民間企業、住宅家屋、人員などを強制的に比較的安全な地方へ移動させることとなります。
 まず、1943年(昭和18)9月28日に官庁の地方疎開が閣議決定され、同年10月31日の「防空法」再改正で、民防空の定義に「分散疎開」を追加、生産疎開(工場疎開)、建物疎開、人の疎開等の条文が加えられました。そして、同年12月21日に「都市疎開実施要綱」が閣議決定され、具体化されていきます。
 翌年1月26日に、内務省が「改正防空法」により、東京、名古屋の指定区域内の建築物に対して疎開命令(指定区域内の建築物の強制取壊し)を出し、3月3日には、「決戦非常措置要綱」に基づき、疎開促進の要綱が閣議決定され、軍事施設、工場、鉄道、重要道路の周辺や密集地域の建物が取り壊され、防火帯が造られていきました。
 さらに、同年6月30日に、「学童疎開促進要綱」が閣議決定され、集団的な学童疎開が促進され、7月20日には、文部省が集団的な学童疎開の範囲を東京のほか12都市に拡大します。11月7日には、「老幼者、妊婦等の疎開実施要綱」も閣議決定され、人員疎開が促進されて、1945年(昭和20)までに、約1,000万人の住民が地方疎開しました。

〇「官庁ノ地方疎開ニ関スル件」1943年(昭和18)9月28日 閣議決定

官庁ノ地方疎開ニ関スル件
昭和18年9月28日 閣議決定

一、疎開スベキ官庁ハ閣議ニ於テ決定スルコト
一、疎開ニ当リ特ニ注意スベキ事項左ノ如シ
(一)疎開スル官庁ハ特ニ人員ヲ減少スルコト
(二)疎開スル官庁ニ於テハ特ニ保管物件ヲ整理減少スルコト
(三)出来得ル限リ移転先ノ人ヲ採用スルコト
(四)移転先ニ於テハ官庁ハ必ズ現存建物ヲ利用スルコト
(五)疎開実施ノ為建物ノ新築ハ極力之ヲ避クルコト
一、疎開実施ノ為内閣総理大臣ノ管理ノ下ニ左記ノ者ヲ以テ実行本部ヲ組織シ順序ヲ立テテ各庁ノ準備ヲ整ヘシメ出来得ル限リ速ニ且強力ニ実施スルコト


内閣書記官長
企画院次長
企画院第一部長
内務省地方局長
大蔵省主計局長
鉄道省業務局長
内閣官房総務課長

 「内閣制度百年史 下」 内閣制度百年史編纂委員会編より


〇「官庁ノ第一次地方疎開実施ニ関スル件」1943年(昭和18)10月12日 閣議決定

官庁ノ第一次地方疎開実施ニ関スル件
昭和18年10月12日 閣議決定

一 別表ノ官庁、官設工場及学校ハ之ヲ第一次的ニ疎開スベキモノトス
二 疎開先ハ成ルベク学校工場規制地域外トスルモ特ニ止ムヲ得ザルモノニ付テハ実行本部ト協議ノ上適当ニ之ヲ定ムルモノトス
三 関係各庁ハ本件疎開ニ関シ必要ナル事項(実施計画案アルモノハ其ノ計画案)ヲ十月二十日迄ニ実行本部ニ提出スルモノトス

 「重要国策要綱集追録第1号」 柏原兵太郎関係文書より


☆太平洋戦争下の地方疎開に関する略年表

<1943年(昭和18)>
・9月28日 「官庁ノ地方疎開ニ関スル件」が閣議決定され、官庁の地方疎開が決められる
・10月12日 「官庁ノ第一次地方疎開実施ニ関スル件」が閣議決定され、官庁の地方疎開が具体化される
・10月31日 「防空法」再改正で、民防空の定義に「分散疎開」を追加、生産疎開、建物疎開、人の疎開等の条文が加えられる
・11月13日 東京都、帝都重要地帯疎開計画が発表される(防火地帯造成、重要工場付近の建物疎開、主要駅前広場造成など)
・12月21日 「都市疎開実施要綱」が閣議決定される

<1944年(昭和19)>
・1月26日 内務省が「改正防空法」により、東京、名古屋に初の疎開を命令する(指定区域内の建築物の強制取壊し)
・2月8日 横浜、川崎に防空地帯が指定される
・2月25日 「決戦非常措置要綱」(3月1日実施)が閣議決定される(地方への疎開の推進などの空襲対策など)
・3月3日 「決戦非常措置要綱」に基づき国民学校学童給食、空地利用、疎開促進の3要綱を閣議決定する
・4月10日 防空総本部が「京浜地域人員疎開の措置要綱」を決定する
・4月17日 東京都が第3次建物疎開の細目を決定する
・5月7日 東京千駄木国民学校生徒による初の都立那須戦時疎開学園が開園される
・6月30日 東条英機内閣が「学童疎開促進要綱」を閣議決定し、集団的な学童疎開が促進される
・7月10日 神戸、尼崎両市の建物疎開が指定される(以後疎開指定都市続出)
・7月20日 文部省が集団的な学童疎開の範囲を東京のほか12都市に拡大する
・8月22日 沖縄から本土への学童疎開のための「対馬丸」が米軍潜水艦により撃沈される(対馬丸事件)
・8月24日 大阪、堺で建物疎開を実施する
・8月29日 重要工場に疎開命令が出される
・11月7日 老幼者、妊婦等の疎開実施要綱を閣議決定する

<1945年(昭和20)>
・3月9日 「学童疎開強化要綱」を閣議決定する
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 今日は、昭和時代中期の1946年(昭和21)に、「労働関係調整法」が公布された日です。
 「労働関係調整法」(昭和21年9月27日法律第25号)は、労働関係の公正な調整を図り、労働争議の予防または解決を目的とした法律として制定されました。「労働組合法」、「労働基準法」と共に労働三法と呼ばれていて、“労調法”とも略されています。
 太平洋戦争前にも、労働争議に関する法律として、1926年(大正15)4月制定の「労働争議調停法」がありましたが、労使紛争解決を目的とするというよりも、労働争議を国家権力によって抑え込むことに利用され、治安立法的色彩が強いものでした。
 戦後民主化措置の一つとして、1945年(昭和20)12月22日「労働組合法」が制定されましたが、戦争直後の民主主義高揚を反映した画期的なものでした。労働争議に対する刑事・民事免責を規定したほか、使用者による労働者の組合結成・加入や組合活動に対する不利益取扱い、黄犬契約を刑罰をもって禁止、労働協約の規範的効力や一般的拘束力の制度を設けます。(1948年7月に全面改訂される)
 その中で、食糧難の打開、生活苦の改善、民主主義の要求などを掲げて、多数の労働組合が結成され、労働運動が活発化しました。
 労働争議が頻発するようになり、1946年(昭和21)後半から空前の盛り上がりを見せますが、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は徐々に抑圧の方向へと向かいました。そのもとで、吉田内閣は6月13日に「社会秩序保持声明」を出して、労働争議の抑え込みを狙い、それを法的に整備したのが、「労働関係調整法」で、労働組合の激しい反対を押し切って成立、9月27日に公布されます。
 この法律の目的は、「労働組合法と相俟つて、労働関係の公正な調整を図り、労働争議を予防し、又は解決して、産業の平和を維持し、もつて経済の興隆に寄与すること」(第1条)とし、調整方法として斡旋、調停、仲裁などを定めました。しかし、公益事業の争議行為は調停申請後30日立たなければ行えないとしたことや行政司法事務職員(警察官・消防職員・監獄職員・現業以外)の争議行為禁止などが含まれていて問題とされました。
 その後、1949年(昭和24)6月に改正され、さらに1952年(昭和27)7月の緊急調整制度を新設するための改正など、何度かの改正を経て、現行法に至っています。
 以下に、「労働関係調整法」第一章(総則)のみを掲載しておきますので、ご参照ください。

〇労働関係調整法(抄文)第一章のみ 1946年(昭和21)9月27日公布 10月13日施行

第一章 総則

第一条 この法律は、労働組合法と相俟つて、労働関係の公正な調整を図り、労働争議を予防し、又は解決して、産業の平和を維持し、もつて経済の興隆に寄与することを目的とする。

第二条 労働関係の当事者は、互に労働関係を適正化するやうに、労働協約中に、常に労働関係の調整を図るための正規の機関の設置及びその運営に関する事項を定めるやうに、且つ労働争議が発生したときは、誠意をもつて自主的にこれを解決するやうに、特に努力しなければならない。

第三条 政府は、労働関係に関する主張が一致しない場合に、労働関係の当事者が、これを自主的に調整することに対し助力を与へ、これによつて争議行為をできるだけ防止することに努めなければならない。

第四条 この法律は、労働関係の当事者が、直接の協議又は団体交渉によつて、労働条件その他労働関係に関する事項を定め、又は労働関係に関する主張の不一致を調整することを妨げるものでないとともに、又、労働関係の当事者が、かかる努力をする責務を免除するものではない。

第五条 この法律によつて労働関係の調整をなす場合には、当事者及び労働委員会その他の関係機関は、できるだけ適宜の方法を講じて、事件の迅速な処理を図らなければならない。

第六条 この法律において労働争議とは、労働関係の当事者間において、労働関係に関する主張が一致しないで、そのために争議行為が発生してゐる状態又は発生する虞がある状態をいふ。

第七条 この法律において争議行為とは、同盟罷業、怠業、作業所閉鎖その他労働関係の当事者が、その主張を貫徹することを目的として行ふ行為及びこれに対抗する行為であつて、業務の正常な運営を阻害するものをいふ。

第八条 この法律において公益事業とは、次に掲げる事業であつて、公衆の日常生活に欠くことのできないものをいう。
一 運輸事業
二 郵便、信書便又は電気通信の事業
三 水道、電気又はガスの供給の事業
四 医療又は公衆衛生の事業
2 内閣総理大臣は、前項の事業の外、国会の承認を経て、業務の停廃が国民経済を著しく阻害し、又は公衆の日常生活を著しく危くする事業を、一年以内の期間を限り、公益事業として指定することができる。
3 内閣総理大臣は、前項の規定によつて公益事業の指定をしたときは、遅滞なくその旨を、官報に告示するの外、新聞、ラヂオ等適宜の方法により、公表しなければならない。

第八条の二 中央労働委員会及び都道府県労働委員会に、その行う労働争議の調停又は仲裁に参与させるため、中央労働委員会にあつては厚生労働大臣が、都道府県労働委員会にあつては都道府県知事がそれぞれ特別調整委員を置くことができる。
2 中央労働委員会に置かれる特別調整委員は、厚生労働大臣が、都道府県労働委員会に置かれる特別調整委員は、都道府県知事が任命する。
3 特別調整委員は、使用者を代表する者、労働者を代表する者及び公益を代表する者とする。
4 特別調整委員のうち、使用者を代表する者は使用者団体の推薦に基づいて、労働者を代表する者は労働組合の推薦に基づいて、公益を代表する者は当該労働委員会の使用者を代表する委員(行政執行法人の労働関係に関する法律(昭和二十三年法律第二百五十七号)第二十五条に規定する行政執行法人担当使用者委員(次条において「行政執行法人担当使用者委員」という。)を除く)及び労働者を代表する委員(同法第二十五条に規定する行政執行法人担当労働者委員(次条において「行政執行法人担当労働者委員」という。)を除く。)の同意を得て、任命されるものとする。
5 特別調整委員は、政令で定めるところにより、その職務を行ふために要する費用の弁償を受けることができる。
6 特別調整委員に関する事項は、この法律に定めるものの外、政令でこれを定める。

第八条の三 中央労働委員会が第十条のあつせん員候補者の委嘱及びその名簿の作成、第十二条第一項ただし書の労働委員会の同意、第十八条第四号の労働委員会の決議その他政令で定める事務を処理する場合には、これらの事務の処理には、使用者を代表する委員のうち行政執行法人担当使用者委員以外の委員(第二十一条第一項において「一般企業担当使用者委員」という。)、労働者を代表する委員のうち行政執行法人担当労働者委員以外の委員(第二十一条第一項において「一般企業担当労働者委員」という。)並びに公益を代表する委員のうち会長があらかじめ指名する十人の委員及び会長(第二十一条第一項及び第三十一条の二において「一般企業担当公益委員」という。)のみが参与する。この場合において、中央労働委員会の事務の処理に関し必要な事項は、政令で定める。

第九条 争議行為が発生したときは、その当事者は、直ちにその旨を労働委員会又は都道府県知事に届け出なければならない。

(以下略)
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 今日は、昭和時代中期の1954年(昭和29)に、洞爺丸台風が襲来し、青函連絡船洞爺丸が転覆、岩内町で大火が起きるなどした日です。
 洞爺丸台風は、1954年(昭和29)9月21日に、ヤップ島の北の海上で発生した、昭和29年台風第15号(国際名:Marie)のことで、25日早朝に台湾の東の海上で北東に向きを変え、東シナ海をほとんど一直線に時速80kmで北東進して、26日午前2時頃に大隅半島に上陸しました。
 九州東部を縦断後、中国地方を時速100kmで横断、午前8時頃山陰沖から日本海に進んで、再び発達しながら北海道の西側を北東に進み、午後9時には最盛期を迎え北海道寿都町沖を通過、27日0時過ぎには稚内市付近に達します。
 この台風による降水量は、九州と中国地方では200mmを超えた所があったものの、他の地方ではそれほどでもありませんでしたが、西日本や東北、北海道の各地で30m/s以上の暴風が吹いて大きな被害を出しました。
 これによって、函館港沖で座礁転覆し乗客乗員1,139人が死亡し、大惨事となった洞爺丸をはじめ、計5隻の青函連絡船が沈没するなど、船舶被害は5,581隻に達します。
 また、北海道岩内郡岩内町でフェーンによる大火(岩内大火)が発生し、焼失家屋3,298戸(全家屋の約8割)、焼失面積32万坪、罹災者16,622人、死者35人、行方不明3人に達しました。
 被害は九州から北海道まで全国に及び、風水害、高潮害、塩害、波浪害、山崩れ、火災など各種の災害により、全国で死者1,361人、行方不明者400人、住家の全・半壊・流出207,542戸、住家の床上・下浸水103,533戸、耕地被害82,963haという大きな被害となります。
 特に、洞爺丸沈没によって大きな被害が出たので、その後気象庁は、この台風を洞爺丸台風と命名しました。

〇青函連絡船とは?

 青森駅と函館駅間(113km)を結んでいた鉄道連絡船(水上の部分に、鉄道の一線区としての航路を開設し、両岸の鉄道を連絡する船舶)でした。
 明治時代後期の1908年(明治41)3月7日に、鉄道国有化直後の国鉄により開設されます。1925年(大正14)より、甲板にレールを設けた客載貨車航送船が就航して、貨車をそのまま航送できるようになりました。
 太平洋戦争中は、空襲によって沈没、損傷などの大きな被害を受け、終戦時には壊滅状態となっていましたが、戦後復興し、1948年(昭和23)には計14隻が就航して、重要な輸送路となります。
 しかし、1954年(昭和29)9月26日に襲来した洞爺丸台風によって、洞爺丸のほか計5隻が遭難沈没して、乗客1,051人職員379人の合計1,430人の死者をだす大惨事を引き起こしました。
 その後は、高度経済成長や旅行ブームによって、1972年(昭和47)には、1日最大30往復もの運航をする最盛期を迎えます。
 ところが、航空機が一般的になって減少に転じ、国鉄民営化後の1988年(昭和63)3月13日に青函トンネルの完成により、JR津軽海峡線が開通したため、1988年(昭和63)9月19日をもって、80年余の歴史を閉じました。
 尚、現在は青森に八甲田丸、函館に摩周丸が保存、展示され、見学できるようになっています。

☆日本での最大風速ベスト10

1 昭和40年台風第23号 Shirley [1965年9月10日-西南西69.8m/s] 室戸岬(高知県)
2 ルース台風(昭和26年台風第15号) Ruth [1951年10月14日-南69.3m/s] 細島(宮崎県)
3 ルース台風(昭和26年台風第15号) Ruth [1951年10月14日-南東67.1m/s] 佐田岬(愛媛県)
4 第2室戸台風(昭和36年台風第18号) Nancy 1961年9月16日-西南西66.7m/s] 室戸岬(高知県)
5 昭和29年台風第13号 Kathy [1954年9月7日-南南西65.0m/s] 都井岬(宮崎県)
6 洞爺丸台風(昭和29年台風第15号) Marie [1954年9月27日-南南西63.3m/s] 神威岬(北海道)
7 第2宮古島台風(昭和41年台風第18号) Cora [1966年9月5日-北東60.8m/s] 宮古島(沖縄県)
8 洞爺丸台風(昭和29年台風第15号) Marie [1954年9月26日-西南西58.8m/s] 佐多岬(鹿児島県)
9 昭和45年台風第10号 Anita [1970年8月21日-北西57.5m/s] 土佐沖ノ島(高知県)
10 昭和5年台風(名称なし) - [1930年8月9日-北東57.0m/s] 南大東島(沖縄県)

☆気象庁命名台風一覧

・洞爺丸台風(昭和29年台風第15号) 1954年[国際名:Marie]
・狩野川台風(昭和33年台風第22号) 1958年[国際名:Ida]
・宮古島台風(昭和34年台風第14号) 1959年[国際名:Sarah]
・伊勢湾台風(昭和34年台風第15号) 1959年[国際名:Vera]
・第2室戸台風(昭和36年台風第18号) 1961年[国際名:Nancy]
・第2宮古島台風(昭和41年台風第18号) 1966年[国際名:Cora]
・第3宮古島台風(昭和43年台風第16号) 1968年[国際名:Della]
・沖永良部台風(昭和52年台風第9号) 1977年[国際名:Babe]
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