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 今日は、江戸時代後期の儒学者・詩人頼山陽の亡くなった日ですが、新暦では10月16日となります。
 頼山陽(らい さんよう)は、1781年(安永9年12月27日)に大坂・江戸堀において、儒学者の父・頼春水、母・静子の長男として生まれましたが、幼名は久太郎(ひさたろう)と言いました。
 1781年(天明元)春水の広島藩儒登用後、しばらくして広島に移り、9歳で学問所に入学し、早くより詩文に秀でていたとされています。1797年(寛政9)には、江戸に遊学し、父の学友・尾藤二洲に学びましたが、翌年帰郷しました。
 1800年(寛政12)脱藩しますが連れ戻されて24歳まで幽閉され、この間史書執筆を志して、『日本外史』を起稿し、尊攘派につよい影響をあたえます。
 1803年(享和3)に廃嫡のうえ、幽閉を許され、郷里を出て菅茶山の廉塾の塾頭となりましたが、1811年(文化8) に京都洛中に私塾を開き、詩を教えました。
 1818年(文政元)に西日本の旅に出て、広く文人や儒者と交流し、詩才を発揮、帰京後は詩文の両面で活躍します。
 しかし、1832年(天保3年9月23日)に、京都において、肺結核により数え年53歳で亡くなりました。

〇頼山陽の主要な著作

・『日本楽府 (がふ) 』(1828年)
・『日本政記』16巻(1832年成立)
・『山陽詩鈔』8巻(1833年)
・『日本外史』22巻(1836年)
・『山陽遺稿』(1841年)
・『通議』