喜多川歌麿(きたがわ うたまろ)は、江戸時代中期の1753年(宝暦3)頃生まれたとされていますが、出生地も江戸、川越、京都などの諸説があってはっきりしません。
本姓は北川氏で、幼名は市太郎といい、幼少のときから狩野派の鳥山石燕(1712~1788年)に師事、江戸の根津に住み、1775年(安永4)に北川豊章の号で浮世絵画壇に登場したといわれています。
当初は黄表紙や洒落本などの挿絵を描いていましたが、1782年(天明2)頃に歌麿と改め、1784年(天明4)頃、版元の蔦屋重三郎(1750~1797年)に才能を見いだされ、蔦屋専属絵師の形で狂歌絵本や美人錦絵などを世に送り出すようになりました。
そして、『画本虫撰(えほんむしえらみ)』(1788年)、『潮干(しおひ)のつと』(1789~1790年頃)、『百千鳥(ももちどり)』(1789~1790年頃)など豪華な狂歌絵本を蔦屋から次々に出版し、注目されるようになります。
1790年(寛政2)頃から、絵本の仕事から錦絵に比重を移し、美人大首絵(おおくびえ)という新趣向を打ち出し、『婦人相学十躰(ふじんそうがくじったい)』(1791~1792年頃)、『婦女人相十品』(1791年~1792年頃)、『歌撰恋之部(かせんこいのぶ)』(1793年頃)、『娘日時計』(1794年頃)などで、一躍人気絵師となりました。
しかし、1797年(寛政9)の蔦屋重三郎の死を境として、作品の質に変化がおこり、享和年間(1801~04年)に入ると、生彩を欠くようになったといわれています。
1804年(文化元)『太閤五妻洛東遊観之図』が江戸幕府の忌諱に触れて、入牢、手鎖の刑を受け、失意のうちに、1806年(文化3年9月20日)、江戸において、数え年54歳で亡くなりました。
〇喜多川歌麿の主要な作品
・黄表紙『身貌大通神略縁起』(1781年)
・艶本『歌まくら』(1788年)
・狂歌絵本『画本虫撰(えほんむしえらみ)』(1788年)
・狂歌絵本『潮干(しおひ)のつと』(1789~1790年頃)
・狂歌絵本『百千鳥(ももちどり)』(1789~1790年頃)
・錦絵『婦人相学十躰(ふじんそうがくじったい)』(1791~1792年頃)
・錦絵『婦女人相十品』(1791年~1792年頃)
・錦絵『歌撰恋之部(かせんこいのぶ)』(1793年頃)
・錦絵『当時三美人』(1793年頃)ボストン美術館所蔵
・錦絵『娘日時計』(1794年頃)
・錦絵『高名美人六家撰(こうめいびじんろっかせん)』(1794~1795年)
・錦絵『当時全盛美人揃(とうじぜんせいびじんぞろえ)』(1794~1795年)
・錦絵『北国五色墨(ほっこくごしきずみ)』(1795年頃)
・錦絵『青楼十二時(せいろうじゅうにとき)』
・錦絵『教訓親の目鑑(めがね)』(1801~1802年)
・錦絵『太閤五妻洛東遊観之図』(1804年)
・肉筆画『更衣美人』(東京・出光美術館蔵)国指定重要文化財