春日局は、安土桃山時代の1579年(天正7)に、美濃国において、明智光秀の重臣の父・斉藤利三と母・稲葉通明の娘おあんの子として生まれましたが、名は福といいました。
父が1582年(天正10)の「本能寺の変」に加担して処刑された後、海北友松や三条西公国、長曾我部元親などにかくまわれながら有職故実や学問を学んだとされています。
その後、母方の従兄稲葉重通の養女とされ、1595年(文禄4)に、同養子正成(まさなり)の後妻となり、正勝、正定、正利を産み、のち離別しました。
そして、1604年(慶長9)に、第2代将軍徳川秀忠の嫡子・竹千代(後の江戸幕府第3代将軍家光)の乳母となるべく江戸へ赴いて、大奥入りします。
誠心誠意家光に仕え、後年家光・家忠の継承争いの際、1615年(元和元)にひそかに駿府の大御所家康へ直訴、家光の世嗣決定に大きな役割を果たしました。1623年(元和9)に家光が第3代将軍となると、1626年(寛永3)以後、大奥の統率をまかされ、幕閣内外に大きな力を持ちます。
1629年(寛永6)に朝廷との間で起きた紫衣事件の解決のため、大御所秀忠の内意を受け上洛し、参内して後水尾天皇や中宮和子に拝謁、従三位の位階と天盃を賜り春日局の号を許されました。
田安門内に大きな屋敷を賜り、相模国吉岡に采地3,000石を領します。晩年は、湯島の地に天沢寺を建立して、余生を過ごしましたが、1643年(寛永20年9月14日)に64歳で亡くなりました。
〇春日局関係略年表(日付は旧暦です)
・1579年(天正7) 美濃国で明智光秀の重臣の父・斉藤利三と母・稲葉通明の娘おあんの子として生まれる
・1582年(天正10) 父が「本能寺の変」に加担して処刑され、逃亡生活に入る
・1595年(文禄4) 稲葉正成の後妻となる
・1597年(慶長2) 稲葉正勝を産む
・1603年(慶長8) 稲葉正利を産む
・1604年(慶長9) 第2代将軍徳川秀忠の嫡子・竹千代(家光)の乳母となるべく江戸へ赴いて大奥入りする
・1615年(元和元) 家光・家忠の継承争いについて、ひそかに駿府の大御所家康へ直訴する
・1623年(元和9) 家光が第3代将軍となる
・1626年(寛永3) 大奥の統率をまかされる
・1629年(寛永6) 紫衣事件解決のため、大御所秀忠の内意を受け上洛・参内、春日局の号を許される
・1632年(寛永9)7月20日 再上洛して従二位に昇叙し、緋袴着用の許しと再び天酌御盃も賜わる
・1633年(寛永10) 長男である稲葉正勝が小田原城主となる
・1643年(寛永20)9月14日 江戸において64歳で亡くなる