天武天皇の生年は明らかではありません(631年説がある)が、父・舒明天皇の第3皇子(母・皇極天皇)として生まれ、名は大海人 (おおあま) と言いました。
668年(天智天皇7)に、兄が天智天皇として即位すると、皇太弟として政治を助けたとされています。671年(天智天皇10)に重病となった天智天皇が後事を託そうとしましたが、病気平癒祈願ため出家するとの名目で辞退し、吉野に引きこもりました。
天智天皇の死後、672年(弘文天皇元)6月に挙兵し、鈴鹿と不破の関をふさいで東国の兵を動員して戦い、約1ヶ月後に近江大津宮に攻め込み、天智天皇の子である大友皇子(弘文天皇)を自殺させて勝利を得ます(壬申の乱)。
翌年2月27日、飛鳥浄御原宮にて即位し、天智天皇の子の鸕野讃良皇女(後の持統天皇)をたてて皇后としました。
天皇中心の政治の確立をめざして、改新事業の推進、律令体制の強化に努め、675年(天武天皇4)には、諸氏族の部曲の廃止や諸王臣私有の山野の収公などの処置を行います。
681年(天武天皇10)に、「飛鳥浄御原宮律令」の制定を命じ、史書の編纂事業(後に『古事記』、『日本書紀』として結実)も始めました。
豪族たちを統制するための官僚化にも努め、684年(天武天皇13)に八色の姓の制を定め、翌年に親王、諸王に十二階、諸臣に四十八階の位階制(冠位四十八階)を制定します。
このように、天皇を頂点とする中央集権的支配体制を整備してきましたが、686年(朱鳥元)に飛鳥で亡くなり、墓所は檜隈大内陵(現在の奈良県明日香村)として造られました。
〇天武天皇関係略年表(日付は旧暦です)
・631年(舒明天皇3) 生誕したという説がある
・668年(天智天皇7)1月3日 兄が天智天皇として即位すると、皇太弟として政治を助ける(否定説あり)
・671年(天智天皇10) 重病となった天智天皇が後事を託そうとするが、辞退して吉野に引きこもる
・672年(弘文天皇元)6月 挙兵して約1ヶ月後に近江大津宮に攻め込み、大友皇子を自殺させる(壬申の乱)
・673年(弘文天皇2)2月27日 飛鳥浄御原宮で即位、鸕野讃良皇女(後の持統天皇)をたてて皇后とする
・675年(天武天皇4) 諸氏族の部曲の廃止や諸王臣私有の山野の収公などの処置を行なう
・676年(天武天皇5) 陰陽寮を設置する
・677年(天武天皇6) 諸王臣の封戸(ふこ)に対して強い統制を及ぼす
・678年(天武天皇7) 官人の勤務評定や官位の昇進に関して考選法を定める
・679年(天武天皇8) 吉野に行幸する
・679年(天武天皇8) 皇后、草壁皇子らに皇位継承争いを起こさないよう誓わせる(吉野の盟約)
・680年(天武天皇9) 皇后(後の持統天皇)の病気平癒祈願ために薬師寺の建立を命じる
・681年(天武天皇10) 「飛鳥浄御原宮律令」の制定を命じ、草壁皇子を皇太子に立てる
・681年(天武天皇10) 史書の編纂事業(後に『古事記』、『日本書紀』として結実)も始める
・682年(天武天皇11) 匍匐礼を廃し、立礼にすることを命じる
・683年(天武天皇12)2月1日 大津皇子にも朝政をとらせる
・683年(天武天皇12) 日本最初の貨幣である富本銭が発行される
・684年(天武天皇13) 八色の姓の制を定める
・685年(天武天皇14) 親王、諸王に十二階、諸臣に四十八階の位階制(冠位四十八階)を制定する
・686年(朱鳥元)9月9日 飛鳥において亡くなる(墓所は檜隈大内陵)