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 今日は、奈良時代の740年(天平12)に、藤原広嗣の乱が起きた日ですが、新暦では9月28日となります。
 これは、九州地方でおきた内乱で、大宰少弐藤原広嗣が政権への不満から大宰府で挙兵しましたが、官軍によって鎮圧されたものでした。
 738年(天平10)末に、大養徳守から大宰少弐に左遷されて、不満を持っていた藤原広嗣が、740年(天平12)8月下旬に玄昉と吉備真備を中央政界から除くことを要求する上表文を提出し、中央政府の返事を待たずに挙兵に踏み切ります。
 9月3日には反乱を起こし、大宰府管内諸国の1万に及ぶ兵を集めて、東上を開始したことが伝わりました。これに対し、朝廷では大野東人を大将軍とし、東海・東山・山陰・山陽・南海五道の1万7千の兵を集めて、征討軍として鎮圧にあたります。
 9月21日に大野東人は長門国へ到着し、翌日九州へ渡海、豊前国の主要地が征討軍に抑えられました。その後、北九州各地で激戦が続きましたが、10月初旬に板櫃川の対陣で、広嗣軍1万余は渡河を阻まれ、隼人の降伏も続出し、10月23日には、藤原広嗣が五島列島の宇久島で捕らえられ、鎮圧されます。
 この結果、11月1日に肥前国唐津で広嗣は処刑され、その藤原式家は一時衰えて南家が台頭することになりました。
 また、乱の京内への波及を恐れた聖武天皇は、勃発とともに伊賀・伊勢方面の行幸によって退避し、鎮定後も平城宮に帰らず、山背国相楽郡の恭仁京に遷都、また折からの天然痘流行とあいまって国分寺・東大寺造営の直接の契機となります。
 尚、大宰府は742年(天平14)から3年余りの間廃止されることとなり、玄昉は745年(天平17)に筑紫観世音寺別当に左遷、吉備真備も750年(天平勝宝2)から一時筑前守・肥前守に左遷されました。

〇藤原広嗣の乱関係略年表(日付は旧暦です)

<740年(天平12)>
・8月下旬 藤原広嗣は玄昉と吉備真備を中央政界から除くことを要求する上表文を提出する
・9月3日 藤原広嗣挙兵が伝わり、朝廷は大野東人を大将軍として征討軍の編成を命じる
・9月21日 大野東人は長門国へ到着する
・9月22日 征討軍は九州へ渡海、豊前国の主要地が抑えられる
・9月25日 豊前国の諸郡司が官軍に投降する
・10月初旬 板櫃川の対陣で、広嗣軍1万余は渡河を阻まれ、隼人の降伏も続出する
・10月23日 藤原広嗣が五島列島の宇久島で捕らえられる
・11月1日 肥前国唐津で藤原広嗣は処刑される