岡倉天心は、1863年2月14日(文久2年12月26日)に、横浜の本町5丁目(現在の神奈川県横浜市)で、福井藩士だった父・岡倉覚右衛門と母・このの次男として生まれましたが、幼名は角蔵(のち覚三)といいました。
ジェームズ・バラの塾で英語を学んでいましたが、1870年(明治3)に母このが急逝し、翌年父が再婚すると長延寺に預けられ、漢籍を学びます。1873年(明治6)に一家で上京し、東京開成学校に入学、1877年(明治10)には、新設の東京大学に進みました。
政治学、理財学を専攻し、アメリカ人教師フェノロサについて哲学も学び、1880年(明治13)に卒業します。同年文部省に入り、フェノロサの日本美術研究の通訳や助手を務め始めます。
美術教育制度の確立や古美術保護に努め、1884年(明治17)には、河瀬秀治やフェノロサらと鑑画会をおこし、絵画界の刷新を目ざしました。
同年、文部省図画調査会委員に任命されたフェノロサと共に、近畿地方の古社寺宝物調査を行ない、法隆寺夢殿の秘仏・救世観音像を開扉したことで知られます。
1886年(明治19)に文部省の美術取調委員としてフェノロサとアメリカ経由でヨーロッパを巡り、翌年帰国しました。1890年(明治23)には、東京美術学校長に就任、帝国博物館理事等を兼任、美術専門誌『国華』を創刊して、多くの論評を発表し、美術界をリードします。
しかし、1898年(明治31)に校長排斥運動がおこって辞職し、博物館等の公職も退き、下野しました。その後、橋本雅邦・横山大観・菱田春草らと日本美術院を結成し、伝統に基づく新美術の開発に尽します。
1904年(明治37)大観、春草を伴い渡米し、ボストン美術館の仕事にあたり、翌年に同館の東洋部長となり、東洋・日本美術を海外に紹介しました。1907年(明治40)に文部省美術審査委員会委員となり、翌年国画玉成会を結成、1910年(明治43)には東京帝国大学で講義も担当します。
翌年欧米旅行、続いて1912年(明治45)インド、ヨーロッパを経て渡米するなど精力的に活動しましたが、病気に罹って帰国、療養中の新潟県赤倉山荘において、1913年(大正2)9月2日に、50歳で亡くなりました。
〇岡倉天心の主要な著作
・英文『東洋の理想』(1903年)
・英文『日本の覚醒(かくせい)』(1904年)
・英文『茶の本』(1906年)