ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2018年08月

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 今日は、明治時代後期の1909年(明治42)に、数学者・教育家遠山啓(とおやま ひらく)の生まれた日です。
 遠山啓は、朝鮮の仁川で生まれましたが、まもなく郷里の熊本県下益城郡(現在の宇城市)へ戻りました。9歳頃東京へ転居し、東京府立一中(現在の都立日比谷高校)から、福岡高等学校 (旧制)を経て、東京帝国大学理学部数学科(現在の東京大学)に入学します。しかし中退して、東北帝国大学理学部数学科(現在の東北大学)に再入学し、1938年(昭和13)に卒業しました。
 その後、霞ヶ浦海軍航空隊の教授を務めつつ、整数論と代数関数論の研究をします。1944年(昭和19)から東京工業大学助教授となり、1949年(昭和24)には同大学教授に就き、代数関数の非アベール的理論で評価を得ました。
 徐々に数学教育に関心を持つようになり、当時の生活単元学習を批判、1951年(昭和26)に「数学教育協議会」を結成して数学教育の改革にとりくみます。その中で、量から数およびその計算方法を導く、「水道方式による計算体系」を提唱しました。
 1960年代以降、算数・数学教育の現代化に努め、「教育科学研究会」にも積極的に参加して、学校の教育現場に大きな影響を与えます。1970年(昭和45)に東京工業大学を定年退官し、名誉教授となり、1973年(昭和48)には、教育全体の変革をテーマに雑誌『ひと』を創刊、戦後教育を批判しつつ、市民運動としての教育運動の先頭に立ちました。
 数学教育に関する著書も多く、教育運動にも貢献しましたが、1979年(昭和54)9月11日に、埼玉県において、70歳で亡くなります。

〇遠山啓の主要な著書

・『行列論』(1952年)
・『無限と連続― 現代数学の展望』(1952年)
・『数学入門』上下(1959~60年)
・『数の不思議、数学はおもしろい』(1962年)
・『ベクトルと行列』(1965年)
・『現代数学対話』(1967年)
・『微分と積分 - その思想と方法』(1970年)
・『文化としての数学』(1973年)
・『競争原理を超えて』(1976年)
・『遠山啓のコペルニクスからニュートンまで』(1986年)
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 今日は、戦国時代の1573年(天正元)に、織田信長との一乗谷城の戦いに敗れた朝倉義景が自決し、朝倉氏が滅亡した日ですが、新暦では9月16日となります。
 一乗谷城の戦い(いちじょうだにじょうのたたかい)は、1573年(天正元年8月)に織田信長と朝倉義景の間で行なわれた合戦でした。
 1570年(元亀元)に織田・徳川姉川連合軍と浅井・朝倉連合軍との間で、「姉川の戦い」があり、織田・徳川連合軍が勝利し、浅井氏・朝倉氏は苦境に追い込まれていきます。
 1573年(天正元年4月)に織田信長と対抗していた武田信玄が死去しました。この機に、信長は敵対していた室町幕府第15代将軍足利義昭を同年7月に京都から追放します。
 そして、同年8月8日に信長は3万の大軍を率いて近江に攻め入り、浅井長政の小谷城を攻撃しますが、長政は5千の軍勢で籠城しました。
 これを援護するために、朝倉義景は2万の大軍をもって与呉(よご)に本陣を敷きますが、朝倉方に寝返りが出て形勢が不利となり、8月13日に、大嶽砦の陥落を知った義景は撤退を決断し、15日には一乗谷城に帰陣します。
 織田信長はその後を追い、17日に大軍をもって、越前に攻め入り、18日には一乗谷の市街地を制圧して、焼き払いました。
 義景はそれ以前に手勢のみを率いて一乗谷を逃れ、大野郡へと移り、六坊賢松寺を仮の宿所とします。ところが、20日には裏切りが出て、宿舎を囲まれ、抵抗するものの、義景の自刃に至りました。
 この後、織田信長は軍を北近江に返し、小谷城を攻撃、浅井氏も滅ぼします。
 尚、一乗谷城跡は、現在土塁や庭園石組みが残されていて、1930年(昭和5)に史跡名勝に指定、1973年(昭和48)に「一乗谷朝倉氏遺跡」として国の特別史跡となり、発掘調査後、城下町の街路や一部建物、下城戸門の石垣などの復元が行われました。

〇「一乗谷朝倉氏遺跡」とは?

 福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏五代の遺跡です。
 一乗谷城と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなります。遺跡全体(面積278ha)が国の特別史跡で、そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝の指定を受けました。
 また、発掘結果や史料等を参考に200mにわたって当時の町並みが復元され、公開されていて、戦国時代の城下町を知る上ではとても貴重です。
 何度も来訪しているのですが、年々遺跡の発掘が進み、以前なにもなかったところに戦国時代の町が復元されていました。前に来たときには、遺跡の跡だけを見て、ここにどんな人々が生活し、どんな建物があったのだろうかと想像していたのですが、当時の武家屋敷や町屋が立体復元されていて、生活の様子が一部再現されています。
 江戸時代の建物や集落を復元しているところは結構あるのですが、戦国時代は極めて少なく、貴重なものでした。武家屋敷の中で、人形が2人で将棋を指している様子も復元されていてとても面白かったです。
 実は、この遺跡からは多数の将棋の駒が発掘されていて、当時から将棋を楽しんでいたことが分かりました。私は、歴史も将棋も好きなのでとても興味深かったのです。
 近くには「福井県立一乗谷朝倉氏資料館」があって、出土品や一乗谷についての展示がありました。尚、2006年(平成18)に、財団法人日本城郭協会により、「日本100名城」にも選定されています。
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 今日は、昭和時代後期の1969年(昭和44)に、小説家中山義秀(なかやま ぎしゅう)の亡くなった日です。
 中山義秀は、明治時代後期の1900年(明治33)10月5日に、福島県西白河郡大屋村(現在の白河市大信)に生まれましたが、本名は議秀(よしひで)といいました。
 旧制安積中学(現福島県立安積高等学校)卒業後、上京して早大予科を経て、早稲田大学文学部英文科で学びます。在学中に、横光利一、富ノ澤麟太郎、小島勗らと同人誌『塔』を創刊し、小説『穴』を発表しました。
 1923年(大正12)に大学卒業後は、英語教師として三重・千葉両県の中学に勤めつつ、著作業を始めますが、1933年(昭和8)に校長の強要により退職します。
 1936年(昭和11)著作集『電光』を刊行し、小林秀雄に認められ、1938年(昭和13)の『厚物咲(あつものざき)』で第7回芥川賞を受賞しました。翌年、幕末天狗党に加わった祖父をモデルとする『碑(いしぶみ)』を発表して作家的地位を固め、小林らの『文学界』同人に参加します。
 戦時中は海軍報道班員として南方に派遣され、その経験をもとに戦後『テニヤンの末日』(1948年)を書きました。
 その後、歴史小説に新境地を開拓し、『信夫の鷹』(1948年)、『新剣豪伝』(1955年)などを書き、『咲庵 (しょうあん) 』(1963~64年)で、野間文芸賞を受賞します。
 1966年(昭和41)日本芸術院賞受賞し、芸術院会員ともなりましたが、1969年(昭和44)8月19日に東京において、68歳で亡くなりました。
 死後、1993年(平成5)には出生地福島県に「中山義秀記念文学館」が開館し、優れた歴史小説を対象にした、中山義秀文学賞も創設されています。

〇中山義秀の主要な作品

・著作集『電光』(1936年)
・『厚物咲』(1938年)
・『碑 (いしぶみ) 』 (1939年)
・『テニヤンの末日』(1948年)
・『信夫の鷹』 (1948年)
・『新剣豪伝』(1955年)
・随筆『二つの生涯』(1960年)
・『台上の月』(1963年)
・『咲庵 (しょうあん) 』 (1963~64年)
・随筆『私の文壇風月』(1966年)
・『芭蕉庵桃青(ばしょうあんとうせい)』(1965~69年、没後1970年刊)
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 今日は、幕末明治維新期の1863年(文久3)に、公武合体派が尊皇攘夷過激派を京都から追放したクーデター(八月十八日の政変)が起きた日ですが、新暦では9月30日となります。
 この前年から長州藩を中心とした攘夷派勢力の活動が活発となり、8月の大和行幸、攘夷親征の詔勅を発して討幕、王政復古を一挙に実現しようと計画しました。
 これに対し、薩摩藩は、京都守護職松平容保や朝廷内佐幕派公卿と結んで8月18日に兵力をもって御所を包囲し、長州藩や尊王攘夷派公卿を追放します。
 このため、三条実美をはじめ東久世通禧、沢宣嘉、三条西季知、壬生基修、錦小路頼徳、四条隆謌の公卿7人は長州藩兵護衛のもと、真木和泉ら激派浪士と共に、翌日京都を脱出し、周防国に逃れることになり、これが七卿落と呼ばれることになりました。
 その結果、攘夷親征は中止され、しばらくの間公武合体派の勢力が強くなることとなります。

〇幕末の公武合体派と尊王攘夷派関係略年表(日付は旧暦です)

<1862年(文久2)>
・1月15日 坂下門外の変が起こり、公武合体を進めていた老中安藤信正と久世広周が失脚する
・2月11日 和宮と江戸幕府第14代将軍家茂の婚礼が行われる(和宮降嫁)
・6月 長州藩の公武合体派長井雅楽が藩主から罷免される
・8月21日 生麦事件が起きる

<1863年(文久3)>
・2月6日 長井雅楽が死罪を得る
・3月4日 江戸幕府第14代将軍徳川家茂が上洛する
・5月10日 江戸幕府は攘夷実行日とする(諸藩にも通達)
・5月 長州藩が外国船に対し砲撃を行う(下関事件)
・6月5日 報復として米仏軍艦が関門海峡で長州軍艦2隻を撃沈し、長州の砲台を攻撃する
・7月2~4日 薩英戦争が起きる
・8月18日 政変により長州藩は禁門警備の任を解かれ、藩主が処罰される(八月十八日の政変)
・8月19日 失脚した公家のうち三条実美、三条西季知ら7人は禁足を破り長州へと下る(七卿落ち)

<1864年(元治元)>
・6月5日 池田屋事件で攘夷派志士多数が殺害・捕縛される
・7月19日 長州藩は兵を京都へ派遣し、幕府側と交戦して御所にまで侵入するが撃退される(禁門の変)
・7月23日 朝廷は江戸幕府へ対して長州追討の勅命を発する(第一次長州征討)
・7月27日・28日 キューパー中将(イギリス)を総司令官とする四国連合艦隊が横浜を出港する
・8月5~8日 英・仏・米・蘭連合艦隊が、下関と彦島の砲台を砲撃・占領する(四国艦隊下関砲撃事件)
・8月8日 長州藩は講和使節の使者に高杉晋作を任じる
・8月18日 下関海峡の外国船通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸許可、下関砲台撤去、賠償金300万ドルの支払いの5条件を受け入れて講和が成立する
・10月22日 大坂城にて長州征伐軍は軍議を開催する
・11月2日 禁門の変で上京した三家老の切腹と四参謀の斬首、五卿の追放の降伏条件が出される
・12月5日 長州藩から総督府へ藩主父子からの謝罪文書が提出される
・12月27日 長州征伐軍は解兵令を発する
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 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、小説家島木健作の亡くなった日です。
 島木健作は、1903年(明治36)9月7日に、北海道札幌市で生まれましたが、本名は朝倉菊雄と言いました。2歳で父が病死し、母の内職で貧しいなか育てられます。
 家計を助けるため、高等小学校を中退し、旧拓殖銀行の給仕・玄関番などをしながら夜学に通いました。苦学しながら20歳で北海中学校を卒業し、北海道大学図書館などの勤務を経て、1925年(大正14)東北帝国大学法学部の選科に入学します。
 入学後ほどなく東北学連に加盟し、その中心となって活動、翌年大学を中退し、農民運動に身を投じました。しかし、1928年(昭和3)に左翼運動弾圧の三・一五事件に先立って検挙され、起訴後の翌年に転向声明を出します。1930年(昭和5)に罪が確定して下獄しますが、1932年(昭和7)に仮釈放となりました。
 1934年(昭和9)4月『文学評論』に『癩(らい)』を発表、7月に『中央公論臨時増刊新人号』に載せた『盲目』も世評をよび、転向文学として注目されます。続いて、農民運動の実態をえがいた『再建』(後に発売禁止)、知識人の帰農問題を倫理的に追求した『生活の探求』などを発表し、作家としての地位を確立しました。
 その後、農民文学懇話会設立に参画し、『人間の復活』(1939年) 、『運命の人』(1940年) などの作品を書きます。1941年(昭和16)には徴用されましたが、肺結核を患っていて、身体検査の結果返されました。
 それからも病をおして長編『礎』を1944年(昭和19)発表しましたが、翌年の太平洋戦争敗戦2日後にあたる、8月17日に鎌倉の病院において、43歳で亡くなります。

〇島木健作の主要な作品

・『癩 (らい) 』(1934年)
・『盲目』(1934年)
・『獄』(1934年)
・『再建』(1937年)
・『生活の探求』(1937~38年)
・『人間の復活』(1939年)
・『満洲紀行』(1940年)
・『運命の人』(1940年)
・『礎』((1944年)
・『黒猫』(1946年)
・『赤蛙』(1946年)
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