ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2018年08月

イメージ 1

 今日は、昭和時代後期の1988年(昭和63)に、奈良市の奈良そごう建設予定地で大量の木簡(長屋王家木簡)が発見され、長屋王邸跡であることが判明した日です。
 1986年(昭和61)から、奈良市二条大路南のそごうデパート建設予定地で奈良文化財研究所による発掘調査が行われていましたが、翌年に木簡が発見され、「長屋皇宮」の文字が確認されて注目されました。
 その中で、1988年(昭和63)8月に発掘していた左京三条二坊八坪の東南隅で大量の木簡が見つかり、「雅楽寮移長屋王家令所」と書かれた木簡があることから、ここが長屋王の住居であったという重要な証拠となります。ここから見つかった木簡は、約3万6千点に及び、「長屋王家木簡」とよばれるようになりました。
 その木簡には、邸宅内にいた人々に米飯を支給した日々の伝票が多く、その支給先として、長屋王の家族や使用人等がみられ、長屋王家の所領から食料などを進上する際の木簡もあります。
 これらは、当時の王家の日常生活や王家を取り巻く環境を浮かび上がらせる貴重な資料となり、古代の日本語の実態解明にも役立ち、国語学・国文学にも大きな影響を与えました。
 しかし、多くの研究者や地元の反対があったにも関わらず、建設は続行され、遺構の多くは破壊されます。そして、1989年(平成元)10月2日に「奈良そごう」としてオープンしましたが、そごうグループの破綻により、11年余りの営業で、2000年(平成12年)12月25日閉店しました。その後、「イトーヨーカドー奈良店」となって、2003年(平成15)7月10日にオープンしたものの、14年後の2017年(平成29)9月10日には閉店し、翌年4月にミ・ナーラとしてリニューアルしています。
 現在は、敷地の一角に設けられた記念碑のみが、長屋王邸跡であることを示すことになりました。

〇長屋王とは?

 飛鳥時代から奈良時代に活躍した皇族政治家です。天武天皇の孫で、高市皇子の長男とされていますが、生年ははっきりせず、684年(天武天皇13)とする説と676年(天武天皇5)とする説があります。
 704年(慶雲元)に無位から正四位へ昇進し、709年(和銅2)に宮内卿に叙任されて公卿に列し、翌年に式部卿、718年(養老2)に大納言、藤原不比等没後の721年(養老5)には右大臣となって、勢力を拡大しました。
 724年(神亀元)に聖武天皇が即位すると正二位左大臣となり、王族政治家として政治の実権を握り、藤原氏に対抗する勢力となります。
 728年(神亀5)には、父母や天皇などのため、それぞれ大般若経600巻を書写させたり、社会の安定化を図るため、公民の貧窮化や徭役忌避への対策を行い、開田策を実施するなど律令制維持を図る諸策を進めました。
 しかし、漆部君足らに謀反をくわだてていると密告(藤原氏の陰謀と言われている)され、朝廷から謀反の疑いを受けて軍隊に邸宅を囲まれ、729年(神亀6年2月12日)に、妻子とともに自害します。(長屋王の変)
 詩歌を好み、『懐風藻』に詩3編、『万葉集』に5首が掲載されていました。
 尚、1988年(昭和63)に、奈良市内の平城京左京三条二坊に当たる地の約6万屬鮴蠅瓩訶∥霎廚ら「長屋親王宮鮑大 贄十編」と記す木簡をはじめ、約6万5千点もの木簡が出土し、そこに長屋王邸があったことが判明します。

〇木簡とは?

 木を薄く細長く板状に切り、それに墨書したもので、古代の中国や日本などで用いられました。元々は、竹を割って1枚1枚を紐で綴って用いたもので、竹簡とも呼ばれ、紙の発明以前はよく使われます。
 紙の発明後も紙が貴重だったので併用され、日本では藤原京跡、平城宮跡、長岡京跡や静岡県伊場遺跡などから多く出土しました。
 これらの木簡は官庁の文書や調などの物につけた荷札、伝票類が多いものの、呪符、落書なども見つかっています。
 古代史・文化史上の貴重な史料で、文献史料と共に当時の社会生活を知る貴重な記録資料で、1978年(昭和53)には、木簡学会も設立されました。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、1922年(大正12)に、日本最大の分水工事である信濃川の大河津分水工事が完成し、通水した日です。
 大河津分水は、信濃川を新潟県燕市(分水地区)から長岡市(寺泊地域)を経て日本海へと注ぐ分水路で、新信濃川とも言われてきました。
 信濃川は、昔から度重なる水害によって、越後平野に甚大な被害を与え、この対策が求められます。このためには、増水した水が越後平野に入る前に一部を日本海へ流すことが考えられ、そのために計画されたのが大河津分水でした。
 江戸時代中期の享保年間(1716~36年)に、本間屋数右衛門、河合某らが大河津分水建設を江戸幕府に願い出ましたが、許可されずに終わります。
 明治維新後の1869年(明治2)に、白根の庄屋、田沢与左衛門らが分水工事を越後府に請願し、翌年から分水工事が始まりました。しかし、技術的問題や地元負担の重さ、水量減少により河口部の新潟港維持の危惧などから、反対運動が起こり、一揆(悌輔騒動)も発生して、1875年(明治8)には分水工事が中止されるに至ります。
 1876年(明治9)から、分水工事の代替として信濃川河身改修事業が着手されたものの、抜本的な解消には至らず、1896年(明治29)7月22日に、信濃川で水害「横田切れ」(被害面積18,000ha、家屋流出25,000戸)が起こり、大きな被害が出ました。
 その中で、分水工事の要望が高まり、1909年(明治42)に国家事業として大河津分水工事が再開されます。当時は、東洋一の大工事と言われ、13年余りの歳月とのべ1,000万人の人手をかけて、1922年(大正11)8月25日に、延長10kmの分水路(新信濃川)が完成し、通水されました。
 これにより河川の氾濫は減少し,河道も固定化され、州島の5万ヘクタールの湿田が干田と化し、新潟港の築港を促進します。完成記念に築堤3kmと大河津分水公園一帯に桜が植えられ、現在は花見の名所になり、閘門(こうもん)側の公園内に資料館(2002年にリニューアルされる)も出来ました。
 しかし、1927年(昭和2)6月24日に大河津分水の自在堰が壊れて大きな被害を受け、1982年(昭和57)9月13日に大河津で観測史上最高水位(16.23m)を記録し、洗堰で漏水するなどがあり、補修・改良工事が続けられています。
 尚、2000年(平成12)5月29日に新洗堰が完成し、使用されなくなった旧洗堰は産業遺産として、2002年(平成14)2月14日に国の登録有形文化財に登録されました。

〇大河津分水関係略年表

・1716~35年(享保年間) 本間屋数右衛門、河合某らが大河津分水建設を幕府に願い出たが、許可されなかった
・1842年(天保13) 江戸幕府も計画調査を実施するが、莫大な費用と周辺集落の反対により起工できなかった
・1869年(明治2) 白根の庄屋、田沢与左衛門らが分水工事を越後府に請願する
・1870年(明治3) 大河津分水工事が始められる
・1875年(明治8) 分水工事が中止される
・1876年(明治9) 分水工事の代替として信濃川河身改修事業に着手する
・1881年(明治14) 田沢与一郎、田沢実入らが信濃川治水会社を設立、分水工事再開のための運動を広める
・1896年(明治29)7月22日 信濃川で水害「横田切れ」(被害面積18,000ha、家屋流出25,000戸)が起こる
・1909年(明治42) 国家事業として大河津分水工事が再開される
・1922年(大正11)8月25日 大河津分水工事が完成し、通水される
・1927年(昭和2)6月24日 大河津分水の自在堰が壊れて大きな被害を受け、補修工事を開始する
・1930年(昭和5)8月20日 洪水の危機が迫り、工事の主任技官が下流域の洪水回避のため仮締切堤防を破壊する
・1931年(昭和6)6月20日 自在堰に代わる可動堰が完成して、補修工事が完了する
・1982年(昭和57)9月13日 大河津で観測史上最高水位(16.23m)を記録し、洗堰で漏水する
・1996年(平成8) 新洗堰本体工事に着手する
・2000年(平成12)5月29日 新洗堰が完成し、通水される
・2002年(平成14) 洗堰周辺整備工事が竣功する
・2002年(平成14)2月14日 旧洗堰が登録有形文化財に登録される
・2002年(平成14)4月18日 信濃川大河津資料館がリニューアルオープンする
・2003年(平成15) 可動堰改築事業に着手する
・2011年(平成23)11月 可動堰改築事業が完成し、通水式が行なわれる
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、江戸時代中期の1776年(安永5)に、国学者平田篤胤(ひらた あつたね)の生まれた日ですが、新暦では10月6日となります。
 平田篤胤は、出羽国久保田城下(現在の秋田県秋田市)において、秋田佐竹藩大番組頭の大和田祚胤(としたね)の四男として生まれましたが、幼名を正吉といいましした。
 数え年8歳のとき漢学を中山青莪に学び、11歳で医学を叔父柳元に教えられ、玄琢と称します。1795年(寛政7)に、数え年20歳で脱藩して江戸に出て、仕事を転々として生計を立てながら苦学しました。
 1800年(寛政12)25歳のときに備中松山藩士平田篤穏(あつやす)の養嗣子となり、翌年、駿河沼津藩士石橋常房の娘・織瀬と結婚します。
 1803年(享和3)、宣長学の立場から太宰春台の『弁道書』を批判した処女作『呵妄書』を著わしました。翌年に家塾真菅乃屋を開いて、3名の門人から出発して、子弟の教育にあたります。
 1812 年(文化9)『霊能真柱』を著わし、その前後に『古道大意』、『俗神道大意』、『古史伝』などを書いて、活発に著作活動を行ないました。古典研究から進んで、尊王復古を主張する古道学を説き、文学的・考証学的要素を外れて信仰的となり、「平田神道」とも称される神学体系を作りあげます。
 しかし、1841年(天保12)にその著作が幕府筋の忌むところとなり、著述差し止めと江戸退去命令を受け、国元に帰らされました。それでも、地方の豪農層・神官らに広まって、門人は増え続け、553人に達します。
 その後、江戸帰還を果たせないまま、失意のうちに、1843年(天保14年閏9月11日)に、出羽国久保田において、数え年68歳で亡くなりました。
 死後、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長と共に国学四大人の一人と呼ばれるようになり、幕末の尊王攘夷運動に思想的な影響を与えます。

〇平田篤胤の主要な著作

・『呵妄書』(1803年)
・『霊能真柱』(1812年)
・『古史伝』
・『出定笑語』
・『鬼神新論』(1820年)
・『仙境異聞』(1822年成立)
・『印度蔵志』(1826年成立)
・『気吹舎歌集』
・『古史成文』
・『古史徴』
・『歌道大意』
・『本教外篇』
・『西籍慨論』
・『勝五郎再生記聞』
・『赤県(から)太古伝』
・『古道大意』(1860年)
・『俗神道大意』(1860年)
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、大正時代の1914年(大正3)に、第一次世界大戦において「日英同盟」を理由に日本がドイツに宣戦布告した日です。
 同年10月3日から14日にかけて、日本は南洋に艦隊を派遣し、ドイツ領南洋諸島(マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島)を占領しました。また、10月31日から日本とイギリスの連合軍は、ドイツ東洋艦隊の根拠地だった中華民国山東省の租借地である青島と膠州湾の要塞を攻撃(青島の戦い)します。11月7日には青島を占領し、ここに東アジアでの戦闘は終了しました。その中で、日本は戦死者415人、戦傷者907人を出します。
 その後、日本は1919年(大正9)のパリ講和会議の「ヴェルサイユ条約」により、ドイツの山東省権益と赤道以北の南洋諸島の委任統治領を得ることとなりました。

〇第一次世界大戦とは?

 三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)と三国協商(イギリス・フランス・ロシア)との帝国主義的対立や民族的対立などを背景として、ヨーロッパを中心に起こった最初の世界的規模の戦争です。
 1914年(大正3)6月28日、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻がセルビア人の青年に暗殺されたサラエボ事件を発端として開戦しました。
 同盟側にはトルコ・ブルガリアなど、協商側には同盟を脱退したイタリアのほかベルギー・日本・アメリカ・中国など30を超える国や地域が連鎖的に参戦します。
 1918年(大正7)11月にドイツ降伏で同盟国側が敗北するまで、4年余りにわたってヨーロッパ戦場を中心に激戦が続きました。
 国家総力戦となり戦車や飛行機、毒ガスなど多くの近代兵器が使用され、犠牲者は兵士だけで約900万人にも及んだと言われています。
 1919年(大正9)のパリ講和会議で「ベルサイユ条約」が成立しました。

〇「日英同盟」とは?

 明治時代後期の1902年(明治35)1月30日に、イギリスの首都ロンドンで、日本駐英公使林董とイギリス外相ランズダウンとの間で調印された、イギリスと日本の二国間軍事同盟です。
 日本の朝鮮・中国における権益、英国の中国における権益を相互に認め、アジアにおけるロシアの膨張に備えることを共同の目的とし、締約国の一方が2ヵ国以上と交戦の場合、他方は参戦の義務を負うものとしました。
 その後、1905年(明治38)改定の第二回協約では、1国以上と交戦した場合は、同盟国はこれを助けて参戦するよう変更されます。また、1911年(明治44)改定の第三回協約では、アメリカが交戦相手国の対象外に定められるなどして継続更新され、1914年(大正3)に起こった第一次世界大戦では、日本はこの協約に基づき、連合国の一員として参戦しました。
 しかし、1921年(大正10)のワシントン海軍軍縮会議の結果調印された四カ国条約成立に伴って、1923年(大正12)に失効します。

☆第三回日英同盟協約 (全文) [正文は英語] 19114年(明治44)7月13日調印

AGREEMENT OF ALLIANCE OF 1911. (Agreement of Alliance between Japan and Great Britain, 1911, Third Anglo-Japanese Alliance)

PREAMBLE.

The Government of Japan and the Government of Great Britain, having in view the important changes which have taken place in the situation since the conclusion of the Anglo-Japanese Agreement of the 12th August, 1905, and believing that a revision of that Agreement responding to such changes would contribute to general stablity and repose, have agreed upon the following stipulations to replace the Agreement above mentioned, such stipulations having the same object as the said Agreement, namely:

(a.) The consolidation and maintenance of the general peace in the regions of Eastern Asia and of India;

(b.) The preservation of the common interests of all Powers in China by insuring the independence and the integrity of the Chinese Empire and the principle of equal opportunities for the commerce and industry of all nations in China;

(c.) The maintenance of the territorial rights of the High Contracting Parties in the regions of Eastern Asia and of India, and the defence of their special interests in the said regions:--

ARTICLE 1.

It is agreed that whenever, in the opinion of either Japan or Great Britain, any of the rights and interests referred to in the preamble of this Agreement are in jeopardy, the two Governments will communicate with one another fully and frankly, and will consider in common the measures which should be taken to safeguard those menaced rights or interests.

ARTICLE 2.

If by reason of unprovoked attack or aggressive action, wherever arising, on the part of any Power or Powers, either High Contracting Party should be involved in war in defence of its territorial rights or special interests mentioned in the preamble of this Agreement, the other High Contracting Party will at once come to the assistance of its ally, and will conduct the war in common, and make peace in mutual agreement with it.

ARTICLE 3.

The High Contracting Parties agree that neither of them will, without consulting the other, enter into separate arrangements with another Power to the prejudice of the objects described in the preamble of this Agreement.

ARTICLE 4.

Should either High Contracting Party conclude a treaty of general arbitration with a third Power, it is agreed that nothing in this Agreement shall entail upon such Contracting Party an obligation to go to war with the Power with whom such treaty of arbitration is in force.

ARTICLE 5.

The conditions under which armed assistance shall be afforded by either Power to the other in the circumstances mentioned in the present Agreement, and the means by which such assistance is to be made available, will be arranged by the Naval and Military authorities of the High Contracting Parties, who will from time to time consult one another fully and freely upon all questions of mutual interest.

ARTICLE 6.

The present Agreement shall come into effect immediately after the date of its signature, and remain in force for ten years from that date.

In case neither of the High Contracting Parties should have notified twelve months before the expiration of the said ten years the intention of terminating it, it shall remain binding until the expiration of one year from the day on which either of the High Contracting Parties shall have denounced it. But if, when the date fixed for its expiration arrives, either ally is actually engaged in war, the alliance shall, ipso facto, continue until peace is concluded.

In faith whereof the Undersigned, duly authorized by their respective Governments, have signed this Agreement, and have affixed thereto their Seals.

Done in duplicate at London, the 13th day of July, 1911.

[L.S.] (Signed) TAKAAKI KATO,

Ambassador Extraordinary and Plenipotentiary of His Majesty the Emperor of Japan at the Court of St. James.

[L.S.] (Signed) E. GREY,

His Britannic Majesty’s Principal Secretary of State for Foreign Affairs.


【日本語訳文】

協約前文

日本國政府及大不列顛國政府ハ千九百五年八月十二日ノ日英協約締結以來事態ニ重大ナル變遷アリタルニ顧ミ該協約ヲ改訂シ以テ其ノ變遷ニ適應セシムルハ全局ノ静寧安固ニ資スヘキコトヲ信シ前記協約ニ代ハリ之ト同シク

(イ)東亞及印度ノ地域ニ於ケル全局ノ平和ヲ確保スルコト

(ロ)清帝國ノ獨立及領土保全竝清國ニ於ケル列國ノ商工業ニ對スル機會均等主義ヲ確實ニシ以テ清國ニ於ケル列國ノ共通利益ヲ維持スルコト

(ハ)東亞及印度ノ地域ニ於ケル兩締盟國ノ領土權ヲ保持シ竝該地域ニ於ケル兩締盟國ノ特殊利益ヲ防護スルコト

ヲ目的トスル左ノ條款ヲ約定セリ

第一條 日本國又ハ大不列顛國ニ於テ本協約前文ニ記述セル權利及利益ノ中何レカ危殆ニ迫ルモノアルヲ認ムルトキハ兩國政府ハ相互ニ充分ニ且隔意ナク通告シ其ノ侵迫セラレタル權利又ハ利益ヲ擁護セムカ爲ニ執ルヘキ措置ヲ協同ニ考量スヘシ

第二條 兩締盟國ノ一方カ挑發スルコトナクシテ一國若ハ數國ヨリ攻撃ヲ受ケタルニ依リ又ハ一國若ハ數國ノ侵略的行動ニヨリ該締盟國ニ於テ本協約前文ニ記述セル其ノ領土權又ハ特殊利益ヲ防護セムカ爲交戰スルニ至リタル時ハ前記ノ攻撃又ハ侵略的行動カ何レノ地ニ於テ發生スルヲ問ハス他ノ一方ノ締盟國ハ直ニ來リテ其ノ同盟國ニ援助ヲ與へ協同戰鬪ニ當リ講和モ又雙方合意ノ上ニ於テ之ヲ爲スヘシ

第三條 兩締盟國ハ孰レモ他ノ一方ト協議ヲ經スシテ他國ト本協約前文ニ記述セル目的ヲ害スヘキ別約ヲ爲ササルヘキコトヲ約定ス

第四條 兩締盟國ノ一方カ第三國ト總括的仲裁裁判條約ヲ締結シタル場合ニハ本協約ハ該仲裁裁判條約ノ有效ニ存續スル限右第三國ト交戰スルノ義務ヲ前記締盟國ニ負ハシムルコトナカルヘシ

第五條 兩締盟國ノ一方カ本協約中ニ規定スル場合ニ際シ他ノ一方ニ兵力的援助ヲ與フヘキ條件及該援助ノ實行方法ハ兩締盟國陸海軍當局者ニ於テ協定スヘク又該當局者ハ相互利害ノ問題ニ關シ相互ニ充分ニ且隔意ナク隨時協議スヘシ

第六條 本協約ハ調印ノ日ヨリ直ニ實施シ十年間效力ヲ有ス

右十年ノ終了ニ至ル十二月前ニ兩締盟國ノ孰レヨリモ本協約ヲ廢棄スルノ意思ヲ通告セサルトキハ本協約ハ兩締盟國ノ一方カ廢棄ノ意思ヲ表示シタル當日ヨリ一年ノ終了ニ至ル迄引續キ效力ヲ有ス然レトモ若右終了期日ニ至リ同盟國ノ一方カ現ニ交戰中ナルトキハ本同盟ハ講和ノ成立ニ至ル迄當然繼續スヘシ

右證據トシテ下名ハ各其ノ政府ノ委任ヲ受ケ本協約ニ署名調印ス

一九一一年七月十三日倫敦ニ於テ本書二通ヲ作ル

大不列顛國駐剳日本帝國皇帝陛下ノ特命全權大使

加藤高明 印

大不列顛國皇帝陛下ノ外務大臣

イー、グレー 印

             外務省編『日本外交年表竝主要文書』上巻より
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、昭和時代前期の1944年(昭和19)に、沖縄からの学童疎開船「対馬丸」が米軍潜水艦により撃沈された「対馬丸事件」が起きた日です。
 これは、日本郵船の貨物船「対馬丸」が、太平洋戦争中の1944年(昭和19)8月22日、政府命令による学童疎開輸送中にアメリカ海軍の潜水艦の攻撃を受け沈没し、犠牲者数1,476名(内、疎開学童780名)を出した事件です。
 1944年(昭和19)7月7日にサイパンが陥落し、沖縄周辺へも危機が迫る中で、政府は奄美大島・徳之島・沖縄諸島の老幼婦女子を対象に、日本本土へ8万人・台湾に2万人の計10万人を疎開させる命令を出しました。
 沖縄県は「沖縄県学童集団疎開準備要項」を発令して学校単位で疎開事務を進めます。そして、同年8月21日夕方、対馬丸・和浦丸・暁空丸と護衛艦の宇治・蓮を含む計5隻の船団を組んで、那覇港から長崎を目指して出航しました。
 しかし、翌22日の夜10時過ぎ、鹿児島県・悪石島の北西10kmの地点を航行中、米潜水艦ボーフィンの魚雷攻撃を受け「対馬丸」が沈没し、多くの犠牲者を出したのです。
 対馬丸撃沈から60年目の2004年(平成16)に、対馬丸事件の犠牲者の鎮魂と、子供たちに平和と命の尊さを教え、事件を正しく後世へ伝える為に、沖縄県那覇市に「対馬丸記念館」が開館しました。戦争の悲劇を後世に伝える施設で、入口は2階で、2階展示は、「対馬丸の出航」、「対馬丸の撃沈」、1階展示は、「沖縄の学童疎開」、「犠牲者の名前と遺影」となっていて、戦争は2度とはしてはいけないと考えさせられられるものです。 

〇「学童疎開」とは?
 太平洋戦争の末期に、アメリカ軍による日本本土爆撃に備え、東京、大阪、名古屋、横浜など大都市の国民学校初等科児童を集団的、個人的に、半強制により農村地帯へ移動させた措置のことです。
 アメリカ軍の爆撃機による直接的な本土攻撃の危機が増大した1943年(昭和18)12月21日「都市疎開実施要綱」が閣議決定されて都市施設の地方分散がはかられ、東京都での学童疎開も始まっていました。
 しかし、1944年(昭和19)6月15日に、アメリカ軍がサイパン島に上陸し、さらにその危険が増大することになり対策の強化が迫られたのです。
 その中で、同年6月30日、東条英機内閣は「学童疎開促進要綱」を閣議決定し、「縁故疎開」を「強力ニ勧奨スル」とともに、縁故のない児童について「集団疎開」を実施することになりました。
 そして、同年8月から学校単位の集団疎開が実施され、1945年(昭和20)の疎開児童数は約 45万人に達したのです。
 これにらの疎開先では公会堂、社寺、旅館などが宿舎とされ、そこで授業等も行われましたが、戦争末期の食糧不足、物資の欠乏により、その調達に追われる日々で、まとも教育はあまり行われませんでした。

☆「学童疎開」関係略年表

<1943年(昭和18)>
・12月10日 文部省により縁故による学童疎開促進が発表される
・12月21日 東條内閣により「都市疎開実施要綱」が閣議決定される

<1944年(昭和19)>
・6月30日 東条英機内閣が「学童疎開促進要綱」を閣議決定し、集団的な学童疎開が促進される
・7月5日 防空総本部は「帝都学童疎開実施細目」を定め、実施が勧奨される
・7月7日 緊急閣議により沖縄の疎開が決定される
・7月20日 文部省により集団的な学童疎開の範囲が東京のほか12都市に拡大される
・8月16日 沖縄県の九州などへの疎開が開始される
・8月22日 沖縄から本土への学童疎開のための「対馬丸」が米軍潜水艦により撃沈される(対馬丸事件)

<1945年(昭和20)>
・3月9日 集団疎開を1年以上継続することが閣議決定される
・3月15日 空襲に対処するため「大都市における疎開強化要綱」が閣議決定される(学童、母子など続々緊急疎開)
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ