1986年(昭和61)から、奈良市二条大路南のそごうデパート建設予定地で奈良文化財研究所による発掘調査が行われていましたが、翌年に木簡が発見され、「長屋皇宮」の文字が確認されて注目されました。
その中で、1988年(昭和63)8月に発掘していた左京三条二坊八坪の東南隅で大量の木簡が見つかり、「雅楽寮移長屋王家令所」と書かれた木簡があることから、ここが長屋王の住居であったという重要な証拠となります。ここから見つかった木簡は、約3万6千点に及び、「長屋王家木簡」とよばれるようになりました。
その木簡には、邸宅内にいた人々に米飯を支給した日々の伝票が多く、その支給先として、長屋王の家族や使用人等がみられ、長屋王家の所領から食料などを進上する際の木簡もあります。
これらは、当時の王家の日常生活や王家を取り巻く環境を浮かび上がらせる貴重な資料となり、古代の日本語の実態解明にも役立ち、国語学・国文学にも大きな影響を与えました。
しかし、多くの研究者や地元の反対があったにも関わらず、建設は続行され、遺構の多くは破壊されます。そして、1989年(平成元)10月2日に「奈良そごう」としてオープンしましたが、そごうグループの破綻により、11年余りの営業で、2000年(平成12年)12月25日閉店しました。その後、「イトーヨーカドー奈良店」となって、2003年(平成15)7月10日にオープンしたものの、14年後の2017年(平成29)9月10日には閉店し、翌年4月にミ・ナーラとしてリニューアルしています。
現在は、敷地の一角に設けられた記念碑のみが、長屋王邸跡であることを示すことになりました。
〇長屋王とは?
飛鳥時代から奈良時代に活躍した皇族政治家です。天武天皇の孫で、高市皇子の長男とされていますが、生年ははっきりせず、684年(天武天皇13)とする説と676年(天武天皇5)とする説があります。
704年(慶雲元)に無位から正四位へ昇進し、709年(和銅2)に宮内卿に叙任されて公卿に列し、翌年に式部卿、718年(養老2)に大納言、藤原不比等没後の721年(養老5)には右大臣となって、勢力を拡大しました。
724年(神亀元)に聖武天皇が即位すると正二位左大臣となり、王族政治家として政治の実権を握り、藤原氏に対抗する勢力となります。
728年(神亀5)には、父母や天皇などのため、それぞれ大般若経600巻を書写させたり、社会の安定化を図るため、公民の貧窮化や徭役忌避への対策を行い、開田策を実施するなど律令制維持を図る諸策を進めました。
しかし、漆部君足らに謀反をくわだてていると密告(藤原氏の陰謀と言われている)され、朝廷から謀反の疑いを受けて軍隊に邸宅を囲まれ、729年(神亀6年2月12日)に、妻子とともに自害します。(長屋王の変)
詩歌を好み、『懐風藻』に詩3編、『万葉集』に5首が掲載されていました。
尚、1988年(昭和63)に、奈良市内の平城京左京三条二坊に当たる地の約6万屬鮴蠅瓩訶∥霎廚ら「長屋親王宮鮑大 贄十編」と記す木簡をはじめ、約6万5千点もの木簡が出土し、そこに長屋王邸があったことが判明します。
〇木簡とは?
木を薄く細長く板状に切り、それに墨書したもので、古代の中国や日本などで用いられました。元々は、竹を割って1枚1枚を紐で綴って用いたもので、竹簡とも呼ばれ、紙の発明以前はよく使われます。
紙の発明後も紙が貴重だったので併用され、日本では藤原京跡、平城宮跡、長岡京跡や静岡県伊場遺跡などから多く出土しました。
これらの木簡は官庁の文書や調などの物につけた荷札、伝票類が多いものの、呪符、落書なども見つかっています。
古代史・文化史上の貴重な史料で、文献史料と共に当時の社会生活を知る貴重な記録資料で、1978年(昭和53)には、木簡学会も設立されました。