ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2018年08月

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 今日は、明治時代前期の1878年(明治11)に、日本画家鏑木清方(かぶらき きよかた)の生まれた日です。
 鏑木清方は、東京府神田区佐久間町(現在の東京都千代田区)で、小説家でジャーナリストの父・条野採菊の長子として生まれましたが、本名は健一といいました。
 東京英語学校で学びましたが、1891年(明治24)に浮世絵の水野年方に入門し、翌年学校を中退しています。17歳頃から新聞や雑誌の挿絵を描くようになり、尾崎紅葉の『金色夜叉』、島崎藤村の『破戒』、泉鏡花の作品の挿絵などで知られるようになりました。
 1895年(明治28)に母方の家督を継ぎ鏑木姓となり、1901年(明治34)同志と共に烏合会を結成、絵画制作に励むようになり、翌年『一葉女史の墓』を発表して注目されます。
 1916年(大正5)に平福百穂、結城素明らと金鈴社を結成、翌年の第1回文展に『黒髪』を出品して特選となり、以後文展・帝展で受賞を重ねました。
 江戸の名残り濃い明治の東京の庶民生活を写した気品ある風俗画を得意とし、第8回帝展で帝国美術院賞を受賞した『築地明石町』は、近代日本画の代表的美人画として高く評価されます。その後、帝展審査員、帝国美術院会員、帝室技芸員となり、1954年(昭和29)に文化勲章を受章しました。
 随筆家としても有名で、『こしかたの記』(1961年) などを書きましたが、1972年(昭和47)3月2日に、神奈川県鎌倉市において、93歳で亡くなります。

〇鏑木清方の主要な作品

<絵画>
・『樋口一葉の墓』(1902年)
・『黒髪』(1906年)第1回文展特選
・『墨田河舟遊』(1914年)
・『霽れゆく村雨』(1915年)
・『ためさるゝ日』(1918年)
・『築地明石町』(1927年)帝国美術院賞
・『三遊亭円朝像』(1930年)国指定重要文化財
・『にごりえ』(1934年)
・『一葉』(1940年)

<随筆集>
・『築地川』(1934年)
・『芦の葉』(1938年)
・『こしかたの記』(1961年)
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 今日は、昭和時代後期の1984年(昭和59)に、小説家・劇作家・演出家有吉佐和子(ありよし さわこ)の亡くなった日です。
 有吉佐和子は、1931年(昭和6)1月20日に、和歌山県和歌山市真砂町において、父・有吉眞次、母・秋津の子として生まれました。
 横浜正金銀行勤務の父の海外赴任に伴い、小学校時代をジャワ島のバタヴィア・スラバヤで過ごします。1941年(昭和16)に帰国後、東京市立第四高女(現在の都立竹台高校)、和歌山高女(現在の和歌山県立桐蔭高校)、光塩高女を経て、府立第五高女(現在の都立富士高校)を卒業しました。
 その後、東京女子大学英文学科に入学、在学中は芝居に凝り劇評を書き、休学後1952年(昭和27)に同短期大学部英語学科卒業します。大蔵省外郭団体の職員を経て、舞踊家吾妻徳穂の秘書となりますが、第15次『新思潮』に参加して文学を志しました。
 1956年(昭和31)に、古い伝統的な芸の世界と新しい近代的な教養の世界との鮮かな対照を描いた短編『地唄(じうた)』が文学界新人賞、芥川賞の候補作となり注目されます。続いて、『まっしろけのけ』(1956年)、『江口の里』(1958年)、『墨』(1961年)などの古典的世界に題材を求めた作品を発表しました。
 一方て歴史小説にも挑み、自らの家系をモデルとした紀州女の年代記である長編『紀ノ川』(1959年)で小説家としての地位を確立、『香華(こうげ)』(1961~62年)で小説新潮賞、『華岡青洲 (はなおかせいしゅう) の妻』(1966年)で女流文学賞、『出雲の阿国』(1969年)で芸術選奨文部大臣賞、日本文学大賞を受賞するなど大きく評価されました。
 1970年代に入ると代表作となる『恍惚の人』(1972年)、『複合汚染』(1974~75年)などの社会問題小説を発表、大ベストセラーとなって反響を呼びます。
 それからも、歴史考証にチャレンジする『和宮様御留(かずのみやさまおとめ)』(1978年)で毎日芸術賞を受賞するなどしましたが、1984年(昭和59)8月30日に、東京都杉並区の自宅において、53歳で急逝しました。

〇有吉佐和子の主要な作品

・『地唄』(1956年)
・『まっしろけのけ』(1956年)
・『江口の里』(1958年)
・『墨』(1961年)
・『紀ノ川』(1959年)
・『私は忘れない』(1959年)
・『香華(こうげ)』(1961~62年)小説新潮賞
・『助左衛門四代記』(1962~63年)
・『非色』(1963年)
・『有田川』(1963年)
・『非色』(1963~64年)
・『華岡青洲 (はなおかせいしゅう) の妻』(1966年)女流文学賞
・『ぷえるとりこ日記』(1966年)
・『海暗(うみくら)』(1967年)文藝春秋読者賞
・『出雲の阿国』(1969年)芸術選奨文部大臣賞、日本文学大賞
・『恍惚の人』(1972年)
・『複合汚染』(1974~75年)
・『和宮様御留(かずのみやさまおとめ)』(1977~78年)毎日芸術賞
・『開幕ベルは華やかに』(1982年)
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 今日は、明治時代後期の1910年(明治43年)に、「韓国併合ニ関スル条約」(通称:韓国併合条約)が発効した日です。
 この条約は、日本が韓国を領有して完全に植民地とするもので、1910年(明治43)8月22日に、漢城府(現在のソウル特別市)で、寺内正毅統監と李完用総理が調印し、同月29日に裁可公布して発効したもので、「韓国併合条約」または「日韓併合条約」とも呼ばれてきました。
 日本は、1876年(明治9)に、朝鮮に対して最初の不平等条約である「日朝修好条規」を締結して以来、朝鮮半島進出を試み、その支配をめぐって、1894~95年(明治27~28)に日清戦争、1904~05年(明治37~38)に日露戦争が起きました。
 日露戦争終結のために調印された「ポーツマス条約」 (1905年) 第2条と「第二回日英同盟協約」(1905年)第3条において、それぞれ朝鮮における優越的立場を認められます。
 その後、3次にわたる「日韓協約」で実質的に韓国主権を手中に収め、1906年(明治40)2月に韓国統監府が開設され、それと共に1908年(明治42)の東洋拓殖株式会社、1909年(明治423)の韓国銀行(朝鮮銀行)の設立で経済支配を確立しました。
 その間、韓国ではハーグ密使事件、伊藤博文暗殺、李完用刺傷、啓蒙運動、義兵闘争、農民反乱などの広範な抵抗運動が起こります。
 日本側は、日朝文化の共通性を示す「日鮮同祖論」などを喧伝すると共に、反日運動を弾圧し、植民地支配を強化しました。
 その結果、1910年(明治43年)の「韓国併合ニ関スル条約」(通称:韓国併合条約)の調印・発効に至り、完全に植民地化されます。
 以後、韓国は朝鮮と呼ばれるようになり、1945年(昭和20)8月15日に日本が太平洋戦争に敗れて解放されるまで、朝鮮総督府の直接的支配を受けました。
 以下に、「韓国併合ニ関スル条約」(全文)を掲載しておきますので、ご参照ください。

〇「韓国併合ニ関スル条約」(全文) 1910年(明治43)8月22日調印、8月29日発効

韓国併合ニ関スル条約(明治43年条約第4号)

日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下ハ両国間ノ特殊ニシテ親密ナル関係ヲ顧ヒ相互ノ幸福ヲ増進シ東洋ノ平和ヲ永久ニ確保セムコトヲ欲シ此ノ目的ヲ達セムカ為ニハ韓国ヲ日本帝国ニ併合スルニ如カサルコトヲ確信シ茲ニ両国間ニ併合条約ヲ締結スルコトニ決シ之カ為日本国皇帝陛下ハ統監子爵寺内正毅ヲ韓国皇帝陛下ハ内閣総理大臣李完用ヲ各其ノ全権委員ニ任命セリ因テ右全権委員ハ会同協議ノ上左ノ諸条ヲ協定セリ

第一条 韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲与ス

第二条 日本国皇帝陛下ハ前条ニ掲ケタル譲与ヲ受諾シ且全然韓国ヲ日本帝国ニ併合スルコトヲ承諾ス

第三条 日本国皇帝陛下ハ韓国皇帝陛下太皇帝陛下皇太子殿下並其ノ后妃及後裔ヲシテ各其ノ地位ニ応シ相当ナル尊称威厳及名誉ヲ享有セシメ且之ヲ保持スルニ十分ナル歳費ヲ供給スヘキコトヲ約ス

第四条 日本国皇帝陛下ハ前条以外ノ韓国皇族及其ノ後裔ニ対シ各相当ノ名誉及待遇ヲ享有セシメ且之ヲ維持スルニ必要ナル資金ヲ供与スルコトヲ約ス

第五条 日本国皇帝陛下ハ勲功アル韓人ニシテ特ニ表彰ヲ為スヲ適当ナリト認メタル者ニ対シ栄爵ヲ授ケ且恩金ヲ与フヘシ

第六条 日本国政府ハ前記併合ノ結果トシテ全然韓国ノ施政ヲ担任シ同地ニ施行スル法規ヲ遵守スル韓人ノ身体及財産ニ対シ十分ナル保護ヲ与ヘ且其ノ福利ノ増進ヲ図ルヘシ

第七条 日本国政府ハ誠意忠実ニ新制度ヲ尊重スル韓人ニシテ相当ノ資格アル者ヲ事情ノ許ス限リ韓国ニ於ケル帝国官吏ニ登用スヘシ

第八条 本条約ハ日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下ノ裁可ヲ経タルモノニシテ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス

右証拠トシテ両全権委員ハ本条約ニ記名調印スルモノナリ

明治四十三年八月二十二日

統       監 子爵寺內正毅

隆熙四年八月二十二日

內閣總理大臣    李 完 用

   「官報」より
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 今日は、鎌倉時代の1253年(建長5)に、禅僧・日本の曹洞宗の開祖道元(どうげん)の亡くなった日ですが、新暦では9月22日となります。
 道元(どうげん)は、1200年(正治2年1月2日)に、宇治木幡(京都)の松殿山荘において、父・源通親(一説に源通具)と母・藤原基房の娘の子として生まれましたが、幼名は信子丸、諱は希玄といいました。
 3歳にして父を8歳にして母を失い、13歳のときに、外叔父の良観を頼って比叡山を訪ねます。1213年(建保元)に天台座主公円について出家し、仏法房道元と名のり、翌年に建仁寺の栄西に入門、高弟明全について修学しました。
 1223年(貞応2)に、明全とともに入宋し、天童山で如浄の印可を受け、1227年(安貞元)28歳のときに、同行した明全の遺骨を抱いて帰国します。
 建仁寺などに仮寓し、1230年(寛喜2)頃に『正法眼蔵』を書き始め、34歳で京都・深草に興聖宝林禅寺を開いて、説法と執筆にいそしみました。
 貴族・権勢に近づくことを避け、1244年(寛元2)に越前に大仏寺をおこして開堂し、2年後に大仏寺を永平寺と改め、曹洞宗を開きました。
 のちに京都、鎌倉などを往還し、禅の普及に努めましたが、1253年(建長5年8月28日)に、京都において、数え年54歳で亡くなっています。

〇道元の主要な著作

・『正法眼蔵』
・『普勧坐禅儀』
・『永平廣録』
・『永平清規(しんぎ)』
・『学道用心集』
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 今日は、昭和時代中期の1949年(昭和24)に、GHQによって「第一次税制改革勧告文概要」(シャウプ勧告)が出された日です。
 これは、GHQの要請によって来日したコロンビア大学教授 C.シャウプを団長とする使節団が日本の租税制度に関して行なった勧告で、正式名称は、「Report on Japanese Taxation by the Shoup Misson」(シャウプ使節団日本税制報告書)といい、通称「シャウプ勧告」と呼ばれてきました。
 この使節団は、1949年(昭和24)5月10日に来日し、4ヶ月弱に及ぶ、政府、地方自治体の財政担当者、学者との懇談や全国各地の視察など各種調査後、同年8月27日付で、第一次報告書(概要)が出され、1950年(昭和25)9月21日付で、第二次の正式報告書(全文)が出されます。
 その内容は、税制の抜本的改革を示し、直接税中心主義の徹底(所得税は徹底した総合課税とし、富裕税・再評価税の新設等)、地方財政の強化(地方税の独立税化等)、申告納税制の採用(青色申告・予定申告等)などを内容とし、一貫した租税体系として提案されました。
 この背景には、ドッジ・ラインによる日本経済の安定化に対応して、恒久的な租税制度の確立を目指すことがあり、その後の日本の税制の原点となります。
 1950年(昭和25)の税制改革で、国税・地方税などに採用されましたが、その過程で大資本家の意向や政治家の介入などにより、勧告と異なる内容になったものもありました。
 この報告書は膨大なものなので、参考までに第一次報告書(概要)の序文だけ、英文と日本語訳を以下に掲載しておきます。

〇「シャウプ使節団日本税制報告書」(第一次)序文[正文は英語] 1949年(昭和24)8月27日付

REPORT ON JAPANESE TAXATION BY THE SHOUP MISSION

FOREWORD

The present report on the Japanese tax system is submitted to the Supreme Commander for the Allied Powers, at whose request the Tax Mission was formed.

The chief aim of our mission has been to draw up a plan of a permanent tax system for Japan. Emphasis has therefore been placed on considerations that go beyond the financing problems of the present and the coming fiscal year. Nevertheless, we have found it necessary to specify in some detail how our recommendations affect the 1949-50 and 1950-51 budgets. The long-term program must be of a kind that can be put into force without endangering the stabilization recently achieved with the aid of the recommendations made in the spring of 1949 by the Dodge Mission.

The long-term program itself could have been either of two kinds. We could have recommended a rather primitive type of tax system, one which would depend on external signs of income and wealth and business activity, not on carefully kept records and intelligent analysis of difficult problems. Such a system could raise the required revenue, but it would perpetuate gross inequities among taxpayers, dull the sense of civic responsibility, keep the local governmental units in uneasy financial dependence on the national government, and give rise to undesired economic effects on production and distribution. Moreover, we soon became convinced that the current difficulties in obtaining fair and efficient administration of the tax laws, and a high degree of compliance by the taxpayer in Japan need not be taken as inevitable. Our aim therefore has been to recommend a modern system, which depends upon the willingness of business men and all taxpayers of substantial means to keep books and to reason carefully about some fairly complicated issues of equity. For the small taxpayer, at the same time, the task of filing returns and paying the tax should be kept a simple one. Under this approach, we see no reason why Japan may not within a few years, if she so desires, have what would be the best tax system in the world. In any event, the consistent aim of this report has been to keep open the road that may lead to that goal.

What we are recommending here is a tax system, not a number of isolated measures having no connection with one another. All of the major recommendations, and many of the minor ones, are interconnected. If any of the major recommendations are eliminated, some of the others will thereby become of less value, or even harmful. Consequently, we disclaim responsibility for the results that may follow the adoption of only part of our recommendations. For example, we have devised a tax system that avoids the double taxation of corporate income under the national income taxes, and at the same time blocks permanent tax avoidance. Among the essential parts of this system are the full inclusion of capital gains and the full deduction of capital losses, with permission to spread the gain over a series of years, and with exemption of large capital gains that are due merely to a change in the value of money. If capital gains and losses were to be included not in full but under some percentage plan like that now in effect, our set of recommendations for corporation and individual income taxes would have to revised extensively.

Members of our group arrived in and departed from Japan at different dates from April to September, 1949, devoting as much time to this task as their previous commitments in the United States allowed. In general, the mission spent about four months on the study. May and June were occupied largely in discussions with taxpayers, tax officials (national, prefectural and municipal) and others. Much of the information was obtained outside of Tokyo, on field trips throughout Japan from Hokkaido to Kyushu. Lack of space forbids specific acknowledgement to the scores of individuals who have so generously given us information and suggestions in the course of these discussions. However, we wish to note our special indebtedness to Major General William F. Marquat, Chief, Economic and Scientific Section, GHQ; Mr. Harold Moss, Chief, Internal Revenue Division, Economic and Scientific Section; the Minister of Finance, Mr. Hayato Ikeda, and his staff, particularly Mr. Keiichiro Hirata and Mr. Sumio Hara; the professors of public finance who served as official advisers to the mission, Professor Hanya Ito, of Tokyo University, Professor Saburo Shiomi, of Kyoto University, and Professor Shigeto Tsuru, of Tokyo Commercial University; and Mr. Genichi Akatani, of the Foreign Office, Japanese Government. We also extend our thanks to all the others who assisted us, including the many taxpayers whose letters were helpful in listing defects in the tax system.

The recommendations in this report are those of the tax mission, and no one in GHQ or the Eighth Army, or in the Japanese Government, is in any way responsible for them. We have attempted to adapt the recommendations to the needs of the various sections and divisions in GHQ, the officials of each of which have their own set of difficult problems to face, and who have nevertheless gone to considerable lengths to find a solution acceptable from all points of view. But the responsibility for this report attaches to us alone.

All the members of the tax mission are in substantial agreement on the main conclusion of this report, but, owing to the necessarily differing times of departure form Japan, the report in its final form was seen only by Shoup, Vickrey, and Warren; the other members should therefore not be held to the same degree of responsibility for all of the recommendations. The members of the tax mission, and their professional connections, are as follows: Dean Howard R. Bowen, College of Commerce and Business Administration, University of Illinois; Professor Jerome B. Cohen, Department of Economies, College of the City of New York; Mr. Rolland F. Hatfield, Director of Tax Research, Department of Taxation, St. Paul, Minnesota; Professor Carl S. Shoup, School of Business and Graduate Faculty of Political Science, Columbia University, (Director of the Tax Mission); Professor Stanley S. Surrey, School of Jurisprudence, University of California, Berkeley, California; Professor William Vickrey, Graduate Faculty of Political Science, Columbia University; and Professor William C. Warren, School of Law, Columbia University.

The Japanese translation was made under severe limitations of time, while the English text was undergoing some last-minute revisions. In the event that any discrepancy is found, the English text should be the one used.

Carl S. Shoup
Tokyo
August 27,1949.

<日本語訳>

 税制使節団は、連合国最高司令官の要請によって編成されたものであるが、日本の租税制度に関する本報告書を右連合国最高司令官に提出するものである。

 本使節団は、日本における恒久的な租税制度を立案することをその主要な目的としている。従って、本年度および明年度における財政的な問題を超えて考慮されるべき諸問題に重点がおかれている。 しかしながら、われわれの勧告が1949-50会計年度および1950-51会計年度の予算にどのような影響をおよぼすかについては、細部にわたってこれを具体的に論ずる必要があった。長期の計画は1949年の春、ドッジ使節団の勧告の助成によって最近達せられた経済安定を阻害することなく、実施され得るようなものでなければならない。

 この長期の計画自体は、二者の中のいずれかのものになりうるものであった。すなわち、われわれは、周到に保存された資料および困難な問題の聡明な分析によらないで、所得、富、および事業活動の外形標準に依存する多少幼稚な租税制度を勧告することもできたのであるが、かかる租税制度によって必要な収入は確保することができるとしても、それは納税者間の甚しい不公平を永続せしめ、公民の責任観を鈍化し、地方団体をして不安な国家財政依存を継続せしめ、ひいては生産および分配に好ましからざる経済的影響をもたらすものである。加えるに、われわれは、租税法規の公平且つ能率的な施行および日本の納税者の高度な納税に対する協力を得るための困難は必ずしも不可避なものでないとの確信を得たのである。従って、われわれの目的は、商工業者および相当な生計を営むすべての納税者が記帳を励行し、公平に関連するかなり複雑な問題を慎重に論究することを辞さないということに依存する近代的な制度を勧告するにある。同時に、また、小さな納税者には、申告および納税の手続を簡単なものにしておくべきである。このような方向で問題を検討すれば、日本が今後数年のうちに、もしそれを欲するならば、恐らく世界で最もすぐれた租税制度をもてないという理由はなんら認められないのである。いずれにせよ、本報告の一貫した狙いは、かかる目標に通ずる途を開放しておくことにある。

 ここにわれわれが勧告しているのは、租税制度であって、相互に関連のない多くの別個の措置ではない。一切の重要な勧告事項および細かい勧告事項の多くは、相互に関連をもっている。もし重要な勧告事項の一部が排除されるとすれば、他の部分は、その結果価値を減じ、場合によっては有害のものともなろう。従って、われわれは、勧告の一部のみを取入れることに伴う結果については責任を負わない。例えば、われわれは、所得税において法人税との二重課税を避け、同時に常習の脱税を防止するような租税制度を立案した。このような制度のうちでも重要な部分とされているのは、譲渡所得を全額課税し、譲渡損失を全額控除することである。但し、その所得を数年にわたって繰越し、単に貨幣価値の変動に基く尨大な譲渡所得を控除することは認められる。もし現在実施されているように譲渡所得と損失が全額ではなく、何%しか算入されないものとすれば、われわれの勧告による法人税および所得税は大巾な改正を要するであろう。

 われわれ使節団の構成員は、米国における先約の許す範囲でこの仕事に多大の時間を捧げ、1949年4月から9月の間に随時日本に到着し日本から立ち去った。全体として使節団はこの研究に四カ月間を費した。5月と6月の大部分は、納税者、税務職員(国、都道府県および市町村)または他の者との談合に充てられた。北海道から九州までの日本全土にまたがる実地調査によって、東京以外の多くの情報を入手した。限られた紙面はこれらの談合でわれわれに資料や思いつきを惜しみなく提供した多数の人々に謝意を表すること許さない。しかし、ここに、G・H・Q経済科学局局長ウィリアム・F・マーカット少将、経済科学局歳入課長ハロルト・モス氏、大蔵大臣池田勇人氏および同氏の補佐官、特に、平田敬一郎氏と原純夫氏、また財政学の教授であり本使節団の公式の顧問を勤めた東京商科大学の井藤半弥教授、京都大学の汐見三郎教授および東京商科大学の都留重人教授ならびに日本政府外務省の赤谷源一氏等の多大の恩恵に浴したことを特に記しておきたい。更にわれわれは、租税制度の欠点を記入するのに役立つ手紙を送られた多くの納税者を含めて、われわれを援助した他のすべての方々に感謝するものである。

 本報告における勧告は本使節団のものであって総司令部、第八軍または日本政府はこれに対していかなる責任をも負わない。われわれは、この勧告が、総司令部の各局各課の担当官があらゆる点において妥当と見られる解決策を探求するにあたって重ねてきた幾多の努力にもかかわらず、なお、かれらが直面している特定の困難な諸問題から生ずる諸要請に適応するよう努力した。しかしこの報告に対する責任はわれわれのみが負うべきところのものである。
税制使節団の各構成員は、本報告の主要な結論においては大体意見は一致している。しかし、日本を立ち去る時期が各自異っていたため、報告の最終的なものはシャウプ、ヴィツクリー、ウオレンだけが眼を通した、従って勧告の全文に対して他の構成員は同じ程度の責任を負うべきではない。

 税制使節団の各委員の氏名および職名は左のとおりである。
ハワード・R・ボーエン=イリノイ大学、商業および経営経済学部長
ヂェローム・B・コーエン=ニューヨーク市立単科大学、経済学部教授
ローランド・F・ハットフィールド=ミネソタ州、セント・ポール収税庁、税制調査局長
カール・S・シャウプ=コロムビヤ大学、商学部教授兼政治学部大学院教授(税制使節団長)
スタンレー・S・サリー=カリホルニヤ洲、バークレー市、カリホルニヤ大学法学部教授
ウィリアム・C・ヴィツクリー=コロムビヤ大学、政治学部、大学院教授
ウィリアム・C・ウオレン=コロムビヤ大学、法学部教授

 日本語の訳文は、原文の最終的修正が行われている最中に、極端な時間の制限のもとになされたものである。対照上相違が生じた場合は、英文によるべきである。

                  東京において
                    C S シャウプ

                         1949年8月27日

 「シヤウプ使節団日本税制報告書」連合国最高司令官本部1949年刊行 総合司令部民間情報教育局訳より
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