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 今日は、昭和時代後期の1984年(昭和59)に、小説家・劇作家・演出家有吉佐和子(ありよし さわこ)の亡くなった日です。
 有吉佐和子は、1931年(昭和6)1月20日に、和歌山県和歌山市真砂町において、父・有吉眞次、母・秋津の子として生まれました。
 横浜正金銀行勤務の父の海外赴任に伴い、小学校時代をジャワ島のバタヴィア・スラバヤで過ごします。1941年(昭和16)に帰国後、東京市立第四高女(現在の都立竹台高校)、和歌山高女(現在の和歌山県立桐蔭高校)、光塩高女を経て、府立第五高女(現在の都立富士高校)を卒業しました。
 その後、東京女子大学英文学科に入学、在学中は芝居に凝り劇評を書き、休学後1952年(昭和27)に同短期大学部英語学科卒業します。大蔵省外郭団体の職員を経て、舞踊家吾妻徳穂の秘書となりますが、第15次『新思潮』に参加して文学を志しました。
 1956年(昭和31)に、古い伝統的な芸の世界と新しい近代的な教養の世界との鮮かな対照を描いた短編『地唄(じうた)』が文学界新人賞、芥川賞の候補作となり注目されます。続いて、『まっしろけのけ』(1956年)、『江口の里』(1958年)、『墨』(1961年)などの古典的世界に題材を求めた作品を発表しました。
 一方て歴史小説にも挑み、自らの家系をモデルとした紀州女の年代記である長編『紀ノ川』(1959年)で小説家としての地位を確立、『香華(こうげ)』(1961~62年)で小説新潮賞、『華岡青洲 (はなおかせいしゅう) の妻』(1966年)で女流文学賞、『出雲の阿国』(1969年)で芸術選奨文部大臣賞、日本文学大賞を受賞するなど大きく評価されました。
 1970年代に入ると代表作となる『恍惚の人』(1972年)、『複合汚染』(1974~75年)などの社会問題小説を発表、大ベストセラーとなって反響を呼びます。
 それからも、歴史考証にチャレンジする『和宮様御留(かずのみやさまおとめ)』(1978年)で毎日芸術賞を受賞するなどしましたが、1984年(昭和59)8月30日に、東京都杉並区の自宅において、53歳で急逝しました。

〇有吉佐和子の主要な作品

・『地唄』(1956年)
・『まっしろけのけ』(1956年)
・『江口の里』(1958年)
・『墨』(1961年)
・『紀ノ川』(1959年)
・『私は忘れない』(1959年)
・『香華(こうげ)』(1961~62年)小説新潮賞
・『助左衛門四代記』(1962~63年)
・『非色』(1963年)
・『有田川』(1963年)
・『非色』(1963~64年)
・『華岡青洲 (はなおかせいしゅう) の妻』(1966年)女流文学賞
・『ぷえるとりこ日記』(1966年)
・『海暗(うみくら)』(1967年)文藝春秋読者賞
・『出雲の阿国』(1969年)芸術選奨文部大臣賞、日本文学大賞
・『恍惚の人』(1972年)
・『複合汚染』(1974~75年)
・『和宮様御留(かずのみやさまおとめ)』(1977~78年)毎日芸術賞
・『開幕ベルは華やかに』(1982年)