大河津分水は、信濃川を新潟県燕市(分水地区)から長岡市(寺泊地域)を経て日本海へと注ぐ分水路で、新信濃川とも言われてきました。
信濃川は、昔から度重なる水害によって、越後平野に甚大な被害を与え、この対策が求められます。このためには、増水した水が越後平野に入る前に一部を日本海へ流すことが考えられ、そのために計画されたのが大河津分水でした。
江戸時代中期の享保年間(1716~36年)に、本間屋数右衛門、河合某らが大河津分水建設を江戸幕府に願い出ましたが、許可されずに終わります。
明治維新後の1869年(明治2)に、白根の庄屋、田沢与左衛門らが分水工事を越後府に請願し、翌年から分水工事が始まりました。しかし、技術的問題や地元負担の重さ、水量減少により河口部の新潟港維持の危惧などから、反対運動が起こり、一揆(悌輔騒動)も発生して、1875年(明治8)には分水工事が中止されるに至ります。
1876年(明治9)から、分水工事の代替として信濃川河身改修事業が着手されたものの、抜本的な解消には至らず、1896年(明治29)7月22日に、信濃川で水害「横田切れ」(被害面積18,000ha、家屋流出25,000戸)が起こり、大きな被害が出ました。
その中で、分水工事の要望が高まり、1909年(明治42)に国家事業として大河津分水工事が再開されます。当時は、東洋一の大工事と言われ、13年余りの歳月とのべ1,000万人の人手をかけて、1922年(大正11)8月25日に、延長10kmの分水路(新信濃川)が完成し、通水されました。
これにより河川の氾濫は減少し,河道も固定化され、州島の5万ヘクタールの湿田が干田と化し、新潟港の築港を促進します。完成記念に築堤3kmと大河津分水公園一帯に桜が植えられ、現在は花見の名所になり、閘門(こうもん)側の公園内に資料館(2002年にリニューアルされる)も出来ました。
しかし、1927年(昭和2)6月24日に大河津分水の自在堰が壊れて大きな被害を受け、1982年(昭和57)9月13日に大河津で観測史上最高水位(16.23m)を記録し、洗堰で漏水するなどがあり、補修・改良工事が続けられています。
尚、2000年(平成12)5月29日に新洗堰が完成し、使用されなくなった旧洗堰は産業遺産として、2002年(平成14)2月14日に国の登録有形文化財に登録されました。
〇大河津分水関係略年表
・1716~35年(享保年間) 本間屋数右衛門、河合某らが大河津分水建設を幕府に願い出たが、許可されなかった
・1842年(天保13) 江戸幕府も計画調査を実施するが、莫大な費用と周辺集落の反対により起工できなかった
・1869年(明治2) 白根の庄屋、田沢与左衛門らが分水工事を越後府に請願する
・1870年(明治3) 大河津分水工事が始められる
・1875年(明治8) 分水工事が中止される
・1876年(明治9) 分水工事の代替として信濃川河身改修事業に着手する
・1881年(明治14) 田沢与一郎、田沢実入らが信濃川治水会社を設立、分水工事再開のための運動を広める
・1896年(明治29)7月22日 信濃川で水害「横田切れ」(被害面積18,000ha、家屋流出25,000戸)が起こる
・1909年(明治42) 国家事業として大河津分水工事が再開される
・1922年(大正11)8月25日 大河津分水工事が完成し、通水される
・1927年(昭和2)6月24日 大河津分水の自在堰が壊れて大きな被害を受け、補修工事を開始する
・1930年(昭和5)8月20日 洪水の危機が迫り、工事の主任技官が下流域の洪水回避のため仮締切堤防を破壊する
・1931年(昭和6)6月20日 自在堰に代わる可動堰が完成して、補修工事が完了する
・1982年(昭和57)9月13日 大河津で観測史上最高水位(16.23m)を記録し、洗堰で漏水する
・1996年(平成8) 新洗堰本体工事に着手する
・2000年(平成12)5月29日 新洗堰が完成し、通水される
・2002年(平成14) 洗堰周辺整備工事が竣功する
・2002年(平成14)2月14日 旧洗堰が登録有形文化財に登録される
・2002年(平成14)4月18日 信濃川大河津資料館がリニューアルオープンする
・2003年(平成15) 可動堰改築事業に着手する
・2011年(平成23)11月 可動堰改築事業が完成し、通水式が行なわれる