
一乗谷城の戦い(いちじょうだにじょうのたたかい)は、1573年(天正元年8月)に織田信長と朝倉義景の間で行なわれた合戦でした。
1570年(元亀元)に織田・徳川姉川連合軍と浅井・朝倉連合軍との間で、「姉川の戦い」があり、織田・徳川連合軍が勝利し、浅井氏・朝倉氏は苦境に追い込まれていきます。
1573年(天正元年4月)に織田信長と対抗していた武田信玄が死去しました。この機に、信長は敵対していた室町幕府第15代将軍足利義昭を同年7月に京都から追放します。
そして、同年8月8日に信長は3万の大軍を率いて近江に攻め入り、浅井長政の小谷城を攻撃しますが、長政は5千の軍勢で籠城しました。
これを援護するために、朝倉義景は2万の大軍をもって与呉(よご)に本陣を敷きますが、朝倉方に寝返りが出て形勢が不利となり、8月13日に、大嶽砦の陥落を知った義景は撤退を決断し、15日には一乗谷城に帰陣します。
織田信長はその後を追い、17日に大軍をもって、越前に攻め入り、18日には一乗谷の市街地を制圧して、焼き払いました。
義景はそれ以前に手勢のみを率いて一乗谷を逃れ、大野郡へと移り、六坊賢松寺を仮の宿所とします。ところが、20日には裏切りが出て、宿舎を囲まれ、抵抗するものの、義景の自刃に至りました。
この後、織田信長は軍を北近江に返し、小谷城を攻撃、浅井氏も滅ぼします。
尚、一乗谷城跡は、現在土塁や庭園石組みが残されていて、1930年(昭和5)に史跡名勝に指定、1973年(昭和48)に「一乗谷朝倉氏遺跡」として国の特別史跡となり、発掘調査後、城下町の街路や一部建物、下城戸門の石垣などの復元が行われました。
〇「一乗谷朝倉氏遺跡」とは?
福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏五代の遺跡です。
一乗谷城と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなります。遺跡全体(面積278ha)が国の特別史跡で、そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝の指定を受けました。
また、発掘結果や史料等を参考に200mにわたって当時の町並みが復元され、公開されていて、戦国時代の城下町を知る上ではとても貴重です。
何度も来訪しているのですが、年々遺跡の発掘が進み、以前なにもなかったところに戦国時代の町が復元されていました。前に来たときには、遺跡の跡だけを見て、ここにどんな人々が生活し、どんな建物があったのだろうかと想像していたのですが、当時の武家屋敷や町屋が立体復元されていて、生活の様子が一部再現されています。
江戸時代の建物や集落を復元しているところは結構あるのですが、戦国時代は極めて少なく、貴重なものでした。武家屋敷の中で、人形が2人で将棋を指している様子も復元されていてとても面白かったです。
実は、この遺跡からは多数の将棋の駒が発掘されていて、当時から将棋を楽しんでいたことが分かりました。私は、歴史も将棋も好きなのでとても興味深かったのです。
近くには「福井県立一乗谷朝倉氏資料館」があって、出土品や一乗谷についての展示がありました。尚、2006年(平成18)に、財団法人日本城郭協会により、「日本100名城」にも選定されています。