この前年から長州藩を中心とした攘夷派勢力の活動が活発となり、8月の大和行幸、攘夷親征の詔勅を発して討幕、王政復古を一挙に実現しようと計画しました。
これに対し、薩摩藩は、京都守護職松平容保や朝廷内佐幕派公卿と結んで8月18日に兵力をもって御所を包囲し、長州藩や尊王攘夷派公卿を追放します。
このため、三条実美をはじめ東久世通禧、沢宣嘉、三条西季知、壬生基修、錦小路頼徳、四条隆謌の公卿7人は長州藩兵護衛のもと、真木和泉ら激派浪士と共に、翌日京都を脱出し、周防国に逃れることになり、これが七卿落と呼ばれることになりました。
その結果、攘夷親征は中止され、しばらくの間公武合体派の勢力が強くなることとなります。
〇幕末の公武合体派と尊王攘夷派関係略年表(日付は旧暦です)
<1862年(文久2)>
・1月15日 坂下門外の変が起こり、公武合体を進めていた老中安藤信正と久世広周が失脚する
・2月11日 和宮と江戸幕府第14代将軍家茂の婚礼が行われる(和宮降嫁)
・6月 長州藩の公武合体派長井雅楽が藩主から罷免される
・8月21日 生麦事件が起きる
<1863年(文久3)>
・2月6日 長井雅楽が死罪を得る
・3月4日 江戸幕府第14代将軍徳川家茂が上洛する
・5月10日 江戸幕府は攘夷実行日とする(諸藩にも通達)
・5月 長州藩が外国船に対し砲撃を行う(下関事件)
・6月5日 報復として米仏軍艦が関門海峡で長州軍艦2隻を撃沈し、長州の砲台を攻撃する
・7月2~4日 薩英戦争が起きる
・8月18日 政変により長州藩は禁門警備の任を解かれ、藩主が処罰される(八月十八日の政変)
・8月19日 失脚した公家のうち三条実美、三条西季知ら7人は禁足を破り長州へと下る(七卿落ち)
<1864年(元治元)>
・6月5日 池田屋事件で攘夷派志士多数が殺害・捕縛される
・7月19日 長州藩は兵を京都へ派遣し、幕府側と交戦して御所にまで侵入するが撃退される(禁門の変)
・7月23日 朝廷は江戸幕府へ対して長州追討の勅命を発する(第一次長州征討)
・7月27日・28日 キューパー中将(イギリス)を総司令官とする四国連合艦隊が横浜を出港する
・8月5~8日 英・仏・米・蘭連合艦隊が、下関と彦島の砲台を砲撃・占領する(四国艦隊下関砲撃事件)
・8月8日 長州藩は講和使節の使者に高杉晋作を任じる
・8月18日 下関海峡の外国船通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸許可、下関砲台撤去、賠償金300万ドルの支払いの5条件を受け入れて講和が成立する
・10月22日 大坂城にて長州征伐軍は軍議を開催する
・11月2日 禁門の変で上京した三家老の切腹と四参謀の斬首、五卿の追放の降伏条件が出される
・12月5日 長州藩から総督府へ藩主父子からの謝罪文書が提出される
・12月27日 長州征伐軍は解兵令を発する