島木健作は、1903年(明治36)9月7日に、北海道札幌市で生まれましたが、本名は朝倉菊雄と言いました。2歳で父が病死し、母の内職で貧しいなか育てられます。
家計を助けるため、高等小学校を中退し、旧拓殖銀行の給仕・玄関番などをしながら夜学に通いました。苦学しながら20歳で北海中学校を卒業し、北海道大学図書館などの勤務を経て、1925年(大正14)東北帝国大学法学部の選科に入学します。
入学後ほどなく東北学連に加盟し、その中心となって活動、翌年大学を中退し、農民運動に身を投じました。しかし、1928年(昭和3)に左翼運動弾圧の三・一五事件に先立って検挙され、起訴後の翌年に転向声明を出します。1930年(昭和5)に罪が確定して下獄しますが、1932年(昭和7)に仮釈放となりました。
1934年(昭和9)4月『文学評論』に『癩(らい)』を発表、7月に『中央公論臨時増刊新人号』に載せた『盲目』も世評をよび、転向文学として注目されます。続いて、農民運動の実態をえがいた『再建』(後に発売禁止)、知識人の帰農問題を倫理的に追求した『生活の探求』などを発表し、作家としての地位を確立しました。
その後、農民文学懇話会設立に参画し、『人間の復活』(1939年) 、『運命の人』(1940年) などの作品を書きます。1941年(昭和16)には徴用されましたが、肺結核を患っていて、身体検査の結果返されました。
それからも病をおして長編『礎』を1944年(昭和19)発表しましたが、翌年の太平洋戦争敗戦2日後にあたる、8月17日に鎌倉の病院において、43歳で亡くなります。
〇島木健作の主要な作品
・『癩 (らい) 』(1934年)
・『盲目』(1934年)
・『獄』(1934年)
・『再建』(1937年)
・『生活の探求』(1937~38年)
・『人間の復活』(1939年)
・『満洲紀行』(1940年)
・『運命の人』(1940年)
・『礎』((1944年)
・『黒猫』(1946年)
・『赤蛙』(1946年)