橘逸勢は、生年ははっきりしませんが、参議・橘奈良麻呂の孫、右中弁・橘入居の末子として生まれました。
その官歴はつまびらかではありませんが、804年(延暦 23)に、遣唐使の一員の留学生として、空海、最澄らと入唐しています。その才能から唐人たちに「橘秀才」と呼ばれ、801年(大同元)に帰国しました。
その後、従五位下に叙せられ、840年(承和7 )には但馬権守となりました。しかし、842年(承和9年7月)嵯峨上皇が死の床にあったときに、皇太子恒貞親王を擁して東国入りを謀った事件(承和の変)において、伴健岑と共に首謀者とされます。
それによって捕らえられ、伊豆へ流される途中に、遠江国板築の宿(現在の静岡県浜松市三ヶ日町)で非業の死を遂げました。
8年後の850年 (嘉祥3) に、罪を許されて正五位下を、さらに3年後に従四位下を追贈されています。
能書家で、後年空海、嵯峨天皇とともに三筆と称されるようになりました。
平安京の大内裏の安嘉(あんか)・偉鑒(いかん)・達智(たっち)の三門の額は彼の筆に成るといわれ、また「伊都内親王願文」(御物)、「興福寺南円堂銅灯籠銘」の筆者と伝称されています。
〇三筆とは?
日本の書道史上の優れた3人の能筆家のことをいい、一般的には、平安時代初期の嵯峨天皇、空海、橘逸勢の3人を指します。
この初見は、江戸時代中期に書かれた貝原益軒編の『和漢名数』であると言われ、そんなに古いものではありません。
空海と橘逸勢は、783年(延暦2)遣唐使にしたがって留学生として入唐し、唐文化と書法の修得に努めました。三筆の個性あふれる書の根底には、中国書法、とくに王羲之の影響が強くみられ、日本書道史の基礎を築いたとされています。