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 今日は、昭和時代中期の1955年(昭和30)に、広島県広島市で第1回原水爆禁止世界大会が開催された日です。
 1954年(昭和29)3月1日に、南太平洋のビキニ島近くの海域でアメリカが行なった水爆実験によって、「第五福竜丸」などの漁船が被爆し、「第五福竜丸」無線長だった久保山愛吉さんが、この半年後の9月23日に死亡する事件(いわゆるビキニ事件)が起こりました。
 これによって、「原水爆の犠牲はもうたくさんだ!」という怒りが沸き起こり、東京都杉並区の主婦の手でスタートした原水爆禁止署名運動は、またたくまに全国に広がり3,000万人を突破するに至ります。
 その運動を引継ぐ形で、翌年8月6日に被爆10周年の広島県広島市で、第1回原水爆禁止世界大会が開催されました。この大会には、国内からいろいろな階層、立場の人々が参加、アメリカ、オーストラリア、中国、インドネシアなど11ヶ国50人の代表(北朝鮮、ポーランド以外の社会主義諸国代表は入国拒否にあい、大会に間に合わなかった)を含め5,000人の規模となります。
 同年9月には、この運動を継続する中心組織として「原水爆禁止日本協議会(日本原水協)」が発足し、核戦争阻止、核兵器の全面禁止、被爆者救援を基本目標とし、以後毎年、世界各国の平和団体代表を集めて日本で世界大会が催されるようになりました。
 この運動は政治的イデオロギーを問わず、いろいろな団体が参加する国民運動でしたが、1965年(昭和40)に、「部分的核実験禁止条約」の評価などを巡って、「原水爆禁止日本国民会議」が分れたのをはじめ、分裂が起こります。
 1977年(昭和52)に開かれた第1回国連軍縮特別総会に向けた署名運動での協力を通じて、同年8月に14年ぶりの統一世界大会が開かれました。以後毎年挙行されましたが、1986年(昭和61)以降、再分裂しています。
 しかし、これらの運動によって、日本は最初の被爆国として、平和運動の面でも世界的な中心の一つとなりました。

〇「第五福竜丸」とは?

 この船は、昭和時代中期の1954年(昭和29)3月1日に、太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁でのアメリカ軍の水素爆弾実験によって発生した多量の放射性降下物(死の灰)を浴びました。
 これによって、船員23名は全員被爆し、治療の甲斐なく、無線長だった久保山愛吉さんが、この半年後の9月23日に死亡しています。これ以外にも、何隻かの漁船が被爆しており、広島、長崎に次ぐ第三の原子力災害となり、日本での反核運動が高まっていくきっかけとなったのです。
 この船は、後に練習船に改造されて東京水産大学で使われていましたが、1967年(昭和42)に廃船になりました。
 しかし、この船を保存して、原水爆による惨事がふたたび起こらないためのモニュメントにしようといて動きがあり、1976年(昭和51)、夢の島公園内に「東京都立第五福竜丸展示館」が開館します。