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 今日は、幕末の1863年(文久3)に、英・米・蘭・仏の4ヶ国連合艦隊が下関への砲撃を開始した日ですが、新暦では9月5日となります。
 これは、イギリス、アメリカ、オランダ、フランスの4ヶ国連合艦隊が下関の砲台を攻撃し、攘夷派を屈服させた事件で、「四国艦隊下関砲撃事件」とも呼ばれてきました。
 同年7月27日・28日に、キューパー中将(イギリス)を総司令官とする4ヶ国連合艦隊が横浜を出港、関門海峡に至って、8月5日から砲撃が始まり、長州藩側も応戦しましたが、戦力に大きな開きがあり、8日までに長州藩の砲台は破壊されたり、上陸した4ヶ国側の兵員に占拠されます。
 そこで、長州藩は8月8日に講和使節の使者に高杉晋作を任じ、4ヶ国連合艦隊との交渉を進め、同月18日に下関海峡の外国船通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸許可、下関砲台撤去、賠償金300万ドルの支払いの5条件を受け入れて講和が成立しました。
 この事件の前段として、1863年(文久3)5月10日を江戸幕府が攘夷実行日とし、諸藩に通達したことをもって、長州藩が外国船に対し砲撃を行う(下関事件)ことがあり、同年6月5日 報復として米仏軍艦が関門海峡で長州軍艦2隻を撃沈し、長州の砲台を攻撃します。しかし、長州藩が攘夷の態度を続けたことがありました。
 これらの戦争を通じて列国の軍事力を目の当たりにした長州藩は、列国に接近しつつ、強力な統一国家建設を目指して、倒幕運動に向かうことになります。

〇「四国艦隊下関砲撃事件」関係略年表(日付は旧暦です)

<1853年(嘉永6)>
・7月8日 ペリー提督のアメリカ艦隊が浦賀沖に来航し、江戸幕府に開国を迫る

<1854年(安政元)>
・3月31日 江戸幕府は「日米和親条約」を締結する

<1858年(安政5)>
・7月29日 アメリカの強い要求により、江戸幕府は「日米通商修好条約」を締結する
 以後、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を結ぶ(安政五ヶ国条約)

<1860年(万延元)>
・3月3日 水戸・薩摩脱藩浪士によって、江戸幕府大老井伊直弼が暗殺される(桜田門外の変)

<1861年(文久元)>
・3月 直目付長井雅楽が藩主毛利慶親に対し、藩の政治活動方針として「航海遠略策」を建白する
 以後、公武合体策を藩論としようとする

<1862年(文久2)>
・1月15日 坂下門外の変が起こり、公武合体を進めていた老中安藤信正と久世広周が失脚する
・2月11日 和宮と江戸幕府第14代将軍家茂の婚礼が行われる(和宮降嫁)
・6月 長州藩の公武合体派長井雅楽が藩主から罷免される
・8月21日 生麦事件が起きる

<1863年(文久3)>
・2月6日 長井雅楽が死罪を得る
・3月4日 江戸幕府第14代将軍徳川家茂が上洛する
・5月10日 江戸幕府は攘夷実行日とする(諸藩にも通達)
・5月 長州藩が外国船に対し砲撃を行う(下関事件)
・6月5日 報復として米仏軍艦が関門海峡で長州軍艦2隻を撃沈し、長州の砲台を攻撃する
・7月2~4日 薩英戦争が起きる

<1864年(元治元)>
・6月5日 池田屋事件で攘夷派志士多数が殺害・捕縛される
・7月19日 長州藩は兵を京都へ派遣し、幕府側と交戦して御所にまで侵入するが撃退される(禁門の変)
・7月23日 朝廷は江戸幕府へ対して長州追討の勅命を発する(第一次長州征討)
・7月27日・28日 キューパー中将(イギリス)を総司令官とする四国連合艦隊が横浜を出港する
・8月5~8日 英・仏・米・蘭連合艦隊が、下関と彦島の砲台を砲撃・占領する(四国艦隊下関砲撃事件)
・8月8日 長州藩は講和使節の使者に高杉晋作を任じる
・8月18日 下関海峡の外国船通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸許可、下関砲台撤去、賠償金300万ドルの支払いの5条件を受け入れて講和が成立する