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 今日は、平成時代の1992年(平成4)に、小説家松本清張(まつもと せいちょう)の亡くなった日です。
 松本清張は、明治時代後期の1909年(明治42)12月21日(2月12日説がある)に、福岡県企救郡板櫃村(現在の北九州市小倉北区)で、父・松本峯太郎、母・タニの子として生まれたとされていますが、広島県広島市で生まれたとも言われてきました。
 本名は、「きよはる」と読み、1924年(大正13)に板櫃尋常高等小学校を卒業後、給仕、印刷所の版下工その他の職を転々とします。
 1939年(昭和14)に朝日新聞西部本社に入り、広告部員嘱託となり、2年後に正社員となりました。1943年(昭和18)から2年間兵役に就き、太平洋戦争後、朝日新聞社に復職し、広告部意匠係に勤務します。
 1950年(昭和25)の処女作『西郷札(さいごうさつ)』が『週刊朝日』の懸賞小説三等に入選し、翌年直木賞候補作となりました。
 1952年(昭和27)の『或る「小倉日記」伝』が芥川賞を受けて文壇にデビューし、1954年(昭和29)東京本社勤務となり、1956年に退社して文筆生活に入ります。
 1950年代半ばから推理小説を書きはじめ、『点と線』(1957~58年)、『眼の壁』(1958年)の成功によって、社会派推理小説という新分野を開拓、流行作家となりました。
 一方、現代史に材を求めた『小説帝銀事件』(1959年)、『日本の黒い霧』(1960年)、菊池寛賞受賞の『昭和史発掘』(1964~71年)などでも高い評価を受けます。
 その後、古代史分野でも活躍し、『古代史疑』(1966~67年)、『火の路(みち)』(1973~74年)を著わし、『清張通史』(1976~78年)へと発展しました。
 幅広い分野で活躍し、700編を越える著作を残しましたが、1992年(平成4)8月4日に、東京において、82歳で亡くなります。

〇松本清張の主要な作品

・『西郷札』(1950年)
・『或る「小倉日記」伝』 (1952年)
・『啾々吟』(1953年)
・『菊枕』(1953年)
・『断碑』(1954年)
・『石の骨』(1955年)
・『張込み』(1955年)
・『顔』(1956年)
・『点と線』(1957~58年)
・『眼の壁』(1958年)
・『ゼロの焦点』(1958~60年)
・『黒の画集』(1958~60年)
・『小説帝銀事件』(1959年)
・『日本の黒い霧』(1960年)
・『球形の荒野』(1960~61年)
・『わるいやつら』(1960~61年)
・『砂の器』(1960~61年)
・『深層海流』(1961~62年)
・『象徴の設計』(1962~63年)
・『けものみち』(1962~63年)
・『昭和史発掘』(1964~71年)
・『火の虚舟(きょしゅう)』(1966~67年)
・『古代史疑』(1966~67年)
・『砂漠の塩』(1967年)
・『遊史疑考』(1971~72年)
・『古代探求』(1971~72年)
・『文豪』(1972~74年)
・『火の路(みち)』(1973~74年)
・『清張通史』(1976~78年)
・『暗い血の旋舞』(1987年)