
由比正雪は、江戸時代前期の軍学者で、1605年(慶長10)に、駿河国由比(毛現在の静岡県静岡市清水区)の農業兼紺屋の家に生まれたと言われています(駿府説もあります)。
数え年17歳で江戸の親類のもとに奉公へ出て、楠木正辰の弟子となり軍学を学び、その婿養子となりました。その後、神田に楠木流軍学塾「張孔堂」を開き、旗本や大名の家臣、浪人など多くの門人を集めます。
1651年(慶安4)の江戸幕府第3代将軍徳川家光の死に際し、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義らとはかり、浪人を糾合して、幕府覆滅を図りました。
しかし、内部からの訴人によって事前に漏れて、一党が捕縛され、同年7月26日に、駿府茶町(現在の静岡県静岡市)の旅宿梅屋において、数え年47歳で自害します。
この事件を慶安の変(由比正雪の乱)といい、大名の減封・改易で増加していた浪人救済のための企てとも言われてきました。
この直後に第4代将軍となった徳川家綱が、武断政治を文治政治に転換する契機の一つになったとも考えられています。
〇武断政治とは?
武力を背景にして行われる専制的な政治手法、理念のことををいい、文治政治に対応します。
日本では、江戸時代前期の幕藩体制の確立期(初代将軍徳川家康~第3代将軍徳川家光まで)にとられた政治政策とされてきました。
関ケ原の戦いや大坂の陣以降に諸大名の減封・改易が多く行われ、これにより多くの浪人が生まれ社会問題化します。それに起因して起きた、慶安の変(1651年)や承応の変(1652年)の反省や幕藩体制の確立もあって、第4代将軍徳川家綱は文治政治に転換していきました。



