ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2018年07月

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 今日は、昭和時代中期の1948年(昭和23)に、「政令201号」により公務員の団体交渉権が厳しく制限され、争議権が否認された日です。
 この政令は、正式には、「昭和二十三年七月二十二日附内閣総理大臣宛連合国最高司令官書簡に基く臨時措置に関する政令」といい、芦田均首相あてのマッカーサー書簡に基づいて発せられた政令(ポツダム政令)の一つで、公布されたその日に施行されました。
 1946年(昭和21)11月3日に公布、翌年5月3日に施行された「日本国憲法」によって、労働三権(団結権・団体交渉権・争議権)が保障されたのですが、この政令により、公務員労働者から団結権のみを残し、団体交渉権を厳しく制限し、争議権を奪うものとなります。
 違反した者は任命または雇用上の権利をもって対抗できず、「これを一年以下の懲役又は五千円以下の罰金に処する」とされました。そして、この代償措置として人事院・人事委員会の給与勧告制度、身分保障その他を設けることになります。
 背景には、占領軍の戦後民主化政策の転換があり、3月闘争(全逓三月闘争)後、再び盛り上がろうとしていた官公労の労働運動を抑圧することになります。
 この政令は「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件の廃止に関する法律」(昭和27年法律第81号)により、1952年(昭和27)10月25日をもって失効しましたが、その実体は「国家公務員法」、「公共企業体等労働関係法」が継承し、公務員の労働権制限は現在まで続けられてきました。
 以下に、「政令201号」の条文を掲載しておきますのでご参照ください。

〇昭和二十三年七月二十二日附内閣総理大臣宛連合国最高司令官書簡に基く臨時措置に関する政令(昭和23年政令第201号)

第一条 任命によると雇傭によるとを問わず、国又は地方公共団体の職員の地位にある者(以下公務員といい、これに該当するか否かの疑義については、臨時人事委員会が決定する。)は、国又は地方公共団体に対しては、同盟罷業、怠業的行為等の脅威を裏付けとする拘束的性質を帯びた、いわゆる団体交渉権を有しない。但し、公務員又はその団体は、この政令の制限内において、個別的に又は団体的にその代表を通じて、苦情、意見、希望又は不満を表明し、且つ、これについて十分な話合をなし、証拠を提出することができるという意味において、国又は地方公共団体の当局と交渉する自由を否認されるものではない。
2 給与、服務等公務員の身分に関する事項に関して、従前国又は地方公共団体によつてとられたすべての措置については、この政令で定められた制限の趣旨に矛盾し、又は違反しない限り、引きつづき効力を有するものとする。
3 現に繋属中の国又は地方公共団体を関係当事者とするすべての斡旋、調停又は仲裁に関する手続は、中止される。爾后臨時人事委員会は、公務員の利益を保護する責任を有する機関となる。

第二条 公務員は、何人といえども、同盟罷業又は怠業的行為をなし、その他国又は地方公共団体の業務の運営能率を阻害する争議手段をとつてはならない。
2 公務員でありながら前項の規定に違反する行為をした者は、国又は地方公共団体に対し、その保有する任命又は雇傭上の権利をもつて対抗することができない。

第三条 第二条第一項の規定に違反した者は、これを一年以下の懲役又は五千円以下の罰金に処する。

  附 則 (抄)

2 この政令は、昭和二十三年七月二十二日附内閣総理大臣宛連合国最高司令官書簡にいう国家公務員法の改正等国会による立法が成立実施されるまで、その効力を有する。

                           「官報」より
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 今日は、昭和時代中期の1965年(昭和40)に、小説家谷崎潤一郎(たにざき じゅんいちろう)が亡くなった日です。
 谷崎潤一郎は、明治時代前期の1886年(明治19)7月24日に、東京日本橋蠣殻町(現在の東京都中央区)で、父・谷崎倉五郎、母・関の次男として生まれました。
 1901年(明治34)に府立一中(現在の都立日比谷高校)に入学、在学中から散文や漢詩をよくし、文才をあらわします。1905年(明治38)に旧制一高法科に入学、文芸部委員となり、『校友会雑誌』に小説などを発表しました。
 1908年(明治41)に東京帝国大学文科大学国文科に進み、1910年(明治43)に、和辻哲郎らと第2次『新思潮』を起し、戯曲『誕生』、小説『刺青』、『麒麟』などを発表して、永井荷風に認められ、文壇に登場します。
 同年大学を授業料未納で中退し、以後『少年』、『秘密』(共に1911年)などの諸作を書きつぎ、自然主義文学全盛時代にあって、耽美(たんび)派作家として文壇に迎え入れられます。
 1923年(大正12) 9月1日の関東大震災後関西へ移住し、それを契機に、日本の伝統文化に回帰、『卍(まんじ)』、『蓼(たで)喰ふ虫』、『吉野葛』、『盲目物語』、『蘆刈』、『春琴抄』などの小説や随筆『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』を発表すると共に、『源氏物語』の現代語訳(1939~41年)を完成しました。
 1943年(昭和18)に、『中央公論』に連載を開始した小説『細雪 (ささめゆき) 』は、最初の2回で軍部の圧力によって中断し、困難な中でも執筆を継続し、太平洋戦争後の1948年(昭和23)に完結します。
 これらの業績によって、毎日出版文化賞(1947年)、朝日文化賞(1948年度)、第8回文化勲章(1949年)などの栄誉に輝きました。さらに、『少将滋幹の母』(1949~50年)、『鍵』(1956年)、『瘋癲老人日記』(1961~62年)など着実に作品を発表し、海外での評価も高まります。
 晩年まで衰えぬ作風を示しましたが、1965年(昭和40)7月30日に、神奈川県湯河原町において、79歳で亡くなりました。

〇谷崎潤一郎の主要な作品

・戯曲『誕生』(1910年)
・戯曲『象』(1910年)
・小説『刺青』(1910年)
・小説『麒麟』(1910年)
・小説『少年』(1911年)
・小説『幇間』(1911年)
・小説『悪魔』(1912年)
・小説『お艶殺し』(1915年)
・小説『異端者の悲しみ』(1917年)
・小説『痴人の愛』(1924~25年)
・小説『蓼(たで)喰ふ虫』(1928~29年)
・小説『卍 (まんじ) 』(1928~30年)
・小説『乱菊物語』(1930年)
・小説『吉野葛』(1931年)
・小説『盲目物語』(1931年)
・随筆『倚松庵随筆』(1932年)
・小説『蘆刈』(1932年)
・小説『春琴抄』(1933年)
・随筆『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』(1933~34年)
・現代語訳『源氏物語』26巻(1935~38年)
・小説『細雪 (ささめゆき) 』(1943~48年)
・小説『少将滋幹 (しげもと) の母』(1949~50年)
・小説『鍵』(1956年)
・小説『瘋癲 (ふうてん) 老人日記』(1961~62年)
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 今日は、江戸時代後期の1855年(安政2)に、矢田堀景蔵、勝麟太郎(海舟)らが長崎海軍伝習所の一期生に選ばれ、オランダ人より汽船運転術を学ぶよう命じられた日ですが、新暦では9月10日となります。
 長崎海軍伝習所(ながさきかいぐんでんしゅうじょ)は、江戸幕府が洋式海軍創設のため、長崎に開設した海軍教育機関でした。
 1855年(安政2)6月に、オランダ国王がスンビン号(後の観光丸)を幕府に献呈したのを契機として、長崎に海軍伝習所を設置することにし、同年7月29日に、矢田堀景蔵、勝麟太郎(海舟)らが一期生に選ばれ、オランダ人より汽船運転術を学ぶよう命じられます。
 その後準備が進められ、長崎奉行所の西役宅を校舎に、オランダ海軍軍人 22名を教官として雇い、同年10月22日に出島のオランダ館にて開所式が行われ、24日に伝習が開始されました。
 第一期生は、幕臣70名、諸藩から129名で、その中に勝麟太郎(海舟)、矢田堀景蔵らの幕臣のほか、五代友厚、川村純義(薩摩藩)、佐野常民(佐賀藩)ら諸藩士がいました。
 目的が海軍の養成だったので、軍艦の操縦術のみではなく、造船術や医術、語学などの様々な教育が、日課を定め、海陸で行なわれます。
 翌年3月に一期生が修了、続いて二期生が入り、1857年(安政4)4月に江戸の築地講武所内に軍艦操練所が新設されると、総監永井尚志はじめ多数の幕府伝習生は築地に教員として移動しました。
 同年8月にヤパン号(後の咸臨丸)でカッテンダイケが来日して教授したりしましたが、財政負担が大きいなどの理由により、幕府の海軍士官養成は軍艦操練所に一本化されることになります。
 その結果、1859年(安政6)4月16日の最終講義をもって閉鎖され、オランダ人教官は本国へと引き上げました。
 しかし、長崎海軍伝習所の卒業生たちは、幕府海軍や各藩の海軍、さらには明治維新後の明治政府海軍創設の基礎となって活躍します。また、併設された飽浦修船工場、長崎製鉄所は、長崎造船所の前身ともなりました。

〇長崎海軍伝習所関係略年表(日付は旧暦です)

<1855年(安政2)>
・6月 オランダ国王がスンビン号(のち観光丸)を幕府に献呈
・7月29日 矢田堀景蔵、勝麟太郎らが長崎海軍伝習所の一期生に選ばれる
・9月3日 昌平丸にて長崎海軍伝習所一期生が品川を出発する
・10月20日 昌平丸が長崎へ着く
・10月22日 長崎海軍伝習所の開所式が、出島のオランダ館で行われる
・10月24日 長崎奉行所内西役宅を校舎に海軍伝習が開始される、

<1857年(安政4)>
・3月1日 長崎海軍伝習所の一期生が修了する
・3月4日 長崎海軍伝習所一期生が観光丸にて江戸へ帰途に就く
・3月26日 観光丸が上関・御手洗・鳥羽経由で品川沖に着く
・4月11日 江戸の築地講武所内に軍艦操練所を設置する
・5月8日 長崎海軍伝習所一期生が軍艦操練所教授方などへ任命される
・8月5日 ヤパン号(後の咸臨丸)でカッテンダイケが長崎へ来る

<1858年(安政5)>
・8月 咸臨丸が長崎海軍伝習所休講で築地の軍艦操練所所属になる

<1859年(安政6)>
・4月16日 長崎海軍伝習所が最終講義をもって閉鎖となり、その後オランダ人教官は本国へと引き上げる
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 今日は、昭和時代中期の1965年(昭和40)に推理小説作家江戸川乱歩の亡くなった日ですが、「乱歩忌」とも呼ばれています。
 江戸川乱歩は、明治時代後期の1894年(明治27)10月21日に、三重県名賀郡名張町(現在の名張市)の名賀郡役所書記の父・平井繁男、母・きくの長男として生まれましたが、本名は平井太郎と言いました。
 旧制愛知県立第五中学校(現在の県立瑞陵高等学校)に在学中、押川春浪や黒岩涙香の小説を耽読、卒業後、早稲田大学政治経済学部に入学します。
 在学中から英米の探偵小説に関心を抱き、1916年(大正5)に早稲田大学政経学部卒業し、大阪の貿易会社に就職しました。その後、古本屋開業を経て、東京市役所吏員、屋台の支那そば屋、新聞記者など多くの職業を転々とします。
 1923年(大正12)、雑誌『新青年』に掲載された『二銭銅貨』で作家デビューし、筆名はエドガー・アラン・ポーをもじり、『D坂の殺人事件』、『心理試験』、『屋根裏の散歩者』、『人間椅子』(1925年)、『陰獣』(1928年)などの本格的推理小説を書きました。
 一方で、『押絵と旅する男』(1929年)、『孤島の鬼』(1929‐30年)のような幻想的な怪奇趣味の名編を発表します。また、1936年(昭和11)からは、『怪人二十面相』、『少年探偵団』などの少年向けのものも執筆して、好評を博しました。
 これらによって、日本の近代的な推理小説の礎を築きましたが、太平洋戦争中は事実上の執筆禁止の状態に追い込まれます。
 戦後は、1947年(昭和22)探偵作家クラブの初代会長となり、1954年(昭和29)には新人発掘を意図し、乱歩の寄付を基金として「江戸川乱歩賞」を創設、1963年(昭和38)には日本推理作家協会の初代理事長に就任するなど、推理小説発展のために尽力しました。
 一方で、主に評論家、プロデューサーとして活動し、評論集『幻影城』(1951年)、『続・幻影城』(1954年)を出版、1957年(昭和27)からは探偵小説誌『宝石』の編集・経営に携わり、自伝的エッセイ集『探偵小説四十年』(1961年)も残しています。
 生涯で約130の作品を発表し、多彩な活動を続けたものの、1965年(昭和40)7月28日に、東京において、70歳で亡くなりました。

〇江戸川乱歩の主要な作品

・『二銭銅貨』(1923年)
・『D坂の殺人事件』(1925年)
・『心理試験』(1925年)
・『屋根裏の散歩者』(1925年)
・『赤い部屋』(1925年)
・『石榴(ざくろ)』(1925年)
・『人間椅子』(1925年)
・『湖畔亭事件』(1926年)
・『鏡地獄』(1926‐27年)
・『パノラマ島奇譚』(1926‐27年)
・『陰獣』(1928年)
・『押絵と旅する男』(1929年)
・『蜘蛛男(くもおとこ)』(1929年)
・『孤島の鬼』(1929‐30年)
・『黄金仮面』(1930年)
・『黒蜥蜴』(1934年)
・評論集『幻影城』(1951年)
・評論集『続・幻影城』(1954年)
・『化人幻戯』(1954年)
・自伝的エッセイ集『探偵小説四十年』(1961年)
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 今日は、江戸時代中期の1719年(享保4)に、幕臣・大名・老中田沼意次(たぬま おきつぐ)の生まれた日ですが、新暦では9月11日となります。
 田沼意次は、江戸本郷弓町(現在の東京都文京区)で、旗本の田沼意行の嫡男として生まれましたが、幼名は龍助といいました。
 1734年(享保19)、数え年16歳のとき第8代将軍徳川吉宗の世子家重の小姓となり、1735年(享保20)には、父の死去に伴って家督を継ぎ、1737年(元文2)に主殿頭に叙任されます。
 1751年(宝暦元)に第9代将軍徳川家重の御側衆となり、1758年(宝暦8)には、加増により1万石を与えられて大名へ出世しました。
 1767年(明和4)に、側御用人となって知行2万石に加増され遠江相良に築城し、1772年(安永元)には老中に進んで、たびたびの加封で5万7千石を領するに至ります。この間、幕政の実権を掌握するようになり、印旛沼・手賀沼の干拓による新田開発等の積極的な経済政策をとり、いわゆる田沼時代を現出しました。
 しかし、物価が騰貴し、賄賂政治を横行させることにもなり、折しも明和の大火(1772年)、浅間山の天明大噴火(1783年)などの災害が続き、さらに天明の大飢饉が起こるにおよんで、批判が高まります。
 その中で、1784年(天明4)に子の意知が江戸城内で暗殺され、1786年(天明6)に、将軍家治が死去すると勢力を失って失脚、老中も辞任させられ、藩領収公により、1万石に減封されました。
 これらにより、失意のうちに1788年(天明8年6月24日)、江戸において、数え年70歳で亡くなりました。

〇田沼意次関係略年表(日付は旧暦です)

・1719年(享保4)7月27日 旗本の田沼意行の嫡男として生まれる
・1734年(享保19) 第8代将軍徳川吉宗の世子家重の小姓となる
・1735年(享保20) 父の死去に伴って家督(600石)を継ぐ
・1737年(元文2) 従五位下主殿頭に叙任される
・1747年(延享4) 小姓組番頭格となる
・1748年(寛延元) 1,400石を加増され、合計2,000石となる
・1751年(宝暦元)4月18日 第9代将軍徳川家重の御側衆となる
・1755年(宝暦5) 3,000石を加増され、合計5,000石となる
・1758年(宝暦8) 5,000石の加増により、合計1万石を与えられて大名となる
・1767年(明和4)7月1日 側御用人となって知行2万石に加増され遠江相良に築城する
・1769年(明和6)8月18日 侍従にあがり老中格となる
・1772年(明和9)1月15日 老中に進む
・1772年(明和9)2月29日 明和の大火が起こる
・1783年(天明3) 浅間山の天明大噴火が起こる
・1783年(天明3) 天明の大飢饉が始まる
・1784年(天明4)4月2日 子の意知が江戸城内で暗殺される
・1786年(天明6)8月25日 第10代将軍家治が死去する
・1786年(天明6)8月27日 老中を辞任させられる
・1786年(天明6)閏10月5日 家治時代の加増分の2万石を没収される
・1787年(天明7)10月2日 石高3万7,000石が召上げられ蟄居となる
・1788年(天明8)6月24日 江戸において、数え年70歳で亡くなる
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