イメージ 1

 今日は、江戸時代後期の1855年(安政2)に、矢田堀景蔵、勝麟太郎(海舟)らが長崎海軍伝習所の一期生に選ばれ、オランダ人より汽船運転術を学ぶよう命じられた日ですが、新暦では9月10日となります。
 長崎海軍伝習所(ながさきかいぐんでんしゅうじょ)は、江戸幕府が洋式海軍創設のため、長崎に開設した海軍教育機関でした。
 1855年(安政2)6月に、オランダ国王がスンビン号(後の観光丸)を幕府に献呈したのを契機として、長崎に海軍伝習所を設置することにし、同年7月29日に、矢田堀景蔵、勝麟太郎(海舟)らが一期生に選ばれ、オランダ人より汽船運転術を学ぶよう命じられます。
 その後準備が進められ、長崎奉行所の西役宅を校舎に、オランダ海軍軍人 22名を教官として雇い、同年10月22日に出島のオランダ館にて開所式が行われ、24日に伝習が開始されました。
 第一期生は、幕臣70名、諸藩から129名で、その中に勝麟太郎(海舟)、矢田堀景蔵らの幕臣のほか、五代友厚、川村純義(薩摩藩)、佐野常民(佐賀藩)ら諸藩士がいました。
 目的が海軍の養成だったので、軍艦の操縦術のみではなく、造船術や医術、語学などの様々な教育が、日課を定め、海陸で行なわれます。
 翌年3月に一期生が修了、続いて二期生が入り、1857年(安政4)4月に江戸の築地講武所内に軍艦操練所が新設されると、総監永井尚志はじめ多数の幕府伝習生は築地に教員として移動しました。
 同年8月にヤパン号(後の咸臨丸)でカッテンダイケが来日して教授したりしましたが、財政負担が大きいなどの理由により、幕府の海軍士官養成は軍艦操練所に一本化されることになります。
 その結果、1859年(安政6)4月16日の最終講義をもって閉鎖され、オランダ人教官は本国へと引き上げました。
 しかし、長崎海軍伝習所の卒業生たちは、幕府海軍や各藩の海軍、さらには明治維新後の明治政府海軍創設の基礎となって活躍します。また、併設された飽浦修船工場、長崎製鉄所は、長崎造船所の前身ともなりました。

〇長崎海軍伝習所関係略年表(日付は旧暦です)

<1855年(安政2)>
・6月 オランダ国王がスンビン号(のち観光丸)を幕府に献呈
・7月29日 矢田堀景蔵、勝麟太郎らが長崎海軍伝習所の一期生に選ばれる
・9月3日 昌平丸にて長崎海軍伝習所一期生が品川を出発する
・10月20日 昌平丸が長崎へ着く
・10月22日 長崎海軍伝習所の開所式が、出島のオランダ館で行われる
・10月24日 長崎奉行所内西役宅を校舎に海軍伝習が開始される、

<1857年(安政4)>
・3月1日 長崎海軍伝習所の一期生が修了する
・3月4日 長崎海軍伝習所一期生が観光丸にて江戸へ帰途に就く
・3月26日 観光丸が上関・御手洗・鳥羽経由で品川沖に着く
・4月11日 江戸の築地講武所内に軍艦操練所を設置する
・5月8日 長崎海軍伝習所一期生が軍艦操練所教授方などへ任命される
・8月5日 ヤパン号(後の咸臨丸)でカッテンダイケが長崎へ来る

<1858年(安政5)>
・8月 咸臨丸が長崎海軍伝習所休講で築地の軍艦操練所所属になる

<1859年(安政6)>
・4月16日 長崎海軍伝習所が最終講義をもって閉鎖となり、その後オランダ人教官は本国へと引き上げる