
この条約は、日清戦争(1894~95年)後の1895年(明治28)4月17日に調印された「日清講和条約(下関条約)」の第6条の規定により、1896年(明治29)7月21日に北京において調印し、同年10月20日に批准書を交換して、10月28日に発効したものでした。
全29条からなり、貿易における日本への待遇を欧米と同等とする(第9条)、日本に対し領事裁判権を認める(第22条)、条約改訂は批准書交換より10年後以降に提議でき、提議より半年以内に合意が成立しなければ、自動的に10年間延長されてその期間改訂できない(第26条)など、日本に有利な不平等条約となります。これによって日本は領事裁判権、協定関税、最恵国待遇など欧米列強と同様の条件を獲得し、以降の中国侵略の足場を築きました。
さらに、1900年(明治33)に中国で起こった義和団の乱に、清国が列強に敗北した結果、北京議定書が結ばれますが、これをもとに、1903年(明治36)10月8日に、上海において、全13条からなる「日清追加通商航海条約」が締結されました。ここでは、日本人と清国人の共同経営事業(第4条)、日本人の商標・著作権保護(第5条)、清国の貨幣制度・度量衡統一義務(第6・7条)・日本の清国司法改革支援と達成後の治外法権撤廃義務(第11条)が定められ、いっそう日本に有利なものとなります。
その後、1919年(大正8)5月4日から起こった「五・四運動」で、中国国民の反帝運動が盛んとなるとこの条約の改訂もしくは廃棄が主張されるようになり、1926年(大正15)10月以降中国政府から撤廃の要求が起こりました。
1928年(昭和3)7月19日に中国政府は廃棄を通告、日本は条約改訂を認め、紆余曲折を経て、1930年(昭和5)5月6日に「日華関税協定」に調印しましたが、中国の関税自主権が回復されたにとどまります。
〇「日清講和条約(下関条約)」とは?
明治時代後期の1895年(明治28)4月17日、日清戦争で日本が清国に勝利したことにより、山口県赤間関市(現在の下関市)の春帆楼での講和会議を経て、調印された条約です。
正式名称は日清講和条約で、下関条約、馬関条約とも言われましたが、同年の5月8日に批准書が交換されて発効しました。
その内容は11ヶ条がらなり、(1)朝鮮の独立承認、(2)遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、(3)軍費賠償金2億両(約3億円)の支払い、(4)欧米諸国が中国にもつ通商上の特権を日本に認める新条約の締結などとなっています。
尚、調印直後にロシア、ドイツ、フランスのいわゆる三国干渉がなされ、日本は遼東半島を清国に還付しました。
☆「日清通商航海条約」関係略年表
・1894年(明治29)7月25日 日清戦争が勃発し、「日清修好条規」が破棄される
・1895年(明治28)4月17日 日本の勝利による「日清講和条約(下関条約)」が調印される
・1896年(明治29)7月21日 北京において全29条からなる「日清通商航海条約」が締結される
・1896年(明治29)10月20日 「日清通商航海条約」の批准書が好感される
・1896年(明治29)10月28日 「日清通商航海条約」が発効する
・1900年(明治33)6月20日 中国で義和団の乱が起こる
・1901年(明治34)9月7日 清国と列強の間で「北京議定書」が結ばれる
・1903年(明治36)10月8日 上海において全13条からなる「日清追加通商航海条約」が締結される
・1919年(大正8)5月4日 「五・四運動」が起こる
・1926年(大正15)10月 中国政府が条約改訂を日本側に打診する
・1928年(昭和3)7月19日 中国政府は「日清通商航海条約」の廃棄を通告する
・1930年(昭和5)5月6日 「日華関税協定」が調印され、中国の関税自主権が回復される