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 今日は、鎌倉時代の1204年(元久元)に、鎌倉幕府第2代将軍源頼家(みなもと の よりいえ)が謀殺された日ですが、新暦では8月14日となります。
 源頼家は、1182年(寿永元年8月12日)に、鎌倉比企谷第(現在の神奈川県鎌倉市)において、父・源頼朝と母・北条政子の長男として生まれましたが、幼名は万寿と言いました。
 1195年(建久6)に父・頼朝と母・政子に伴われて、上洛して参内し、頼朝の後継者としての披露が行われ、1197年(建久8)には、従五位上右近衛権少将に叙任されます。
 1199年(正治元)父頼朝の急死により、数え年17歳で家督を継ぎ、1202年(建仁2)に征夷大将軍に任じられました。しかし、北条氏の意向で有力御家人13人による合議制がしかれ、実権は北条氏が掌握することになります。
 翌年には、病を理由に、関東28ヶ国の地頭職および総守護職を子一幡に、西国38ヶ国の地頭職を弟千幡(後の源実朝)に譲らされました。
 同年9月に舅比企能員と謀って北条氏討伐を企てましたが失敗し、比企氏は滅ぼされ、頼家は将軍職を奪われ、伊豆国修禅寺に幽閉されます。
 そして、翌1204年(元久元年7月18日)に、北条氏による刺客によって、21歳の若さで、殺されました。
 その後、北条氏が鎌倉幕府の実権を握り続けることとなります。

〇源頼家関係略年表(日付は旧暦です)

・1182年(寿永元)8月12日 鎌倉比企谷第において、父・源頼朝と母・北条政子の長男として生まれる
・1193年(建久4) 富士の大巻狩りで頼家に鹿を射止めさせる
・1195年(建久6) 父・頼朝と母・政子に伴われて、上洛参内し、頼朝の後継者としての披露が行われる
・1197年(建久8) 従五位上右近衛権少将に叙任される
・1199年(正治元)1月 父頼朝の急死により、家督を継ぐ
・1202年(建仁2)7月 征夷大将軍(鎌倉幕府第2代将軍)に任じられる
・1203年(建仁3)8月 病を理由に、関東28ヶ国の地頭職と総守護職を子一幡に、西国38ヶ国の地頭職を弟千幡に譲らされる
・1203年(建仁3)9月 舅比企能員と謀って北条氏討伐を企てるも失敗し、比企氏は滅ぼされ、頼家は将軍職を奪われ、伊豆国修禅寺に幽閉される
・1204年(元久元)7月18日 北条氏による刺客によって、修善寺において、謀殺される