この戦いは、「小田原征伐」、「小田原の役」、「小田原合戦」などとも呼ばれていますが、1587年(天正15)には九州征伐を終えて全国平定を目指す豊臣秀吉が、最後まで従わなかった小田原の北条氏(後北条氏)を攻撃したものでした。
秀吉は何度も北条氏の上洛を促しましたが、北条氏政らは従わず、上野国(現在の群馬県)の名胡桃城の帰属をめぐって真田氏と対立した氏直の出兵をとらえて、1589年(天正17年11月)に、北条氏討伐の令を諸国に発します。
西国の大名や水軍をも動員し、20数万人の軍勢が東海道、東山道から攻め上がり、周辺の支城(山中城、足柄城、韮山城、岩槻城、鉢形城、八王子城、館林城、忍城など)を包囲して、攻撃しました。
1590年(天正18年4月3日)には、相模国の平地に入って小田原城を包囲し、持久戦に入り、攻囲・攻撃は3ヶ月余に及びます。
北条方は、これに対する評議が容易に決せず (小田原評定と呼ばれる) 、その期間、周辺の支城が次々と落城、兵士の士気は阻喪し、重臣松田憲秀をはじめ、秀吉方へ内応するものも多く現れました。
その結果、同年7月5日に、氏直は氏政以下将士の許されることを条件に降伏を申出ることになります。秀吉は、氏政と弟氏照を自決させ、当主氏直を許して高野山に追放、重臣の松田憲秀、大道寺政繁らに死を命じます。
これにより、北条氏は滅亡し、奥羽の伊達氏はじめ奥州諸大名も降伏、秀吉による天下統一が完成しました。
〇小田原征伐関係略年表(日付は旧暦です)
<1589年(天正17)>
・11月24日 豊臣秀吉が北条氏討伐の令を諸国に発する
・12月13日 徳川家康が北条氏討伐の先鋒を命じられる
<1590年(天正18)>
・3月1日 秀吉が大軍を率いて京都を出発する
・3月27日 秀吉自身が沼津に到着する
・4月1日 山中城が落城する
・4月3日 秀吉方は相模に入って小田原城を包囲し、持久戦に入る
・4月6日 秀吉は箱根湯本の早雲寺に入り本陣とする
・4月17日頃 国峰城、宮崎城が落城する
・4月19日 厩橋城が落城する
・4月22日 松井田城、玉縄城が落城する
・4月23日 箕輪城が落城する
・5月22日 松山城、岩槻城が落城する
・6月14日 鉢形城が落城する
・6月23日 八王子城が落城する
・6月24日 韮山城が落城する
・6月26日 石垣山一夜城が完成する
・7月5日 北条氏直は、氏政以下将士の許されることを条件に降伏を申し出る
・7月6日 秀吉方が小田原城内へ入る
・7月11日 北条氏政、氏照らが自刃する
・7月20日 北条氏直が高野山へと向かう