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 今日は、1863年(文久3)に薩英戦争の起きた日ですが、新暦では8月15日のこととなります。
 これは、江戸時代末期の1863年(文久3年7月2~4日)、薩摩国鹿児島で行われた、薩摩藩とイギリス艦隊との戦闘でした。1862年(文久2年8月21日)に起きた生麦事件に対して、イギリス代理公使 E.ニールは、江戸幕府に対して公式謝罪状および償金10万ポンドを要求し、薩摩藩に対しては、犯人の処刑と償金2万5千ポンドを要求します。
 しかし、江戸幕府は従ったものの、薩摩藩は拒否したため、ニール公使は、みずからの力で事態の解決をはかり、翌年6月27日に、イギリス艦隊を鹿児島湾に侵入させ、翌日犯人の処刑と前記償金の支払いを求めました。
 これに対し、薩摩藩が回答しなかったため、7月2日イギリス艦隊は薩摩藩の汽船天祐丸、白鳳丸、青鷹丸を拿捕し、鹿児島に砲撃を加え、薩摩藩も応戦したので、戦闘状態となります。戦闘は4日まで続きましたが、鹿児島城下は砲火を浴びて、鹿児島城内の櫓、門等を損壊、集成館、鋳銭局など重要施設を含む市街地の1割を焼亡し、イギリス側も艦船を損傷、死傷者63人を出し、食料・弾薬・石炭の欠乏、船体修理のため退去し、横浜に帰りました。
 同年10月横浜で交渉の結果、薩摩藩は償金を江戸幕府の立替え払いで支払い、イギリス側も薩摩藩の軍艦購入を周旋するなどの条件で和議が成立し、以後両者の提携が進むことになります。

〇生麦事件とは?

 幕末の1862年(文久2年8月21日)に、神奈川の生麦村(現在の横浜市鶴見区)で起こった薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件です。薩摩藩の島津久光一行が、江戸からの帰途、騎馬のイギリス人リチャードソンら4名と行き会い、馬を下りずに行列を乱したのを無礼とし、供頭の奈良原喜左衛門が突然斬りつけ、続いて多数で襲撃し、リチャードソンは絶命、2人が重傷を負いました。
 イギリスは幕府と薩摩藩に犯人引き渡しと賠償金を要求し、幕府はこれに応じましたが、薩摩藩はあくまで拒否したため、薩英戦争の原因となりました。

☆薩英戦争関係略年表(日付は旧暦です)

<1862年(文久2)>
・8月21日 神奈川の生麦村で薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件が起こる(生麦事件)
・8月23日 ニール公使は横浜において外国奉行津田正路と会談し、幕府の責任を問う
・8月30日 ニール公使と老中板倉・水野忠精との折衝が行われ、犯人の差し出しを要求する
・11月20日 ヴィクトリア女王臨席で開かれた枢密院会議で武力制裁に関する勅令が可決される

<1863年(文久3)>
・2月4日 幕府に生麦事件と東禅寺事件の賠償(合計11万ポンド)について最後通牒を突きつける
・2月19日 ニール公使は幕府に対して、艦隊を薩摩に派遣して直接同藩と交渉することを通告する
・5月9日 ニール公使と江戸幕府代表の小笠原長行との間で賠償交渉(賠償金10万ポンド)がまとまる
・6月22日 ニール公使は薩摩国との直接交渉のため、7隻の艦隊と共に横浜を出港し、薩摩へ向かう
・6月27日 イギリス軍艦7隻が鹿児島湾に入る
・6月28日 イギリス艦隊は鹿児島城下前之浜沖合に投錨し、薩摩の使者に対しイギリスの国書を提出する
・7月1日 ニール公使は島津家の使者に対し、要求が受け入れられない場合は武力行使に出ることを通告する
・7月2日 イギリス艦隊は薩摩藩の汽船天祐丸、白鳳丸、青鷹丸を拿捕し、鹿児島に砲撃を加え、薩摩藩も応戦する
・7月3日 イギリス艦隊は戦列を立て直し、市街地と両岸の台場を砲撃して市街地1割と島津屋敷を延焼させる
・7月4日 イギリス艦隊は死傷者63人を出し、弾薬や石炭燃料の消耗もあって薩摩を撤退する
・7月11日 イギリスの全艦隊が横浜に帰着する
・9月28日 横浜の英国公使館の応接室にて、第1回和睦の談判が行われ、紛糾・決裂するものの次回を決める
・10月4日 第2回和睦の談判が行われ、紛糾・決裂するものの翌日の継続を決める
・10月5日 第3回和睦の談判が行われ、イギリスからの軍艦購入を条件に扶助料を出すことで決着する
*島津家は6万300両(2万5000ポンド相当)を幕府から借用してイギリス側に支払うが、これを幕府に返却しなかった
*講和条件の一つである生麦事件の加害者は「逃亡中」として処罰されずに終わる