ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2018年06月

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 今日は、江戸時代前期の1654年(承応3)に、江戸市中に水を供給する玉川上水が完成した日ですが、新暦では7月21日となります。
 これは、かつて江戸市中へ飲料水を供給していた用水路で、神田上水、千川上水と共に江戸三上水の一つでした。
 江戸幕府第4代将軍徳川家綱の時代の1653年 (承応2) に、庄右衛門・清右衛門兄弟が多摩川中流羽村と四谷大木戸間の水路を着工します。2度の失敗を経て、総奉行松平信綱のもとに1654年(承応3年6月20日)に、この区間が竣工し、翌年に四谷大木戸から江戸城虎ノ門前までが完成しました。これ以後は、配水路が次々に延長されていって、江戸の南部方面に配水されました。
 多摩川の水を羽村(現在の東京都羽村市)で取水し、拝島-立川-武蔵境-下高井戸-四谷大木戸 (現在の東京都新宿区)間の約43kmは、自然流下により導水する開渠で、ここからは、石樋や木管で江戸城・武家屋敷・庶民の居住地等に給水されます。
 その後、野火止(のびどめ)、青山、三田、千川の各分水が設けられ、飲料水あるいは灌漑用水として利用されました。
 庄右衛門・清右衛門は、この功績により玉川姓を許され、玉川上水役のお役目を命じられ、その経営を請け負って、玉川両家で世襲されます。しかし、1739年(元文4)両家とも役を罷免され、以後同上水は幕府の直営となりました。
 明治時代になっても使用され、1898年(明治31)に東京に改良水道が完成した後も、1965年(昭和40)まで淀橋浄水場への導水路として利用され、現在は立川市砂川から東村山市浄水場へ送水されるようになります。
 これに伴い、小平地点より下流部分は流水がとだえましたが、東京都の施策により1986年(昭和61)に清流が復活し、開渠部分の約30.4kmが、2003年(平成15)に国の史跡に指定されました。

〇玉川上水関係略年表(日付は旧暦です)

・1653年 (承応2)4月4日 庄右衛門・清右衛門兄弟が多摩川中流羽村と四谷大木戸間の水路を着工する
・1654年(承応3)6月20日 総奉行松平信綱のもとにに、羽村~四谷大木戸間が竣工する
・1655年(明暦元) 四谷大木戸から江戸城虎ノ門前までが完成する
・1655年(明暦元) 分水の一つ、野火止用水が開削される
・1659年(万治2) 維持管理費用として水上修復料銀の徴収が始まる
・1660年(万治3) 分水の一つ、青山上水が開設される
・1664年(寛文4) 分水の一つ、三田上水が開削される
・1696年(元禄9) 分水の一つ、千川上水が完工する
・1739年(元文4) 玉川両家が共に玉川上水役を罷免され、以後同上水は幕府の直営となる
・1898年(明治31) 東京に改良水道が完成する
・1901年(明治34) 東京の上水用としては廃止される
・1965年(昭和40) 淀橋浄水場廃止まで、導水路として利用される
・1986年(昭和61) 東京都の施策により、小平地点より下流部分の清流が復活する
・2003年(平成15) 開渠部分の約30.4kmが国の史跡に指定される
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 今日は、昭和時代中期の1954年(昭和29)に、名古屋テレビ塔が竣工した日です。
 この塔は、愛知県名古屋市中区の久屋大通公園に、昭和時代中期の1954年(昭和29)6月19日に竣工し、翌20日には開業・電波の発射を開始した、日本で最初の集約電波塔でした。
 内藤多仲の設計によるもので、東京タワーよりも4年早く、完成当時は、東洋一の高さ(180m)を誇る高層建築物だったのです。
 90m地点にスカイデッキ、100m地点にスカイバルコニーと2つの展望台を有し、名古屋市内を一望でき、市民に親しまれました。
 尚、全国の有名なタワー20で構成される「全日本タワー協議会」というのがあり、名古屋テレビ塔も加盟していて、「スタンプラリー」を実施しています。スタンプを集めると認定証と記念品がもらえますので、チャレンジしてみても面白いのではないでしょうか。

〇「全日本タワー協議会」とは?

 1961年(昭和36)に、東京タワー、通天閣、名古屋テレビ塔の3つで発足しましたが、現在は、日本国内の20のタワーで運営されている協議会で、全国を4つのブロックに分けて活動しています。
 2006年(平成18)から、10月1日を「展望の日」と定め、各加盟タワーにおいて、来場者へ特典プレゼントを贈呈するなどのイベントが行われるようになりました。
 また、2010年(平成22)の「展望の日」から、「All-Japan20タワーズスタンプラリー」を実施していて、各加盟タワーを訪問してスタンプを集め、ブロック全てのスタンプを集めた来場者にはブロック認定証と記念品が、20タワー全てのスタンプを集めた来場者には完全制覇認定証と特別記念品が贈られています。

☆全日本タワー協議会加盟タワー一覧

<イースト>
・さっぽろテレビ塔(北海道)
・五稜郭タワー(北海道)
・銚子ポートタワー(千葉県)
・千葉ポートタワー(千葉県)
・東京タワー(東京都)
・横浜マリンタワー(神奈川県)

<セントラル>
・名古屋テレビ塔(愛知県)
・東山スカイタワー(愛知県)
・東尋坊タワー(福井県)
・ツインアーチ138(愛知県)
・クロスランドタワー(富山県)

<カンサイ>
・通天閣(大阪府)
・京都タワー(京都府)
・神戸ポートタワー(兵庫県)
・空中庭園展望台(大阪府)

<ウエスト>
・福岡タワー(福岡県)
・ゴールドタワー(香川県)
・海峡ゆめタワー(山口県)
・夢みなとタワー(鳥取県)
・別府タワー(大分県)

☆日本のタワーの高さベスト10(一般に登れるもの限定)

1.東京スカイツリー(634m) 東京都墨田区―2012年完成
2.東京タワー(333m) 東京都港区―1958年完成
3.福岡タワー(234m) 福岡県福岡市早良区―1989年完成
4.スカイタワー西東京(195m) 東京都西東京市―1988年完成
5.名古屋テレビ塔(180m) 愛知県名古屋市中区―1954年完成
6.ゴールドタワー(158m) 香川県綾歌郡宇多津町―1988年完成
7.海峡ゆめタワー(153m) 山口県下関市―1996年完成
8.さっぽろテレビ塔(147.2m) 北海道札幌市中央区―1957年完成
9.セリオン[秋田市ポートタワー](143m) 秋田県秋田市―1994年完成
10.ツインアーチ138[木曾三川公園] (138m) 愛知県一宮市―1995年完成
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 今日は、江戸時代中期の1723年(享保8)に、江戸幕府の第8代将軍徳川吉宗が人材登用のための「足高の制(たしだかのせい)」を制定した日ですが、新暦では7月19日となります。
 これは、いわゆる「享保の改革」の一つとして行われたもので、家禄の低い者が役高の高い役職に就いた場合に、在職中に限りその差額を支給する制度でした。微禄の者で有用な人材を登用するのに役立つと共に、世襲家禄の財政負担の増大を押える効果があったとされています。
 若年寄を除くほとんどの要職で行われ、各役職の基準石高を定め、持高がこれに及ばない場合に一定の役料が与えられました。例えば、1,920石で町奉行になった大岡忠相は、その基準高3,000石に足らない部分の1,080石の足高を受けます。
 この制度は、翌年及び、1731年(享保16)、1738年(元文3)に修正を行って制度の充実が図られ、幕末まで続きました。
 家格にとらわれない、能力主義・個人主義を導入した点において、その後の人材登用制度の重要な柱となります。

〇享保の改革とは?

 江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が幕藩体制の安定と強化のため、江戸時代中期に、その在任期間(1716~1745年)を通じて行なった諸改革で、江戸時代の三大改革の一つと言われ、その最初に行われたものです。内容は、幕政機構の再編、法制の立て直し、都市商業資本の統制などで、具体的には以下の主要な政策が実施されました。

<享保の改革の主要政策>
・質素倹約の奨励
・定免制を施行して年貢収納の強化をはかる
・足高の制(各地位ごとに授与される給与を定め、地位についている時に元の禄高に足されて支給した)
・公事方御定書(幕府の基本法典。判例を法規化した刑事裁判の際の基準となる刑事判例集)
・目安箱の設置(施政の参考意見や社会事情の収集などを目的に、庶民の進言を集めるための投書箱)
・堂島米市場の公認
・キリスト教に関係のない漢訳洋書の輸入の緩和
・上げ米の制
・相対済令(金銭貸借についての訴訟を認めず当事者間の話し合いによる解決を命じたもの)
・元文の改鋳(貨幣の品位を低下させ、通貨量を増大させる貨幣改鋳策)
・新田開発の奨励(商人など民間による新田開発を奨励)

☆「足高の制」(抄文)

 諸役人、役柄に応ぜざる小身の面々[1]、前々より御役料[2]定め置かれ下され候処、知行の高下[3]之れ有る故、今迄定め置かれ候御役料[2]にては、小身の者御奉公続き兼ね申すべく候。之れに依て、今度御吟味[4]之れ有り、役柄により其場不相応に小身にて御役勤め候者は、御役勤め候内御足高[5]仰付けられ、御役料増減[6]之れ有り、別紙の通り相極め候。此旨申し渡し可き旨、仰せ出され候。但此度の御定の外取り来り候御役料[2]は其侭下し置かれ候。
 
 五千石より内は、五千石高に成し下さる可く候。
                        御側役
                        留守居
                        大番頭
 四千石より内は、四千石高に成し下さる可く候。 
                        書院番頭
                        小姓組番頭
 三千石より内は、三千石高に成し下さる可く候。 
                        大目付
                        町奉行
                        御勘定奉行
                        百人組頭
                        小普請組支配
 二千石より内は、二千石高に成し下さる可く候。 
                        旗奉行
                        槍奉行
                        西城留守居
                        新番頭
                        作事奉行
                        普請奉行
                        小普請奉行
 一千石より内は、一千石高に成し下さる可く候。 
                        留守居番
                        目付
                        使番
                        書院番組頭
                        小姓組組頭
                        小十人頭
                        徒頭

 (以下略)

                   『御触書寛保集成』より

 *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

【注釈】
 [1]小身面々:しょうしんのめんめん=家禄、禄高の少ない者。
 [2]御役料:おんやくりょう=在職中、家禄に加増された手当のこと。
 [3]知行の高下:ちぎょうのこうげ=禄高の高い者と低い者。
 [4]御吟味:ごぎんみ=調査、検討。
 [5]其の場所不相応:そのばしょふそうおう=その役職に相応していない。
 [6]足高:たしだか=役職に応じた役高を設定し、在職中だけその基準に達しない者に不足分を支給すること。
 [7]御役料増減:おんやくりょうぞうげん=加増された手当は、家禄に応じて増減する。

<現代語訳>  

 幕府の諸役人の内、役職を勤めるのに不相応な家禄の少ない者たちには、以前から一定の役職に応じた手当が下されていたが、禄高の高い者と低い者がいるので、今まで決められていた一定の手当では、禄高の少ない者は奉公を続けていくことが困難になってきている。このため、今回よく検討され、役職に不相応な少ない家禄で勤めている者は、在職勤務中だけ役職の禄高基準に達しない不足分を支給することを命じられたので、今までの手当の家禄に応じた増減を別紙の通りに決定した。この旨を申し渡すように命じられた。ただし、今回決められた以外に支給してきた手当はそのまま下されるものとする。

 5千石に足らなくて、5千石になるように不足分をいただける者 
                               御側役
                               留守居
                               大番頭
 4千石に足らなくて、4千石になるように不足分をいただける者 
                               書院番頭
                               小姓組番頭
 3千石に足らなくて、3千石になるように不足分をいただける者 
                               大目付
                               町奉行
                               御勘定奉行
                               百人組頭
                               小普請組支配
 2千石に足らなくて、2千石になるように不足分をいただける者 
                               旗奉行
                               槍奉行
                               西城留守居
                               新番頭
                               作事奉行
                               普請奉行
                               小普請奉行
 1千石に足らなくて、1千石になるように不足分をいただける者 
                               留守居番
                               目付
                               使番
                               書院番組頭
                               小姓組組頭
                               小十人頭
                               徒頭

 (以下略)
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 今日は、昭和時代中期の1959年(昭和34)に、首都高速道路公団(しゅとこうそくどうろこうだん)が設立された日です。
 この公団は、1959年(昭和34)4月14日成立の「首都高速道路公団法」によって設立された特殊法人で、首都高速道路および関連施設の建設・管理を統括していましたが、2005年(平成17)9月30日の「日本道路公団等民営化関係法施行法」により解散、民営化されて、業務は日本高速道路保有・債務返済機構および首都高速道路株式会社に引き継がれました。
 設立の目的は、「東京都の区の存する区域及びその周辺の地域において、その通行について料金を徴収することができる自動車専用道路の新設、改築、維持、修繕その他の管理を総合的かつ効率的に行うこと等により自動車専用道路の整備を促進して交通の円滑化を図り、もつて首都の機能の維持及び増進に資すること」とされています。
 これによって、東京都の区部およびその周辺地域での自動車道路網の整備が行われ、1962年12月の京橋~芝浦(4.5km)の開通を皮切りに、1964年(昭和39)の東京オリンピックまでに“首都高速道路”(一般街路と分離し、平面交差のない自動車専用道路ですが、高規格幹線道路として建設された高速道路ではなく、制限速度は40~80kmとなっている)として30kmが完成しました。
 その後も整備が進み、1997年(平成9)初頭には、24路線248kmにまで達しましたが、2005年(平成17)に民営化され、首都高速道路株式会社に引き継がれることになります。
 それからもさらに整備が進捗し、現在の“首都高速道路”網は東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県の都市部に及び、路線長337.8kmとなりました。

〇「首都高速道路公団法」昭和34年4月14日 法律133号→平成16年6月9日廃止

第1章 総 則

(目的)

第1条 首都高速道路公団は、東京都の区の存する区域及びその周辺の地域において、その通行について料金を徴収することができる自動車専用道路の新設、改築、維持、修繕その他の管理を総合的かつ効率的に行うこと等により自動車専用道路の整備を促進して交通の円滑化を図り、もつて首都の機能の維持及び増進に資することを目的とする。

(法人格)

第2条 首都高速道路公団(以下「公団」という。)は、法人とする。

(事務所)

第3条 公団は、主たる事務所を東京都に置く。
2 公団は、国土交通大臣の認可を受けて、必要な地に従たる事務所を置くことができる。

(資本金)

第4条 公団の資本金は、10億円と政令で定める地方公共団体が公団の設立に際し出資する額の合計額とする。
2 政府は、公団の設立に際し、前項の10億円を出資するものとする。
3 公団は、必要があるときは、国土交通大臣の認可を受けて、その資本金を増加することができる。
4 政府及び政令で定める地方公共団体は、前項の規定により公団がその資本金を増加するときは、公団に出資することができる。

(登記)

第5条 公団は、政令で定めるところにより、登記をしなければならない。
2 前項の規定により登記しなければならない事項は、登記の後でなければ、これをもつて第三者に対抗することができない。

(名称使用の制限)

第6条 公団でない者は、首都高速道路公団という名称を用いてはならない。

(民法の準用)

第7条 民法(明治29年法律第89号)第44条(法人の不法行為能力等)及び第50条(法人の住所)の規定は、公団について準用する。

(以下略)

            「法令全書」より
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 今日は、昭和時代前期の1939年(昭和14)に、国民精神総動員委員会が遊興営業の時間短縮、ネオン抑制、中元・歳暮の贈答廃止、学生の長髪禁止、パーマネント廃止などの生活刷新案を決定して発表した日です。
 これは、日中戦争の拡大に伴って,国民に戦時意識を徹底させ戦争に協力させるために起こされた「国民精神総動員運動」の一環として、行われたものでした。その推進の中心となった国民精神総動員委員会では、「公私生活を刷新し戦時体制化するの基本策」につき協議してきましたが、第一期刷新項目として、(イ)早起励行、(ロ)報恩感謝、(ハ)大和協力、(ニ)勤労報国、(ホ)時間厳守、(ヘ)節約貯蓄、(ト)心身鍛錬とします。
 そして、第二期刷新項目として、以下の7項目が決定され、1939年(昭和14)6月16日に発表されました。
 (イ)料理店、飲食店、カフェー待合、遊戯場などの営業時間の短縮
 (ロ)ネオンサインの抑制
 (ハ)一定の階層の禁酒、一定の場所の禁酒
 (ニ)冠婚葬祭に伴う弊風打破、なかんずく奢侈なる結婚披露宴などの廃止
 (ホ)中元歳暮の贈答廃止
 (ヘ)服装の簡易化—フロックコート、モーニングコートの着用は公式の儀礼に限りその他は平常服をもってこれに代えること
 (ト)男子学生生徒の長髪廃止、婦女子のパーマネントウェーヴその他浮華なる化粧、服装の廃止
 これらは7月4日委員会で決定され、7月11日の閣議で、「実行し得るものより順次これを実行に移し公私生活を刷新し戦時体制の強化に努めるよう措置する」との申合せがなされました。
 そして、「公私生活の戦時態勢化を徹底するため既存の実行組織を整備し各官公衙、会社工場など職場ごとに、市町村の区、町内、部落など地域ごとに各種団体、学校毎に指導督励の担任者を定め国民各個に浸透するよう自ら率先実行せしめるとともに指導督励にあたらしむること」とされます。

〇「生活刷新基本方策」

一、国民生活日の設定 政府は毎月一定の日をもって国民生活日と定め特に当日は全国民戦場の労苦を偲び強力日本建設に向って邁進し厳粛闊達なる気分をもって国民生活綱要に副い日本精神を如実に顕現して自粛自省これを実際生活の上に具現し恒久実践の源泉となす日たらしめること。

二、国民生活要綱の提唱 「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」の指標のもとに国民生活綱要としてしくに日々厳守励行すべき項目をさらに高調し地方の実情と対象とに応じてこれを具体化しその普及徹底を計ること
 国民生活綱要—(イ)早起励行(ロ)報恩感謝(ハ)大和協力(ニ)勤労報国(ホ)時間厳守(ヘ)節約貯蓄(ト)心身鍛錬。

三、第一期刷新項目 差当り刷新項目として左の事項を取上げ強力に刷新に努むることとし、政府はそれぞれその所管事項につき適切なる措置を講ずるとともに国民精神総動員中央連盟はこれが普及徹底に努力することなお第二期には前期の成績を検討した上さらに刷新項目を追加すること。
 (イ)料理店、飲食店、カフェー待合、遊戯場などの営業時間の短縮(ロ)ネオンサインの抑制(ハ)一定の階層の禁酒、一定の場所の禁酒(ニ)冠婚葬祭に伴う弊風打破、なかんずく奢侈なる結婚披露宴などの廃止(ホ)中元歳暮の贈答廃止(ヘ)服装の簡易化—フロックコート、モーニングコートの着用は公式の儀礼に限りその他は平常服をもってこれに代えること(ト)男子学生生徒の長髪廃止、婦女子のパーマネントウェーヴその他浮華なる化粧、服装の廃止。

四、徹底方法 公私生活の戦時態勢化を徹底するため既存の実行組織を整備し各官公衙、会社工場など職場ごとに、市町村の区、町内、部落など地域ごとに各種団体、学校毎に指導督励の担任者を定め国民各個に浸透するよう自ら率先実行せしめるとともに指導督励にあたらしむること。

 〇国民精神総動員運動とは?

 昭和時代前期の1937年(昭和12)7月7日の日中全面戦争突入(盧溝橋事件)以後、第一次近衛内閣により行われた国民を戦争に協力させるための運動でした。8月24日に「国民精神総動員実施要綱」が閣議決定され、10月12日 に挙国一致・尽忠報国・堅忍持久を3目標として、国民精神総動員中央連盟が発足して、国民精神総動員運動が始まります。翌年までに帝国在郷軍人会、全国神職会、全国市長会、日本労働組合会議など多くの団体が参加するようになりました。最初は、精神運動の性格が強かったのですが、次第に献金、献品など物的協力に転換していき、貯蓄増加や国債消化の奨励、金属類回収などが展開されます。1939年(昭和14)3月には文部大臣を委員長とする国民精神総動員中央委員会が設置され、道府県には主務課が設けられました。同年8月には興亜奉公日(同年9月1日より毎月1日)が設定され、さらに翌年4月には、従来の組織を解消して、首相を会長とする国民精神総動員本部が設けられ、中央連盟を吸収します。しかし、同本部も同年10月には大政翼賛会に吸収されて、運動が引き継がれていきました。

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