ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2018年06月

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 今日は、年中行事の一つ「夏越祓(なごしのはらえ)」の日です。
 これは、もともと旧暦6月30日の大祓(おおはらえ)の行事を指し、「名越の祓」、「水無月(みなづき)祓」、「六月祓」、「夏越神事」などとも呼ばれてきました。
 その起源は古く、701年(大宝元)制定の「大宝律令」では、「大内裏の未雀院に天皇に仕える百官の貴族が集まって、国民が犯した罪を除き去るために大祓いの詞をよみあげる」儀式とされています。
 半年に一度(毎年6月と12月の晦日)行われるものとされ、延喜式には「六月晦大祓、十二月此准」とありましたが、後世になって6月の祓だけが残ったものでした。
 この大祓いの行事は、次第に民間の神社でも行われるようになり、年の犯した罪や穢れを除き去るための除災行事として定着します。この時期は農家にとって、稲作や麦作などに虫害・風害などを警戒する大事な季節だったので、半年間に溜まった病と穢れを落とし、残りの半年を無事に過ごせることを願うものとなりました。
 祓いの行事として有名なのは、「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」、「形代(かたしろ)」、「水無月(みなつき)祓い」ですが、藁(わら)人形をつくり太刀(たち)を持たせて水に流す、小麦饅頭(まんじゅう)や団子をつくって農仕事を休む、海に入って身を清め牛馬をも海に入れて休ませる(中国地方から北九州)、斎忌を厳重に守る(長崎県壱岐市)など地方ではいろいろな行事が行われています。
 明治時代以降は、新暦の6月30日に行われるところも多くなってきました。

〇「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」とは?

 茅の輪は、竹で作った直径2~3mほどの輪にチガヤという草を巻きつけたものです。神社の境内に作られた大きな茅の輪の中を参拝者が正面から最初に左回り、次に右回りと8の字を描いて計3回くぐることで、病気や災いを免れることができるとされました。
 その起源については、『釈日本紀』逸文の『備後国風土記』にもある蘇民将来の伝説「昔、ある兄弟のところに、一人の旅人が現れて一夜の宿を乞いました。裕福な兄は旅人を冷たく断り、貧しいながらも弟の蘇民将来(そみんしょうらい)は温かく旅人をもてなしました。数年後、旅人が恩返しにと再び蘇民を訪れますが、実はこの旅人はスサノオノミコトで、その教えに従って茅の輪を腰に付けたところ、疫病から逃れられ、子々孫々まで繁栄した」ということに由来していると言われています。
 この故事に基づき、家の玄関に「蘇民将来札」という札を貼り、厄除けにするという風習も残されてきました。

〇「形代(かたしろ)」とは?

 紙で作った人の形を模したものです。これに自分の名前や年齢などを書き、それで体を撫でて人形に罪やケガレを移し、身代わりとして神社に納めたりしました。これを川に流したり、篝火を焚いたり、水や火を使う神事で清め、厄を落とすところもあります。
 埼玉県さいたま市の氷川神社、京都府京都市の上加茂神社・下鴨神社、大阪府大阪市の住吉大社の夏越祓いが有名ですが、紙だけでなく、藁などで人形を作るところもあり、人形に代わって古い毛髪や麻の葉を流したり、お清めのために人が直接、川や海に入ったりする地方も残されてきました。

〇「水無月(みなつき)祓い」とは?

 京都では「夏越祓」に「水無月」という和菓子を食べて、厄払いをする習慣があります。これは白の外郎生地に小豆をのせ、三角形に包丁された和菓子で、上部にある小豆は悪霊ばらいの意味があり、三角の形は暑気を払う氷を表していると言われてきました。
 この時期は、病気が流行り、暑さで体力も消耗するので、甘く食べやすいお菓子でエネルギーを補給をする意味もあったようです。
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 今日は、太平洋戦争中の1945年(昭和20)に、岡山空襲(家屋12,693棟被災、死者が1,737人)で岡山城天守閣が焼失した日です。
 この空襲は、6月28日夜に、マリアナのテニアン島の基地を飛び立ったアメリカ軍のB-29爆撃機138機によって、29日午前2時43分より行われたものでした。この結果、市街地の73%が焼け野原と化し、罹災戸数12,693戸、罹災者数約12万人、死者数1,737人、負傷者数6,026人の大きな被害を出します。
 そして、岡山城の天守閣(旧国宝)や蓮昌寺の伽藍(旧国宝)を始めとした、中世から近世に掛けての貴重な文化財も焼失しました。
 尚、太平洋戦争中の城郭天守閣の喪失は、水戸城、名古屋城、大垣城、和歌山城、岡山城、福山城、広島城の7つにも及んだのです。

〇岡山空襲で被害を受けた主要な文化財

・岡山城(旧国宝)
・蓮昌寺三重塔(旧国宝)、祖師堂(旧国宝)、本堂(旧国宝)
・岡山藩藩学(国の史跡)
・三友寺本堂等
・大雲寺
・蔭涼寺
・浄教寺本堂、客殿、庫裡等
・大福寺本堂、大師堂等
・光乗院本堂、庫裡、阿弥陀堂、愛染堂、太子堂、金毘羅堂、稲荷堂、和霊堂等
・国清寺本堂
・金刀比羅神社
・内宮
・荒手茶寮
・本行寺

〇1945年(昭和20)に行われた主要な空襲

・1月19日 阪神地方へ初の本格的空襲が行われる
・3月10日 東京大空襲か行われ、死傷12万人、焼失27万余戸、罹災100余万人が出る
・3月12日 名古屋大空襲で中心街が消失する(家屋25,734棟棟被災、105,093人罹災、死者519人、負傷者負傷者734人)
・3月13~14日 大阪へ初の大空襲が行われる
・3月17日 神戸大空襲が行われ神戸市西部が消失する(約65,000棟が全半焼、死者2,598人)
・3月19日 名古屋大空襲で名古屋駅が炎上する(家屋39,893棟被災、151,332人罹災、死者826人、負傷者2,728人)
・4月13日 東京大空襲が行われる
・4月15日 東京大空襲が行われる
・5月14日 名古屋空襲で名古屋城が焼失する(家屋21,905棟被災、66,585人罹災、死者338人、負傷者783人)
・5月24日 東京へ250機来襲し、皇居が炎上する
・5月29日 京浜へ600機来襲し、川崎、横浜が被災する
・6月1日 大阪、尼崎等へ400機来襲する
・6月5日 兵庫県神戸市へ350機来襲する(西部の神戸市垂水区から東部の西宮市まで広範囲が爆撃される)
・6月7日 大阪周辺へ250機来襲する
・6月15日 大阪地方へ300機来襲する
・6月29日 岡山空襲で岡山城が焼失する(家屋12,693棟被災、死者が1,737人)
・7月9日 和歌山大空襲で和歌山城が消失する(焼失家屋31,137戸、被災者113,548人、死者・行方不明者1,424人 )
・7月14日 青函連絡船の翔鳳丸など9隻が米艦載機の攻撃を受けて沈没する
・8月6日 B29が広島に原子爆弾を投下し、市街地は廃墟と化し、20万人以上の人命が喪われる
・8月8日 福山大空襲で福山城が消失する(焼失家屋数10,179戸、被災者数47,326人、死者354人)
・8月9日 B29が長崎にも原子爆弾を投下し、市街地は廃墟と化し、8万人弱の人命が喪われる
・8月14日 御前会議で「ポツダム宣言」の受諾を決定する
・8月15日 正午に戦争終結の詔書が放送(玉音放送)され、太平洋戦争に敗れる
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 今日は、明治時代前期の1875年(明治8)に、「新聞紙条例」と「讒謗律」が発布された日です。
 これらは、明治政府が最初に言論・出版の自由を規制した法令で、自由民権運動の抑圧を意図したものでした。これによって、新聞、雑誌の発行には公的機関の許可が必要となり、政府の施策を批判した記事の筆者が処罰されたりして、自由民権運動に大きな影響を与えます。

〇「新聞紙条例」とは?

 明治時代前期の1875年(明治8)6月28日に、太政官布告された言論・出版の自由を規制した法令で、讒謗律と共に制定されました。全16条からなり、新聞発行許可制をとり(1887年より届出制)、外国人が新聞の持主・社主・編集人になることを禁じ、犯罪の教唆扇動、政府変壊ね国家転覆、成法誹毀などには初めて厳しい刑罰規定が設けられ、上書・建白書の掲載も許可制としました。
 その後何度か改正され、発行保証金制度、行政権による発行禁止・停止権、新聞紙差押え権などの新設・拡大によって新聞弾圧の意図をますます深めたのです。
 しかし、新聞界の反対もあり、一定の自由化を示す改正も行なわれたものの、根本的改正をみないまま、1909年(明治42)に新聞紙法に引き継がれ、この条例は廃止となりました。

☆「新聞紙条例」(全文) 1875年(明治8)6月28日公布 全16条

 第一条

凡ソ新聞紙及時々ニ刷出スル雑誌・雑報ヲ発行セントスル者ハ、持主若クハ社主ヨリ其ノ府県庁ヲ経由シテ願書ヲ内務省ニ捧ケ允准ヲ得ヘシ、允准ヲ得ズシテ発行スル者ハ法司ニ付シ罪ヲ論シ〈凡ソ条例ニ違フ者ハ府県庁ヨリ地方ノ法司ニ付シ罪ヲ論ス〉、発行ヲ禁止シ、持主若クハ社主及編輯人・印刷人各々罰金百円ヲ科ス、其ノ詐テ官准ノ名ヲ冒ス者ハ各々罰金百円以上二百円以下ヲ科シ、更ニ印刷器ヲ没入ス

 第二条

願書ニ挙クヘキノ目左ノ如シ
 一 紙若クハ書ノ題号
 二 刷行ノ定期〈毎日・毎週・毎月或ハ無定期ノ類〉
 三 持主ノ姓名・住所、○会社ナレハ差金人ヲ除クノ外社主一人若クハ数人ノ姓名・住所
 四 編輯人ノ姓名・住所、○編輯人数人アル者ハ編輯人長一人ノ姓名・住所
 五 印刷人ノ姓名・住所、○編輯人自ラ印刷人ヲ兼ル者ハ其由ヲ著ス
右ノ五目中、詐謬アル者ハ発行ヲ禁止若クハ停止シ〈時日ヲ限リ発行ヲ止ムル者ヲ停止トス〉、仍ホ願人ニ向テ十円以上百円以下ノ罰金ヲ科ス

 第三条

編輯人若クハ編輯人長退任シ若クハ死去スル時ハ仮ニ編輯人若クハ編輯人長ヲ定メ刷行スルコトヲ得、但シ遅クトモ十五日内ニ〈退任ノ翌日ヨリ起算ス〉新定セル編輯人若クハ編輯人長ノ姓名・住所ヲ持主若クハ社主ヨリ其府県庁ニ届ケ出ヘシ、若シ期内届ケ出サル時ハ発行ヲ停止シ、持主若クハ社主罰金百円ヲ科ス
其他第二条願書ニ載スヘキノ目ニ於テ一ノ変更アル時ハ、遅クトモ十五日内ニ持主若クハ社主及編輯人若クハ編輯人長ノ連名ヲ以テ届ケ出ヘシ、若シ期内ニ届ケ出サル時ハ、持主若クハ社主及編輯人若クハ編輯人長各々罰金百円ヲ科ス

 第四条

持主若クハ社主及編輯人若クハ仮ノ編輯人タル者ハ内国人ニ限ルヘシ

 第五条

持主若クハ社主自ヲ編輯人若クハ編輯人長タルコトヲ得

 第六条

編輯人二人以上アル者ハ、其一人ヲ撰テ編輯人長トスベシ
毎紙・毎巻ノ尾ニ、編輯人、印刷人名ヲ署シ、編輯人数人アル者ハ、編輯人長、名ヲ署シ編輯人若クハ編輯人長、疾病事故アル時ハ、代理人ヲ定メ其名署スヘシ、若シ名ヲ署セザル時ハ、編輯人若クハ編輯人長、若クハ代理人罰金百円以上五百円以下ヲ料シ、印刷人罰金百円ヲ料ス
紙中若クハ巻中載スル所ノ事ニ付テハ、紙尾署名ノ編輯人若クハ編輯人長一切責ニ任スベシ

 第七条

紙中若クハ巻中載スル所、第十二条以下ノ禁ヲ犯シ若クハ讒謗律ヲ犯シタル時ハ、編輯人、首ヲ以テ論シ、筆者ハ従ヲ以テ論ス、持主若クハ社主情ヲ知ル者ハ、編輯署名ノ人ト同ク論ス

 第八条

新聞紙及雑誌・雑報ノ筆者ハ〈投書者ハ筆者ヲ以テ例ス〉尋常ノ瑣事ヲ除クノ外凡ソ内外国事、理財、人情、時態、学術、法教、議論、及事、官民ノ権利ニ係ル者ハ皆其ノ姓名・住所ヲ著スヘシ
筆者、変名ヲ用ヒタル時ハ、禁獄三十日罰金十円ヲ料ス、他人ノ名ヲ仮托スル者ハ、禁獄七十日罰金二十円ヲ料ス〈二罰并セ料シ或ハ偏ヘニ一罰ヲ料ス以下之ニ倣へ〉

 第九条

外国新聞紙及雑誌・雑報ヲ翻訳シテ記入スル者ハ、尋常ノ瑣事ヲ除クノ外訳者名ヲ署シ、其事第十二条以下ノ禁ヲ犯シ若クハ新タニ編輯人ヲ定メテ仍ホ発行スル¬ヲ得、其ノ編輯人ヲ定メスシテ発行スル者ハ、発行ヲ停止スヘシ

 第十条

事犯、編輯人ニ止リ、禁獄ヲ命シタル時ハ、特ニ発行ヲ停止シタル時ヲ除クノ外、持主若クハ社主ヨリ、仮ニ編輯人ヲ定メ、若クハ新タニ編輯人ヲ定メテ仍ホ発行スルコトヲ得、其ノ編輯人ヲ定メスシテ発行スル者ハ、発行ヲ停止スヘシ

 第十一条

新聞紙若クハ雑誌・雑報ニ指名サレタル官署・会社、人民ヨリ弁白書、若クハ改正ヲ求ムルノ書ヲ寄スルトキハ、其書ヲ受取リシヨリ直チニ其次号ニ刷出スヘシ、違フ者ハ編輯人罰金十円以上百円以下ヲ科ス

 第十二条 

新聞紙若クハ雑誌・雑報ニ於テ人ヲ教唆シテ罪ヲ犯サシメタル者ハ、犯ス者ト同罪、其教唆ニ止マル者ハ、禁獄五日以上三年以下、罰金十円以上五百円以下ヲ科ス
其教唆シテ兇衆ヲ煽起シ或ハ官ニ強逼セシメタル者ハ、犯ス者ノ首ト同ク論ス、其教唆ニ止マル者ハ罪前ニ同シ

 第十三条 

政府ヲ変壊シ国家ヲ顛覆すスルノ論ヲ載セ騒乱ヲ煽起セントスル者ハ、禁獄一年以上三年ニ至ル迄ヲ科ス、其実犯ニ至ル者ハ首犯ト同ク論ス

 第十四条 

成法ヲ誹毀シテ国民法ニ遵フノ義ヲ乱リ及顕ハニ刑律ニ触レタルノ罪犯ヲ曲庇スルノ論ヲ為ス者ハ、禁獄一月以上一年以下、罰金五円以上百円以下ヲ科ス

 第十五条

裁判所ノ断獄、下調ニ係リ未タ公判ニ付セザル者を載スルコトヲ得ズ、及裁判官審判ノ議事ヲ載スルコトヲ得ス、犯ス者ハ禁獄一月以上一年以下罰金百円以上五百円以下ヲ科ス

 第十六条

院省使庁ノ許可ヲ経ズシテ上書建白ヲ載スルコトヲ得ス、犯ス者ハ罰前条ニ同シ

 附則

此ノ条例布告ノ前ニ己ニ允准ヲ得テ発行セル新聞紙・雑誌・雑報ハ、新タニ願書ヲ捧クルニ及ハス、但シ府県庁ヲ経由シテ内務省ニ届クル爲ニ此ノ布告ヲ承ルヨリ第十日迄ニ〈布告ヲ承ルノ翌日ヨリ起算ス〉府県庁ニ向テ第二条五目ノ届書ヲ捧クヘシ、第十日ヲ過テ届書ヲ捧ケザル者ハ府県庁ヨリ発行ヲ止ムベシ、其ノ更ニ願ヒ出ル者ハ第一条ニ依ルヘシ
従前編輯人数人アリテ編輯人長ナキ者ハ、条例布告ヲ承ルヨリ第二日迄ニ〈布告ヲ承ルノ翌日ヨリ起算ス〉編輯人長ヲ定メ若クハ仮ニ定ムヘシ、第二日ヲ過テ刷行シタル紙若クハ書ニ、編輯人長ノ署名ナキトキハ、府県庁ヨリ発行ヲ止ムベシ、其ノ更ニ願ヒ出ル者ハ前ニ同シ

  「法令全書」より

〇「讒謗律」とは?

 明治時代前期の1875年(明治8)6月28日に、太政官布告された言論・出版の自由を規制した法令で、新聞紙条例と共に制定されました。
 明文規定を欠くため、1880年(明治13)、別に集会条例が制定されることになり、1882年(明治15)の旧刑法の施行とともに廃止されたのです。
 全8条からなり、著作・文書・画面・肖像を用い、展観・発売・貼示して、他人の名誉を害するようなことを公表したり、事実をあげずに悪名を流したりすることを取り締まり、その対象 (天皇、皇族、官吏、華族・士族・平民) によって、禁獄・罰金の刑に処するものでした。
 これによって、政府の施策を批判した記事の筆者が処罰されることになり、言論・出版を統制したのです。

☆「讒謗律」(全文) 1875年(明治8)6月28日公布 全8条 

 第一条 凡ソ事実ノ有無ヲ論セス人ノ栄誉ヲ害スヘキ行事ヲ摘発公布スル者、之を讒毀トス。人ノ行事ヲ挙ルニ非スシテ悪名ヲ以テ人ニ加ヘ公布スル者、之ヲ誹謗トス。著作文書若クハ画図肖像ヲ用ヒ展観シ若クハ発売シ若 クハ貼示シテ、人ヲ謗毀シ若クハ誹謗スル者ハ下ノ条例ニ従テ罪ヲ科ス。

第二条 第一条ノ所為ヲ以テ乗輿ヲ犯スニ渉ル者ハ、禁獄三月以上三年以下、罰金五十円以上千円以下〈二罰并セ科シ或ハ偏ヘニ一罰ヲ科ス。以下之ニ倣ヘ〉。

第三条 皇族ヲ犯スニ渉ル者ハ、禁獄十五日以上二年半以下、罰金十五円以上七百円以下。

第四条 官吏ノ職務ニ関シ讒毀スル者は、禁獄十日以上二年以下、罰金十円以上五百円以下、誹謗スル者ハ、禁獄五日以上一年以下、罰金五円以上三百円以下。

第五条 家士族平民ニ對スルヲ論セス讒毀スル者ハ、禁獄七日以上一年半以下、罰金五円以上三百円以下、誹謗スル者ハ、罰金三円以上百円以下。

第六条 法ニ依リ検官若クハ法官ニ向テ罪犯ヲ告発シ若クハ証スル者ハ、第一条ノ例ニアラス其ノ故造誣告シタル者ハ誣告律ニ依ル。

第七条 若シ讒毀ヲ受ルノ事刑法ニ触ルゝ者検官ヨリ其事ヲ糾治スルカ若クハ讒毀スル者ヨリ検官若クハ法官ニ告発シタル時ハ讒毀ノ罪ヲ治ル事ヲ中止シ、以テ事案ノ決ヲ俟チ其ノ被告人罪ニ坐スル時ハ讒毀ノ罪ヲ論セス。
若シ事刑法ニ触レスノ單ヘニ人ノ栄誉ヲ害スル者ハ、讒毀スルノ後官ニ告発スト雖モ仍ホ讒毀ノ罪ヲ治ム。

第八条 凡ソ讒毀誹謗ノ第四条第五条ニ係ル者ハ、被害ノ官民自ラ告グルヲ待テ乃チ論ス。
                      「法令全書」より

☆自由民権運動関係略年表

<1874年(明治7)>
・1月12日 板垣退助らが愛国公党を結成する  
・1月17日 板垣退助らが「民撰議院設立の建白書」を提出する
・2月1日 江藤新平が佐賀で乱を起こす(佐賀の乱)
・4月 板垣退助らが立志社を設立する
<1875年(明治8)>
・5月7日 「樺太・千島交換条約」が結ばれる 
・6月28日 「讒謗律」・「新聞紙条例」が制定される
<1876年(明治9)>
・2月26日 「日朝修好条規」が締結される
<1877年(明治10)>
・2月15日 西南戦争が起きる
・6月9日 「立志社建白」を京都の行在所に提出する
・8月18日 立志社の片岡健吉らが逮捕される(高知の獄)
<1878年(明治11)>
・5月14日 大久保利通が暗殺される
<1879年(明治12)>
・3月27日 琉球処分が行われ、琉球藩を沖縄県とする
<1880年(明治13)>
・3月15日 国会期成同盟が結成される   
・4月5日 「集会条例」を定めて、言論や集会を取りしまる
このころから、自由民権運動が高揚しはじめる
<1881年(明治14)>
・7月 「北海道開拓使官有物払下げ事件」が起こる  
・9月 立志社が「日本憲法見込案」を出す
・10月11日 明治十四年の政変で、大隈重信らが罷免される
・10月12日 「国会開設の勅諭」が出される
・10月18日 板垣退助らが自由党を結成する
このころ、憲法制定論議が活発化し、各種の私擬憲法がつくられる
<1882年(明治15)>
・3月 伊藤博文ら、憲法調査のためヨーロッパへ行く
・4月16日 大隈重信らが立憲改進党を結成する
・11月28日 福島事件(福島県)が起こる
<1883年(明治16)>
・3月20日 高田事件(新潟県)が起こる
・3月20日 立志社が解散する 
<1884年(明治17)>
・5月 群馬事件(群馬県)が起こる
・9月23日 加波山事件(栃木・茨城県)が起こる
・10月29日 自由党が解党する
・10月31日 秩父事件(埼玉県)が起こる
・12月 名古屋事件(愛知県)が起こる
・12月 飯田事件(長野県)が起こる
<1885年(明治18)>
・11月 大阪事件(大阪府)が起こる
<1886年(明治19)>
・6月 静岡事件(静岡県)が起こる

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 今日は、安土桃山時代の1582年(天正10)に、織田信長の後継を決めるための清洲会議が開催された日ですが、新暦では7月16日となります。
 これは、本能寺の変後、山崎の合戦を経て、織田氏諸将が尾張の清洲城(愛知県清須市)に集まって、織田家の跡目や遺領の配分を決めることを目的に行った会議でした。
 集まった織田家家臣は、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で、滝川一益は関東地方へ出陣中で欠席したとされています。織田信長の次男信雄と三男信孝が後継争いをしましたが、羽柴秀吉の強い主張で長男信忠の遺児三法師が後継者と決まりました。
 この会議の結果、柴田勝家の影響力が落ちて、羽柴秀吉の影響力が増し、織田家内部の勢力地図が替わることになります。その後、両者の対立が深まり、翌年の賤ヶ岳の戦いにつながりました。

<清洲会議での主な領地再分配>
・嫡孫(新領主)・三法師は近江国坂田郡と安土城
・次男・信雄は尾張国
・三男・信孝は美濃国
・四男・柴秀勝(秀吉の養子)は丹波国
・柴田勝家は越前国を安堵の上で、長浜城(柴田勝豊に)と北近江3郡の割譲
・丹羽長秀は若狭国を安堵の上で、近江国の2郡加増
・池田恒興は摂津国から3郡加増
・羽柴秀吉は河内国と山城国が増領

〇本能寺の変とは?

 安土桃山時代の1582年(天正10年6月2日)に、京都の本能寺において、織田信長が明智光秀に攻められ、自刃した事件です。これは、羽柴(豊臣)秀吉の毛利攻め救援に出陣するため、京都・本能寺に宿泊していた織田信長が、家臣明智光秀の謀反によって襲撃されたものでした。
 光秀は、中国征伐を支援するため出陣を命ぜられたので丹波亀山城において軍容を整え、6月1日夜出発しましたが、京都へ進路を変え、翌日黎明に本能寺の織田信長と妙覚寺の長男信忠を襲います。
 それによって、信長は本能寺で火を放って自刃、信忠は二条御新造に退いて戦ったものの、やはり館に火を放って自刃しました。
 その後、備中高松城(現在の岡山県岡山市北区)で毛利氏と対陣していた羽柴秀吉は、信長の訃報を知ると急遽和議を結んで、予想以上に早く機内に戻り(中国大返し)、6月13日の山崎の戦いで明智光秀との合戦に及びます。
 その結果光秀が敗れ、近江坂本城への逃走の途中、小栗栖(おぐるす)において、光秀は落ち武者狩りの農民に殺害されました。

〇賤ヶ岳の戦いとは?

 安土桃山時代の1583年(天正11)に、北近江の賤ヶ岳(現在の滋賀県長浜市)を中心に行われた羽柴秀吉と柴田勝家との戦いでした。
 本能寺の変後、織田氏の後継者を決める清須会議で羽柴秀吉と柴田勝家が対立します。その両者が、織田勢力を二分する激しい戦いを繰り広げることとなりました。
 1583年(天正11)3月12日、柴田勝家は佐久間盛政、前田利家らと約3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、布陣を完了します。
 一方、羽柴秀吉は、3月19日に約5万の兵力を率いて木ノ本に布陣しましたが、しばらく膠着状態が続きました。4月16日に、一度は羽柴秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の滝川一益と結び再び挙兵、岐阜城下へ進出したので、翌日に羽柴秀吉は美濃に進軍し大垣城に入ります。
 これを好機ととらえた、佐久間盛政軍が4月19日に秀吉方の大岩山砦を攻撃し、守将の中川清秀は討死し、賤ヶ岳砦の守将桑山重晴も撤退を開始しました。
 しかし、岐阜城から羽柴秀吉が急遽駆けつけ(美濃の大返し)、4月21日早朝に佐久間盛政軍を追って賤ヶ岳で撃破、昼頃柴田勝家軍を攻め、越前に敗走させます。
 この時に、秀吉方で功名をあげた兵のうち7人(脇坂安治、桐且元、平野長泰、福島正則、加藤清正、糟屋武則、加藤嘉明)が後世に賤ヶ岳の七本槍と呼ばれるようになりました。
 その後、羽柴秀吉軍は長途、柴田勝家の後を追い、居城である越前北ノ庄城を攻め、とうとう、4月24日に柴田勝家を自害させます。
 この賤ヶ岳の戦いで、羽柴秀吉が勝利することによって、その立場を確固たるものにし、天下統一へと向かっていくことになりました。

〇清州会議関係略年表(本能寺の変から滝川一益降伏まで) 日付は旧暦です

<1582年(天正10)>
・6月2日 京都の本能寺において、織田信長と嫡子信忠が明智光秀に攻められ、自刃する(本能寺の変)
・6月13日 山崎の戦いで羽柴秀吉と明智光秀が戦い、光秀が敗れ、近江坂本城へ敗走中に農民に殺される
・6月27日 尾張の清州城で織田家の跡目や遺領の配分を決める会議が行われる(清州会議)
・10月11日~15日 大徳寺で織田信長の葬儀(喪主:羽柴秀勝)が挙行される
・10月16日 柴田勝家は堀秀政に覚書を送り、秀吉の清洲会議の誓約違反、不当な領地再分配等を非難する
・12月2日 羽柴秀吉は、和睦を反故にして近江に出兵、長浜城を攻撃する
・12月18日 約3万の兵力の羽柴秀吉軍が美濃国へ入る
・12月20日 羽柴秀吉軍に包囲された岐阜城の織田信孝が降伏する
・12月 柴田勝家の甥の勝豊が守る近江の長浜城が、羽柴秀吉に降伏する

<1583年(天正11)>
・1月1日 伊勢の滝川一益が柴田勝家への旗幟を鮮明にして挙兵する
・2月20日 羽柴秀吉軍が一益方の伊勢の国府城を落城させる
・3月3日 羽柴秀吉軍が一益方の伊勢の亀山城を落城させる
・3月12日 柴田勝家は佐久間盛政、前田利家らと約3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し布陣を完了する
・3月19日 羽柴秀吉は約5万の兵力を率いて木ノ本に布陣する
・3月27日 羽柴秀吉は一部の軍勢を率いて長浜城へ帰還し、伊勢と近江の2方面に備える
・4月12日 羽柴秀吉軍が一益方の伊勢の峯城を落城させる
・4月16日 一度は羽柴秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の滝川一益と結び再び挙兵、岐阜城下へ進出する
・4月17日 羽柴秀吉は美濃に進軍し大垣城に入る
・4月19日 佐久間盛政軍が秀吉方の大岩山砦を攻撃し、守将の中川清秀は討死する
・4月20日 劣勢と判断した賤ヶ岳砦の守将桑山重晴も撤退を開始するが、岐阜城から羽柴秀吉が木之本に駆けつける
・4月21日 羽柴秀吉軍が、早朝に佐久間盛政軍を追って賤ヶ岳で撃破、昼頃柴田勝家を攻め、越前に敗走させる(賤ヶ岳の戦い)
・4月23日 羽柴秀吉軍は長途、柴田勝家の後を追い、居城である越前北ノ庄城を攻める
・4月24日 越前北ノ庄城で柴田勝家が自害する
・5月2日(4月29日説あり) 尾張国知多郡内海で織田信孝が自害する
・7月 滝川一益が北伊勢5郡を秀吉に差し出して降伏する
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 今日は、1945年(昭和20)に、「国際連合憲章」に52ヶ国が署名した日です。
 これは、1945年(昭和20)4月25日~6月26日に、サンフランシスコで開催された「国際機構に関する連合国会議」で作成・調印され、同年10月24日に発効した国際連合の設立条約でした。
 国連の目的・原則・組織・機能など基本的な事項を定めたもので、前文および19章111条からなり、主要機関は、総会、安全保障理事会、経済社会理事会、信託統治理事会、国際司法裁判所、事務局の6機関です。
 第二次世界大戦における連合国の協力を基礎として、戦後の平和維持の理想を実現し、また以前の「国際連盟」の失敗の教訓に学んで、世界平和機構の設立を目的とするものでした。
 国連憲章の改正には総会構成国の3分の2の多数による採択と、さらに安保理の5常任理事国を含む加盟国の3分の2の批准が必要で、これまで、安全保障理事会と経済社会理事会の理事国増員に関してのみ、計3回の改正が行われています。
 正文は発足当初の国連公用語である英語、フランス語、ロシア語、中国語、スペイン語の5カ国語により作成されました。
 尚、日本の国際連合加盟については、1952年(昭和27)6月23日に申請を行なったものの、米ソ対立の激化の中で、ソ連の拒否権発動で実現せず、日ソ国交正常化交渉の成立後の1956年(昭和31)12月18日に加盟が承認されることになります。

〇「国際連合憲章」日本語公定訳(抄文)

われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互いに平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、
すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。よって、われらの各自の政府は、サン・フランシスコ市に会合し、全権委任状を示してそれが良好妥当であると認められた代表者を通じて、この国際連合憲章に同意したので、ここに国際連合という国際機構を設ける。

第1条

国際連合の目的は、次のとおりである。
1.国際の平和及び安全を維持すること。そのために、平和に対する脅威の防止及び除去と侵略行為その他の平和の破壊の鎮圧とのため有効な集団的措置をとること並びに平和を破壊するに至る虞のある国際的の紛争又は事態の調整または解決を平和的手段によって且つ正義及び国際法の原則に従って実現すること。
2.人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係を発展させること並びに世界平和を強化するために他の適当な措置をとること。
3.経済的、社会的、文化的または人道的性質を有する国際問題を解決することについて、並びに人種、性、言語または宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励することについて、国際協力を達成すること。
4.これらの共通の目的の達成に当たって諸国の行動を調和するための中心となること。

第2条

この機構及びその加盟国は、第1条に掲げる目的を達成するに当っては、次の原則に従って行動しなければならない。
1.この機構は、そのすべての加盟国の主権平等の原則に基礎をおいている。
2.すべての加盟国は、加盟国の地位から生ずる権利及び利益を加盟国のすべてに保障するために、この憲章に従って負っている義務を誠実に履行しなければならない。
3.すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない。
4.すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。
5.すべての加盟国は、国際連合がこの憲章に従ってとるいかなる行動についても国際連合にあらゆる援助を与え、且つ、国際連合の防止行動又は強制行動の対象となっているいかなる国に対しても援助の供与を慎まなければならない。
6.この機構は、国際連合加盟国ではない国が、国際の平和及び安全の維持に必要な限り、これらの原則に従って行動することを確保しなければならない。
7.この憲章のいかなる規定も、本質上いずれかの国の国内管轄権内にある事項に干渉する権限を国際連合に与えるものではなく、また、その事項をこの憲章に基く解決に付託することを加盟国に要求するものでもない。但し、この原則は、第7章に基く強制措置の適用を妨げるものではない。

第2章 加盟国の地位

第3条

国際連合の原加盟国とは、サン・フランシスコにおける国際機構に関する連合国会議に参加した国又はさきに1942年1月1日の連合国宣言に署名した国で、この憲章に署名し、且つ、第110条に従ってこれを批准するものをいう。

第4条
1.国際連合における加盟国の地位は、この憲章に掲げる義務を受託し、且つ、この機構によってこの義務を履行する能力及び意思があると認められる他のすべての平和愛好国に開放されている。
2.前記の国が国際連合加盟国となることの承認は、安全保障理事会の勧告に基いて、総会の決定によって行われる。

第5条

安全保障理事会の防止行動または強制行動の対象となった国際連合加盟国に対しては、総会が、安全保障理事会の勧告に基づいて、加盟国としての権利及び特権の行使を停止することができる。これらの権利及び特権の行使は、安全保障理事会が回復することができる。

第6条

この憲章に掲げる原則に執拗に違反した国際連合加盟国は、総会が、安全保障理事会の勧告に基いて、この機構から除名することができる。

第3章 機関

第7条
1.国際連合の主要機関として、総会、安全保障理事会、経済社会理事会、信託統治理事会、国際司法裁判所及び事務局を設ける。
2.必要と認められる補助機関は、この憲章に従って設けることができる。

第8条

国際連合は、その主要機関及び補助機関に男女がいかなる地位にも平等の条件で参加する資格があることについて、いかなる制限も設けてはならない。

第4章 総会

【構成】

第9条
1.総会は、すべての国際連合加盟国で構成する。
2.各加盟国は、総会において5人以下の代表者を有するものとする。

【任務及び権限】

第10条

総会は、この憲章の範囲内にある問題若しくは事項又はこの憲章に規定する機関の権限及び任務に関する問題若しくは事項を討議し、並びに、第12条に規定する場合を除く外、このような問題又は事項について国際連合加盟国若しくは安全保障理事会又はこの両者に対して勧告をすることができる。

第11条
1.総会は、国際の平和及び安全の維持についての協力に関する一般原則を、軍備縮小及び軍備規制を律する原則も含めて、審議し、並びにこのような原則について加盟国若しくは安全保障理事会又はこの両者に対して勧告をすることができる。
2.総会は、国際連合加盟国若しくは安全保障理事会によって、又は第35条2に従い国際連合加盟国でない国によって総会に付託される国際の平和及び安全の維持に関するいかなる問題も討議し、並びに、第12条に規定する場合を除く外、このような問題について、1若しくは2以上の関係国又は安全保障理事会あるいはこの両者に対して勧告をすることができる。このような問題で行動を必要とするものは、討議の前または後に、総会によって安全保障理事会に付託されなければならない。
3.総会は、国際の平和及び安全を危くする虞のある事態について、安全保障理事会の注意を促すことができる。
4.本条に掲げる総会の権限は、第10条の一般的範囲を制限するものではない。

第12条
1.安全保障理事会がこの憲章によって与えられた任務をいずれかの紛争または事態について遂行している間は、総会は、安全保障理事会が要請しない限り、この紛争又は事態について、いかなる勧告もしてはならない。
2.事務総長は、国際の平和及び安全の維持に関する事項で安全保障理事会が取り扱っているものを、その同意を得て、会期ごとに総会に対して通告しなければならない。事務総長は、安全保障理事会がその事項を取り扱うことをやめた場合にも、直ちに、総会又は、総会が開会中でないときは、国際連合加盟国に対して同様に通告しなければならない。

第13条
1.総会は、次の目的のために研究を発議し、及び勧告をする。 a.政治的分野において国際協力を促進すること並びに国際法の斬新的発達及び法典化を奨励すること。
b.経済的、社会的、文化的、教育的及び保健的分野において国際協力を促進すること並びに人種、性、言語又は宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を実現するように援助すること。

2.前記の1bに掲げる事項に関する総会の他の責任、任務及び権限は、第9章及び第10章に掲げる。

第14条

第12条の規定を留保して、総会は、起因にかかわりなく、一般的福祉または諸国間の友好関係を害する虞があると認めるいかなる事態についても、これを平和的に調整するための措置を勧告することができる。この事態には、国際連合の目的及び原則を定めるこの憲章の規定の違反から生ずる事態が含まれる。

第15条
1.総会は、安全保障理事会から年次報告及び特別報告を受け、これを審議する。この報告は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を維持するために決定し、又はとった措置の説明を含まなければならない。
2.総会は、国際連合の他の機関から報告を受け、これを審議する。

第16条

総会は、第12章及び第13章に基いて与えられる国際信託統治制度に関する任務を遂行する。この任務には、戦略地区として指定されない地区に関する信託統治協定の承認が含まれる。

第17条
1.総会は、この機構の予算を審議し、且つ、承認する。
2.この機構の経費は、総会によって割り当てられるところに従って、加盟国が負担する。
3.総会は、第57条に掲げる専門機関との財政上及び予算上の取極を審議し、且つ、承認し、並びに、当該専門機関に勧告をする目的で、この専門機関の行政的予算を検査する。

(以下略)

     「国際連合広報センターホームページ」より
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