この事故は、北海道炭礦汽船(北炭)が経営する北上坑で起きたガス爆発事故で、坑内の局部的なガス流出からガス爆発を誘発して全坑内に波及、さらに隣接する大新抗に及んだものでした。
坑口周辺の建物や設備は爆風のため破壊される激しさで、坑内からは1人の救出もなく、遺体を収容しないまま、坑内火災を消すため坑口の密閉がおこなわれます。
当時の夕張抗夫組合・夕張連合会は、抗議のしるしとして、末広共同墓地に「北上抗遭者之碑」を義援金で建立、碑の両面に未救出の犠牲者全員の名前を刻み込みました。
尚、1949年(昭和24)以降、夕張二新坑の掘進中に突き当たった古い坑道で、北上坑ガス爆発の犠牲者十数体の遺骨が発見されたとのことです。
〇北炭夕張炭鉱とは?
北海道夕張市北西部にあった北海道炭礦汽船(北炭)が経営する炭鉱でした。1874年(明治7)お雇い外国人のベンジャミン・スミス・ライマン(アメリカ人地質学者)が、夕張川上流に石炭層の存在を推定し、1888年(明治21)に坂市太郎がシホロカベツ川上流で石炭の大露頭を発見します。
翌年、堀基(もとい)により、北海道炭礦鉄道会社が発足、夕張採炭所創設され、1890年(明治23)から夕張炭鉱の開発に着手、第一鉱を開坑(以後第二鉱、第三鉱、清水沢鉱も開坑)しました。
2年後には採炭が開始され、追分駅~夕張駅間に鉄道も敷設されます。1896年(明治29)に北海道炭礦鉄道株式会社に社名変更、1906年(明治39)の「鉄道国有法」公布に伴い、北海道の幹線鉄道約200kmを国に売却し、北海道炭礦汽船株式会社となりました。
優良な鉄鋼コークス用原料炭を産出しましたが、1912年(明治45)4月に爆発事故(死者267人)を起こして以後、何度も爆発事故を起こし、多くの犠牲者も出しています。
1960年代の最盛期には、年間100~150万tの出炭量を誇りましたが、採炭条件の悪化などにより、1971年(昭和46)に第二鉱閉山、1973年(昭和48)に第一鉱閉山に追い込まれました。
しかし、1975年(昭和50)に、東部地区に開発された北炭夕張新炭鉱の営業出炭を開始して挽回しつつ、1977年(昭和52)北炭夕張新第二炭鉱が閉山します。
ところが、1981年(昭和56)10月16日に、夕張新鉱でのガス突出事故で死者93人を出す惨事を招いて経営が悪化、同年12月に「会社更生法」を申請して事実上倒産、この夕張新鉱も翌年10月に閉山して従業員約 2,000人全員が解雇されるに至りました。
炭鉱の跡は、現在では「石炭博物館」という文化施設となり、見学することが可能となっています。石炭と炭鉱のテーマに分け、石炭の生成から開発、利用など技術や労働、生活を実物の資料、坑道、石炭層などから紹介し、採炭現場の動態展示など石炭産業関連としては世界でも有数の博物館となりました。
〇北炭夕張炭鉱の主要な爆発事故
・1912年(明治45)4月29日 北炭夕張炭鉱(第二斜坑ほか)にて爆発事故で死者267人
・1912年(大正元)12月23日 北炭夕張炭鉱(第二斜坑ほか)にて爆発事故で死者216人
・1920年(大正9)6月14日 北炭夕張炭鉱(北上坑)にて爆発事故で死者209人
・1938年(昭和13)10月6日 北炭夕張炭鉱(天竜坑)にて爆発事故で死者161人
・1960年(昭和35)2月1日 北炭夕張炭鉱(第二鉱)にて爆発で死者42人
・1965年(昭和40) 北炭夕張炭鉱(第二鉱)にて爆発で死者62人
・1981年(昭和56)10月16日 夕張新鉱でのガス突出・爆発事故で死者93人