満蒙開拓青少年義勇軍は、日本内地の数え年16歳~19歳の青少年を開拓民(満蒙開拓団)として満州国等に送り出す制度でした。満州への移民は満州事変直後の1932年(昭和7)に第一次移民が送り出され、1936年(昭和11)には国策化されます。
しかし、成人男性の多くが軍に動員されるようになったため、1937年(昭和12)11月30日に「満州に対する青少年移民送出に関する件」が閣議決定され、「満州青年移民実施要項」が作られ、翌年1月から募集が開始されました。1939年(昭和14)6月7日には、満蒙開拓青少年義勇軍の壮行会・大行進が明治神宮外苑競技場で開催されて、国民にアッピールします。
これらは、茨城県の内原訓練所で2ヶ月、満州で3年間訓練され、警備隊も編制して軍事的性格も持ち、満州国の治安維持や国境警備をも受け持たされました。「国民精神総動員運動」の一翼を担い、「満蒙は日本の生命線」の掛け声の下で、全国で約8万人の青少年が満州や内モンゴルなどに渡ったと言われています。
特に、戦争末期には満蒙開拓団の主力となりましたが、ソ連の参戦により壊滅的な打撃を受け、多くの犠牲者を出しました。
〇満蒙開拓団とは?
1931年(昭和6)の満州事変以後、1945年(昭和20)の太平洋戦争敗戦まで、「満州国」(中国東北部)や内モンゴル地区に、国策として送り込まれた農業移民団のことで、集団で開拓にあたりました。
1932年(昭和7)に第一次移民が送り出され、1936年(昭和11)には生産の担い手として計100万戸の農家を送る計画が決定、移民は武装し組織的な軍事訓練を受け、治安維持や国境警備をも受け持たされたとされます。
太平洋戦争敗戦までに、約27万人が海を渡ったとされますが、ソ連軍侵攻後、関東軍は撤退して置き去りにされ、逃避行は悲惨を極め、約8万人の死者を出し、子供たちが取り残された中国残留孤児の悲劇も起きました。
尚、全国で最も多くの開拓団を送出したのが長野県南部地域で、長野県下伊那郡阿智村には、「満蒙開拓平和記念館」が作られ、歴史・資料の記録・保存・展示・研究が行われています。