藤森成吉は、明治時代後期の1892年(明治25)8月28日に、長野県諏訪郡上諏訪町(現在の諏訪市)の薬種商の長男として生まれました。
長野県立諏訪中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)卒業後、上京して第一高等学校へ入学し、ロシア文学の影響で文学を志すようになります。
卒業の年の夏、伊豆の大島に遊び、東京帝国大学文科大学独文科入学後、それを素材とした処女作の長編小説『波』(のち『若き日の悩み』と改題)を自費出版し、新進作家として認められました。
1916年(大正5)大学卒業後、岡倉由三郎の娘信子と結婚し、一時第六高等学校講師となりましたが半年で辞職し、1918年(大正7)に小説『山』で文壇に復帰しました。
この間、大杉栄の影響で日本社会主義同盟に関係し、1924年(大正13)には妻とともに労働生活を体験、翌年その記録『狼へ!』を発表します。
社会主義に傾倒していき、戯曲『磔茂左衛門』、『犠牲』(1926年)を発表し、翌年の戯曲『何が彼女をさうさせたか』は、鈴木重吉監督により映画化され、好評を博して、代表的なプロレタリア作家の一人となりました。
『文芸戦線』の同人となり、1928年(昭和3)に、「全日本無産者芸術連盟」(ナップ)の初代委員長に就任、1930年(昭和5)に夫妻で渡欧し、ハリコフ会議(国際革命作家同盟第2回会議)に出席しています。
しかし、1933年(昭和8)に、治安維持法違反で検挙され、歴史小説への転向を余儀なくされて、歴史小説『渡辺崋山』(1935年)、戯曲『江戸城明渡し』(1938年)、『若き啄木』(1939年)、『大原幽学』(1940年)などを書きました。
太平洋戦争後は、再び左翼文学に返り咲き、新日本文学会の結成に参加、後、1950年(昭和25)には『人民文学』の発刊 に参画します。
その中で、民主的立場にたって数多くの著作を発表、一方句作も始めて、句集『蟬しぐれ』(1961年)、『天翔ける』(1972年)なども出しましたが、1977年(昭和52)5月26日に、交通事故がもとで神奈川県逗子市において、84歳で亡くなりました。
〇藤森成吉の主要な作品
・長編小説『波』(後に『若き日の悩み』と改題)(1914年)
・小説『雲雀』(1915年)
・小説『山』(1918年)
・短編集『新しい地』(1919年)
・短編小説『脱走者』(1923年)
・記録『狼(おおかみ)へ!』(1925年)
・戯曲『磔茂左衛門(はりつけもざえもん)』(1926年)
・戯曲『犠牲』(1926年)
・戯曲『何が彼女をさうさせたか』(1927年)
・歴史小説『渡辺崋山』(1935年)
・戯曲『江戸城明渡し』(1938年)
・戯曲『若き啄木』(1939年)
・戯曲『大原幽学』(1940年)
・戯曲『頼山陽』(1941年)
・句文集『山心』(1943年)
・戯曲『岡倉天心覚書』(1944年)
・童話集『ピオの話』(1948年)
・長編小説『悲しき愛』(1955年)
・句集『蟬しぐれ』(1961年)
・画人評伝『知られざる鬼才天才』(1965年)
・句集『天翔ける』(1972年)
・長編小説『独白の女』(1973年)
・俳句・短歌・詩を収めた『詩曼陀羅』(1976年)