ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2018年05月

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 今日は、昭和時代後期の1977年(昭和52)に、小説家・劇作家藤森成吉(ふじもり せいきち)の亡くなった日です。
 藤森成吉は、明治時代後期の1892年(明治25)8月28日に、長野県諏訪郡上諏訪町(現在の諏訪市)の薬種商の長男として生まれました。
 長野県立諏訪中学校(現在の長野県諏訪清陵高等学校)卒業後、上京して第一高等学校へ入学し、ロシア文学の影響で文学を志すようになります。
 卒業の年の夏、伊豆の大島に遊び、東京帝国大学文科大学独文科入学後、それを素材とした処女作の長編小説『波』(のち『若き日の悩み』と改題)を自費出版し、新進作家として認められました。
 1916年(大正5)大学卒業後、岡倉由三郎の娘信子と結婚し、一時第六高等学校講師となりましたが半年で辞職し、1918年(大正7)に小説『山』で文壇に復帰しました。
 この間、大杉栄の影響で日本社会主義同盟に関係し、1924年(大正13)には妻とともに労働生活を体験、翌年その記録『狼へ!』を発表します。
 社会主義に傾倒していき、戯曲『磔茂左衛門』、『犠牲』(1926年)を発表し、翌年の戯曲『何が彼女をさうさせたか』は、鈴木重吉監督により映画化され、好評を博して、代表的なプロレタリア作家の一人となりました。
 『文芸戦線』の同人となり、1928年(昭和3)に、「全日本無産者芸術連盟」(ナップ)の初代委員長に就任、1930年(昭和5)に夫妻で渡欧し、ハリコフ会議(国際革命作家同盟第2回会議)に出席しています。
 しかし、1933年(昭和8)に、治安維持法違反で検挙され、歴史小説への転向を余儀なくされて、歴史小説『渡辺崋山』(1935年)、戯曲『江戸城明渡し』(1938年)、『若き啄木』(1939年)、『大原幽学』(1940年)などを書きました。
 太平洋戦争後は、再び左翼文学に返り咲き、新日本文学会の結成に参加、後、1950年(昭和25)には『人民文学』の発刊 に参画します。
 その中で、民主的立場にたって数多くの著作を発表、一方句作も始めて、句集『蟬しぐれ』(1961年)、『天翔ける』(1972年)なども出しましたが、1977年(昭和52)5月26日に、交通事故がもとで神奈川県逗子市において、84歳で亡くなりました。

〇藤森成吉の主要な作品

・長編小説『波』(後に『若き日の悩み』と改題)(1914年)
・小説『雲雀』(1915年)
・小説『山』(1918年)
・短編集『新しい地』(1919年)
・短編小説『脱走者』(1923年)
・記録『狼(おおかみ)へ!』(1925年)
・戯曲『磔茂左衛門(はりつけもざえもん)』(1926年)
・戯曲『犠牲』(1926年)
・戯曲『何が彼女をさうさせたか』(1927年)
・歴史小説『渡辺崋山』(1935年)
・戯曲『江戸城明渡し』(1938年)
・戯曲『若き啄木』(1939年)
・戯曲『大原幽学』(1940年)
・戯曲『頼山陽』(1941年)
・句文集『山心』(1943年)
・戯曲『岡倉天心覚書』(1944年)
・童話集『ピオの話』(1948年)
・長編小説『悲しき愛』(1955年)
・句集『蟬しぐれ』(1961年)
・画人評伝『知られざる鬼才天才』(1965年)
・句集『天翔ける』(1972年)
・長編小説『独白の女』(1973年)
・俳句・短歌・詩を収めた『詩曼陀羅』(1976年)
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 今日は、南北朝時代の1336年(延元元/建武3)に、湊川の戦いで足利尊氏が楠木正成を破り、正成は一族と共に自害した日ですが、新暦では7月4日となります。
 湊川の戦いは、摂津国湊川(現在の兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、南朝方の新田義貞・楠木正成軍と北朝方の足利尊氏・足利直義軍との間で戦われた合戦でした。
 同年1月に京都を駆逐されて、翌月九州に敗走した足利尊氏・直義が、4月に大軍を集めて博多を発して東上してきます。後醍醐天皇は勅命で新田義貞・楠木正成に迎撃を命じ、新田義貞は和田岬に、楠木正成はその西の湊川に布陣しました。
 そして、足利尊氏軍の先発として細川軍が和田岬に上陸し、5月25日に戦いが開始され、その結果、新田勢は京都に向かって敗走し、楠木正成は奮戦のすえ一族・配下とともに自刃します。
 その後、足利軍は京都へ入り、建武新政府は崩壊、足利尊氏は、やがて光明院を擁立して、室町幕府を開き、後醍醐天皇は、吉野へ移って、南北朝時代が開始されることとなりました。
 現地には、楠木正成の墓があったのですが、1692年(元禄5)に徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立して、世に知られるようになります。幕末になって、尊王論が高揚してくると、楠木正成の顕彰が盛んになり、1872年(明治5)、明治政府によって湊川神社が創建されることになりました。
 境内には、殉節地や御墓所などがあって国の史跡になっていますし、宝物殿には、楠木正成着用と伝える段縅腹巻一領(国重要文化財)、1335年(建武2)大楠公自筆の法華経奥書一幅(国重要文化財)などがあります。

〇南北朝関係略年表(日付は旧暦です)

・1333年(元弘3/正慶2)5月 鎌倉幕府が滅亡する
・1334年(建武元)1月 建武の新政が行われる
・1335年(建武2)7月 関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定する
・1335年(建武2)10月 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて挙兵する
 ※南北朝の対立が始まる
・1336年(延元元/建武3)5月 湊川の戦い(○足利軍×●新田・楠木軍)
・1336年(延元元/建武3)8月 光明天皇が擁立される
・1336年(延元元/建武3)11月 足利尊氏により「建武式目」が制定される
・1336年(延元元/建武3)12月 後醍醐天皇が吉野へ逃れる
・1337年(延元2/建武4)3月 足利尊氏が高師泰に越前金ヶ崎城を攻略させる
・1338年(延元3/暦応元)5月 足利尊氏が北畠顕家を堺の石津浜に敗死さる
・1338年(延元3/暦応元)閏7月 足利尊氏が新田義貞を越前藤島で戦死させる
・1338年(延元3/暦応元)8月 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開く
・1339年(延元4/暦応2)8月 後醍醐天皇が亡くなる
・1341年(延元6/興国2) 足利尊氏が天竜寺船を元に送る
・1348年(正平3/貞和4)1月 四条畷の戦い(○高軍×●楠木軍)
・1349年(正平4/貞和5)9月 足利尊氏が関東管領をおき、足利基氏をこれに任じる
 ※このころ倭寇が中国の沿岸を荒らす
・1350年(正平5/観応元)10月 足利直義・直冬が足利尊氏に叛旗を翻す(観応の擾乱(~52))
・1352年(正平7/観応3) 足利尊氏が鎌倉へ入り、直義を殺害する
・1352年(正平7/観応3)7月 観応半済令が出される
・1358年(正平13/延文3)4月 足利尊氏が亡くなる
・1358年(正平13/延文3)12月 足利義詮が室町幕府第2代将軍に就任する
・1361年(正平16/康安元) 南朝軍が入京する
・1362年(正平17/康安2) 幕府・北朝側が京都を奪還する
・1367年(正平22/貞治6) 足利義詮は死に臨み10歳の義満に家督を譲り、細川頼之を管領に任じて後を託す
・1368年(正平23/応安元) 応安半済令が出される
・1368年(正平23/応安元) 足利義満が室町幕府第3代将軍に就任する
・1371年(建徳2/応安4)以降 足利義満が今川了俊に九州を統一させる
・1378年(天授4/永和4) 室町に新邸(花の御所)を造営して移住する
・1379年(天授5/康暦元) 細川頼之に帰国が命じられ(康暦の政変)、斯波義将が管領となる
・1382年(弘和2/永徳2) 足利義満が左大臣となる
・1386年(元中3/至徳3) 足利義満が五山制度の大改革を断行、南禅寺を「五山の上」とする
・1390年(元中7/明徳元) 美濃の乱で土岐康行が鎮圧される
・1391年(元中8/明徳2) 明徳の乱で山名氏清が鎮圧される
・1392年(元中9/明徳3) 足利義満が南北朝の合一を実現する
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 今日は、江戸時代前期の1636年(寛永13)に、武将・仙台藩の藩祖伊達政宗の亡くなった日ですが、新暦では6月27日となります。
 伊達政宗は、安土桃山時代の1567年(永禄10年8月3日)に、出羽国米沢城(現在の山形県米沢市)で、伊達氏第16代当主・伊達輝宗の長子(母・最上義守の娘義姫)として生まれましたが、幼名を梵天丸といいました。
 幼少の頃に、右眼を失明し、後に「独眼竜」とも称されるようになります。1577年(天正5)に元服し藤次郎政宗と称し、1581年(天正9)には、隣接する戦国大名・相馬氏との合戦で初陣を飾りました。
 1584年(天正12)には家督を継ぎ、伊達氏の第17代当主となり、翌年父輝宗が二本松義継のために不慮の死をとげてからは、積極的に領土拡張に乗り出します。
 1588年(天正16)に佐竹義重、蘆名義広、相馬義胤らと対戦し、翌年には、磨上原(すりあげがはら)の戦で蘆名義広を破り、会津地方を制覇しました。その後も領土を拡張し、須賀川二階堂氏を滅ぼし、石川、白川両氏を服属させて、陸奥国、出羽国に及ぶ広大な地を勢力下に置きます。
 しかし、1590年(天正18)に小田原参陣に遅参、豊臣秀吉に降伏し、会津、岩瀬、安積郡などを没収され、黒川城(会津若松)から米沢城に移りました。さらに、翌年には米沢城72万石から、玉造郡岩手沢城58万石に減転封させられます。
 1593年(文禄2)に文禄の役で朝鮮へ出兵しますが、豊臣秀吉死没後の1600年(慶長5)の関ケ原の戦いでは、徳川家康方につき、会津の上杉景勝と戦いました。
 1603年(慶長8)に居城を仙台に移し、仙台藩62万石の基礎を築き、1613年(慶長18)には慶長遣欧使節をローマに派遣します。1614年・1615年(慶長19・20)の大坂の陣にも徳川方として参戦して、徳川秀忠、家光の信任を得ました。
 和歌、茶道、能楽に長じ能書家としても知られ、桃山文化を仙台に移したりしましたが、1636年(寛永13年5月24日)に、江戸桜田邸において、68歳で死去します。

〇伊達政宗関係略年表(日付は旧暦です)

・1567年(永禄10年8月3日) 出羽国米沢城で、伊達氏第16代当主・伊達輝宗の長子として生まれる
・1577年(天正5) 元服し藤次郎政宗と称する
・1579年(天正7) 三春城主田村清顕の娘愛姫(めごひめ)と結婚する
・1581年(天正9) 隣接する戦国大名・相馬氏との合戦で初陣を飾る
・1584年(天正12) 家督を継ぎ、伊達氏の第17代当主となる
・1585年(天正13) 父輝宗が二本松義継のために不慮の死をとげる
・1586年(天正14) 安達郡を入手する
・1588年(天正16) 佐竹義重、蘆名義広、相馬義胤らと対戦する
・1589年(天正17) 磨上原(すりあげがはら)の戦で蘆名義広を破り、会津地方を制覇する
・1590年(天正18) 小田原参陣に遅参、豊臣秀吉に降伏し、会津、岩瀬、安積郡などを没収される
・1591年(天正19) 米沢城72万石から、玉造郡岩手沢城58万石に減転封させられる
・1593年(文禄2) 文禄の役で朝鮮へ出兵する
・1600年(慶長5) 関ケ原の戦いでは、徳川家康方につき、会津の上杉景勝と戦う
・1603年(慶長8) 居城を仙台に移す
・1607年(慶長12) 塩竈(しおがま)神社、大崎八幡宮(はちまんぐう)、国分寺薬師堂を造営する
・1609年(慶長14) 松島瑞巌寺(ずいがんじ)を造営する
・1613年(慶長18) 慶長遣欧使節をローマに派遣する
・1614年(慶長19) 大坂冬の陣に徳川方として参戦する
・1615年(慶長20) 大坂夏の陣に徳川方として参戦する
・1620年(元和6) 慶長遣欧使節が帰国する
・1626年(寛永3) 北上川の石巻流出などの土木工事を完成させる
・1636年(寛永13年5月24日) 江戸桜田邸において、68歳で死去する
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 今日は、昭和時代後期の1981年(昭和56)に、編集者・児童文学者・評論家・翻訳家吉野源三郎が亡くなった日です。
 吉野源三郎(よしの げんざぶろう)は、明治時代後期の1899年(明治32)4月9日に、東京で生まれましたが、父は株式取引所仲買人でした。
 1917年(大正6)に、東京高等師範学校附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業し、翌年、旧制第一高等学校に入学します。1922年(大正11)に同校を卒業後、東京帝国大学経済学部に入学し、途中で文学部哲学科に転部しました。
 卒業後は陸軍に入り、除隊後の1927年(昭和2)から、東京大学図書館に勤めます。この頃から、政治活動にかかわるようになり、1931年(昭和6)には治安維持法事件で逮捕されました。
 その後三省堂に入り、『大百科英和辞典』の編纂に従事、1935年(昭和10)に山本有三の薦めで新潮社の『日本少国民文庫』の編集主任となり、1937年(昭和12)には明治大学講師にも就任します。同年に『君たちはどう生きるか』を少年少女向けに執筆し、高い評価を得て、岩波書店に入社しました。
 1938年(昭和13)に、岩波新書の創刊に関わり、翌年には、明治大学教授に就任しています。
 太平洋戦争後は、1946年(昭和21)に創刊された総合雑誌『世界』の初代編集長として,講和問題、憲法問題などの世論形成に大きな役割を果たし、戦後の進歩的社会派論壇をリードしました。また、1955年(昭和30)に設立された日本ジャーナリスト会議の初代議長となり、1959年(昭和34年)には『エイブ・リンカーン』(岩波少年文庫)で、第6回産経児童出版文化賞を受賞するなどしています。
 岩波書店全体の編集責任者として、1965年(昭和40)まで勤めたのち役職を辞任しましたが、1975年(昭和50)に広島で開かれた“被爆30年広島国際フォーラム”の世話人を務めるなど、平和運動に終始尽力しました。しかし、1981年(昭和56)5月23日、肺気腫症のため、82歳で亡くなっています。

〇吉野源三郎の主要な著書

・『君たちはどう生きるか』(1937年)
・『人間の尊さを守ろう』(1948年)
・『人類の進歩につくした人』 新潮社〈日本少国民文庫〉(1949年)
・『危機はここまで来ている』(1954年)
・『エイブ・リンカーン』 岩波少年文庫 (1958年)
・『同時代のこと ヴェトナム戦争を忘れるな』 岩波新書(1974年)
・『ジュニア版吉野源三郎全集』(全3巻 ポプラ社)
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 今日は、江戸時代後期の1859年(安政6)に、小説家・演劇評論家・劇作家・英文学者坪内逍遥(つぼうち しょうよう)の生まれた日ですが、新暦では6月22日となります。
 坪内逍遥は、美濃国加茂郡太田宿(現在の岐阜県美濃加茂市)に、尾張藩代官所役人の父・坪内平右衛門と母・ミチの十人兄妹の末子として、役宅で生まれましたが、本名は勇蔵と言いました。
 明治維新に伴って、実家のある尾張国愛知郡笹島村へ一家で移ります。1876年(明治9)に上京し、東京開成学校へ入学、東京大学予備門を経て、東京大学文学部政治科へと進み、西洋文学に親しみました。
 1883年(明治16)に卒業後、東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師(後に教授)となり、翌年にシェイクスピア著『ジュリアス・シーザー』の浄瑠璃風翻訳「該撒奇談 自由太刀余波鋭鋒」を出版します。
 1885年(明治18)には評論『小説神髄』を発表、小説『当世書生気質』(1885‐86年)を書いて、写実主義を提唱し、日本の近代文学の先駆者となりました。1890年(明治23)に東京専門学校に文学科を設け、翌年『早稲田文学』を創刊して、後進の育成にも努めます。
 また、演劇の改良を志して、戯曲『桐一葉』(1894‐95年)、『牧の方』(1896年)、『沓手鳥(ほととぎす)孤城落月』(1897年)などを発表し、俳優の育成にも尽力しました。一方で、『国語読本』の編集にも携わり、日露戦争後の1906年(明治39)には文芸協会を組織しています。
 その中で、シェークスピアの研究・翻訳を続け、全作品を完訳した『沙翁全集』全40冊(1928年)も刊行しました。
 このように、日本近代文学、演劇の発展史上に大きな功績を残しましたが、1935年(昭和10)2月28日に、静岡県熱海市において、75歳で亡くなります。

〇坪内逍遥の主要な作品

・翻訳『春風情話』(1880年) ウォルター・スコット著『ランマームーアの花嫁』の翻訳
・翻訳『該撒奇談 自由太刀余波鋭鋒』(1884年)「ジュリアス・シーザー」の浄瑠璃風翻訳
・評論『小説神髄』(1885年)
・小説『当世書生気質』(1885‐86年)
・小説『新磨(しんみがき) 妹と背かゞみ』(1885‐86年)
・小説『内地雑居 未来の夢』(1888年)
・小説『細君』(1889年)
・戯曲『桐一葉』(1894‐95年)
・戯曲『牧の方』(1896年)
・戯曲『沓手鳥(ほととぎす)孤城落月』(1897年)
・楽劇『新曲浦島』(1904年)
・戯曲『お夏狂乱』(1914年)
・戯曲『役の行者』(1917年)
・翻訳「沙翁全集」全40冊(1928年)
・翻訳『新修シェークスピヤ全集』全40冊(1933‐35年)
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