長崎県長崎市にある出島は、1633年(寛永10)の「第1次鎖国令」によるポルトガル人の隔離を目的として、翌年に25人の長崎商人に長崎港内の一隅に扇形の人工島を造成するように命じたものでした。
2年後の1636年(寛永13)に、面積3969坪(約1.5ha)の造成(費用約4,000両)が完了し、最初はポルトガル人を住まわせます。しかし、1637~38年の島原の乱の後、1639年(寛永16)に江戸幕府によって、ポルトガル人の来航が禁止されたため空家となってしまいました。
そこで、1641年(寛永18)に平戸から出島にオランダ商館が移され、オランダ人居住地とされて、幕末まで存続することとなります。
この島は、周囲を高い板塀で囲まれ、市街地とは1本の橋のみで繋がり、島内には、オランダ商館の他に、オランダ人の居住する家屋や船員の宿泊施設、日本人の諸役人・通詞の家、倉庫などが立ち並んでいました。
諸行事があるとき以外は、オランダ人が出島から出ることは原則として禁止され、隔離されますが、江戸時代の海外文化流入の窓口としての大きな役割を果たします。
明治時代以降は周囲が埋め立てられて、往時の面影を失いましたが、歴史的に貴重なので、1922年(大正11)に、「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定されました。
1996年(平成8)度から長崎市が、長期計画に基づいて、当時の姿に復元している途中で、発掘調査などもされています。
現在では、出島資料館本館・分館、一番蔵、二番蔵、一番船頭部屋などが復元されていて、見所も多く、江戸時代の海外貿易の拠点となった雰囲気を感じ取れるようになってきました。
〇出島関係略年表
・1633年(寛永10) 江戸幕府により、「第1次鎖国令」が出され、奉書船以外の渡航が禁じられる
・1634年(寛永11) 25人の長崎商人に長崎港内の一隅に扇形の人工島を築造するように命じる
・1636年(寛永13) 面積3969坪(約1.5ha)の造成が完了し、ポルトガル人が住まわされる
・1637年(寛永14) 九州の島原・天草地方で島原の乱が勃発する
・1638年(寛永15) 島原の乱が鎮圧される
・1639年(寛永16) 江戸幕府によって、ポルトガル人の来航が禁止される
・1641年(寛永18) 平戸から出島にオランダ商館が移され、オランダ人居住地とされる
・1690年(元禄3) エンゲルベルト・ケンペルが来日、オランダ商館付の医師として2年間出島に滞在する
・1775年(安永4) カール・ツンベルクが来日、オランダ商館付医師として出島に赴任、1年間滞在する
・1798年(寛政10) 出島に大火が発生し西側半分を焼失する
・1804年(文化元) ロシア使節レザノフが長崎に来航する
・1808年(文化5) フェートン号事件で、オランダ商館員2名が一時逮捕される
・1809年(文化6) 新しいカピタン部屋が完成する
・1823年(文政6) フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが来日し、出島のオランダ商館医となる
・1824年(文政7) フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが鳴滝塾を開く
・1825年(文政8) 幕府が「異国船打払令」を出す
・1828年(文政11) シーボルト事件が起こる
・1829年(文政12) フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが国外に追放される
・1842年(天保13) 「天保の薪水給与令」が発布され、打払い令は緩和される
・1853年(嘉永6) ロシア使節プゥチャーチンが長崎に来航する
・1855年(安政2) 日蘭仮条約締結により、オランダ人の在留の出島限定が解かれる
・1856年(安政3) 「出島開放令」と共に出島の日本人役人が廃止される
・1859年(安政6) 出島にあったオランダ商館が閉鎖される
・1903年(明治36) 出島の付近が埋め立てられて市街地と地続きになる
・1922年(大正11) 「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定される
・1996年(平成8) 長崎市による、出島復元の長期計画が始まる
・2000年(平成12) 第1期復元工事で「ヘトル部屋」「料理部屋」「一番船船頭部屋」等5棟が復元される
・2006年(平成18) 第2期復元工事で「カピタン部屋」「乙名部屋」「三番蔵」等5棟が復元される
・2017年(平成29) 出島と対岸に「出島表門橋」が架けられる