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 今日は、江戸時代前期の1636年(寛永13)に、武将・仙台藩の藩祖伊達政宗の亡くなった日ですが、新暦では6月27日となります。
 伊達政宗は、安土桃山時代の1567年(永禄10年8月3日)に、出羽国米沢城(現在の山形県米沢市)で、伊達氏第16代当主・伊達輝宗の長子(母・最上義守の娘義姫)として生まれましたが、幼名を梵天丸といいました。
 幼少の頃に、右眼を失明し、後に「独眼竜」とも称されるようになります。1577年(天正5)に元服し藤次郎政宗と称し、1581年(天正9)には、隣接する戦国大名・相馬氏との合戦で初陣を飾りました。
 1584年(天正12)には家督を継ぎ、伊達氏の第17代当主となり、翌年父輝宗が二本松義継のために不慮の死をとげてからは、積極的に領土拡張に乗り出します。
 1588年(天正16)に佐竹義重、蘆名義広、相馬義胤らと対戦し、翌年には、磨上原(すりあげがはら)の戦で蘆名義広を破り、会津地方を制覇しました。その後も領土を拡張し、須賀川二階堂氏を滅ぼし、石川、白川両氏を服属させて、陸奥国、出羽国に及ぶ広大な地を勢力下に置きます。
 しかし、1590年(天正18)に小田原参陣に遅参、豊臣秀吉に降伏し、会津、岩瀬、安積郡などを没収され、黒川城(会津若松)から米沢城に移りました。さらに、翌年には米沢城72万石から、玉造郡岩手沢城58万石に減転封させられます。
 1593年(文禄2)に文禄の役で朝鮮へ出兵しますが、豊臣秀吉死没後の1600年(慶長5)の関ケ原の戦いでは、徳川家康方につき、会津の上杉景勝と戦いました。
 1603年(慶長8)に居城を仙台に移し、仙台藩62万石の基礎を築き、1613年(慶長18)には慶長遣欧使節をローマに派遣します。1614年・1615年(慶長19・20)の大坂の陣にも徳川方として参戦して、徳川秀忠、家光の信任を得ました。
 和歌、茶道、能楽に長じ能書家としても知られ、桃山文化を仙台に移したりしましたが、1636年(寛永13年5月24日)に、江戸桜田邸において、68歳で死去します。

〇伊達政宗関係略年表(日付は旧暦です)

・1567年(永禄10年8月3日) 出羽国米沢城で、伊達氏第16代当主・伊達輝宗の長子として生まれる
・1577年(天正5) 元服し藤次郎政宗と称する
・1579年(天正7) 三春城主田村清顕の娘愛姫(めごひめ)と結婚する
・1581年(天正9) 隣接する戦国大名・相馬氏との合戦で初陣を飾る
・1584年(天正12) 家督を継ぎ、伊達氏の第17代当主となる
・1585年(天正13) 父輝宗が二本松義継のために不慮の死をとげる
・1586年(天正14) 安達郡を入手する
・1588年(天正16) 佐竹義重、蘆名義広、相馬義胤らと対戦する
・1589年(天正17) 磨上原(すりあげがはら)の戦で蘆名義広を破り、会津地方を制覇する
・1590年(天正18) 小田原参陣に遅参、豊臣秀吉に降伏し、会津、岩瀬、安積郡などを没収される
・1591年(天正19) 米沢城72万石から、玉造郡岩手沢城58万石に減転封させられる
・1593年(文禄2) 文禄の役で朝鮮へ出兵する
・1600年(慶長5) 関ケ原の戦いでは、徳川家康方につき、会津の上杉景勝と戦う
・1603年(慶長8) 居城を仙台に移す
・1607年(慶長12) 塩竈(しおがま)神社、大崎八幡宮(はちまんぐう)、国分寺薬師堂を造営する
・1609年(慶長14) 松島瑞巌寺(ずいがんじ)を造営する
・1613年(慶長18) 慶長遣欧使節をローマに派遣する
・1614年(慶長19) 大坂冬の陣に徳川方として参戦する
・1615年(慶長20) 大坂夏の陣に徳川方として参戦する
・1620年(元和6) 慶長遣欧使節が帰国する
・1626年(寛永3) 北上川の石巻流出などの土木工事を完成させる
・1636年(寛永13年5月24日) 江戸桜田邸において、68歳で死去する