この戦いは、駿河の今川義元軍と尾張の織田信長軍との間で尾張国桶狭間付近(現在の名古屋市緑区・豊明市)を中心に戦われた合戦です。
約2万5千人もの大軍を率いて尾張に侵攻した今川軍に対して、約2千人の織田軍が本陣を強襲し、今川義元の首を取って、今川軍を敗走させました。織田信長が、それ以後領地を広げ天下統一を目指す転機となった重要な戦いでした。
現在は、1938年(昭和13)に国の史跡に指定された「桶狭間古戦場伝説地」(豊明市)があり、史跡指定標柱や七石表(七基の石碑)、今川治部大輔義元墓などがあります。
また、少し離れたところに「桶狭間古戦場公園」(名古屋市緑区)があり、今川義元の墓碑、義元馬つなぎの杜松、義元首洗いの泉、漢詩碑などがあります。
桶狭間以外にも徳川家康が兵糧を入れた大高城跡、前哨戦で織田方が全滅した鷲津・丸根砦跡、今川義元が前日に宿泊した今川方の沓掛城跡などが散在していて、周辺には見どころがいろいろとあります。
〇桶狭間の戦い関係の主要な史跡
【桶狭間古戦場伝説地】(おけはざまこせんじょうでんせつち)
桶狭間古戦場で、今川義元最期の地とされるところが2ヶ所伝えられています。その一つが、愛知県豊明市栄町南舘にある「桶狭間古戦場伝説地」で、1938年(昭和13)4月に国の史跡に指定され、1941年(昭和16)10月に史跡指定標柱が建立されました。ここは公園になっていて、1771年(明和8)12月に尾張藩士人見弥右衛門桼・赤林孫七郎信之によって建てられた「七石表」(七基の石碑)があります。一号碑は今川義元の戦死した場所を示し、二号碑は松井宗信戦死の場所、三号碑以下は義元の武将五人の戦死の場所ですが、氏名は不詳でした。その他にも、1809年(文化6)に津島の神官氷室豊長が建てた「桶狭弔古碑」、1860年(万延元)建立の「今川義元仏式の墓」、1876年(明治9)に有松の山口正義が建てた「今川治部大輔義元墓碑」、「松井兵部少輔宗信墓碑」があります。
【桶狭間古戦場公園】(おけはざまこせんじょうこうえん)
名古屋市緑区桶狭間北3丁目にある公園で、1988年(昭和63)の土地区画整理事業に伴って整備されたところです。おけはざま山の本陣から追われた今川義元が、服部小平太と毛利新介によって打ち取られた最期の地とと伝えられ、1836年(天保7)の「桶狭間絵図」に田楽坪と記入され、地元では、古くは田楽狭間とも呼ばれてきました。公園内には、今川義元公馬繋ぎのねず塚や義元公水汲みの泉、今川義元の墓碑などがあり、合戦当時の地形、城、砦などをジオラマ化し、織田信長と今川義元の銅像も建てられています。
【大高城跡】(おおだかじょうあと)
愛知県名古屋市緑区大高町にある中世の城跡です。築城年代は定かではありませんが、南北朝時代には、池田頼忠が城主を務め、戦国時代の永正年間(1504~21年)に花井氏、天文・弘治年間(1532~58年)には水野忠氏が居城したと伝えられています。織田信秀の支配下にあった1548年(天文17)に、今川義元の命で野々山政兼がこの城を攻めましたが、落とすことができず政兼は戦死しました。しかし、信秀の死後は、息子の織田信長に背いた鳴海城主山口教継の調略で、この城は沓掛城とともに今川方の手に落ちてしまったのです。これに脅威を感じた織田信長は、牽制するために近くに丸根砦、鷲津砦を築きました。1559年(永禄2)には、今川義元の命をうけ朝比奈輝勝が大高城の守りに入り、翌年には、包囲網を破って、今川義元の妹婿である鵜殿長照が守備につきました。しかし、糧道を絶たれそうになった中で、松平元康(後の徳川家康)が、織田方の隙をついて敵中を突破して兵糧を入れ、大高城を守ったのです。ところが、1560年(永禄3)5月19日(新暦6月12日)の桶狭間の戦いにより今川義元が討ち死にして今川方が負け、松平元康は岡崎城に引き下がったため、大高城は再び織田方のものとなりました。その後まもなくして、廃城となりましたが、尾張藩家老の志水家が、1616年(元和2)にここに館を設けてから代々住むようになったのです。その館も1870年(明治3)に売却されました。その後も曲輪と堀が残されていて、1938年(昭和13)に「大高城跡 附丸根砦跡 鷲津砦跡」として国の史跡に指定され、現在は「大高城址公園」として整備されています。
【鷲津砦跡】(わしづとりであと)
愛知県名古屋市緑区大高町にある中世の砦跡で、大高城の北東約700mの丘陵上に築かれ、東西25m、南北27mの規模だったとされています。織田信秀の死後に息子の信長が跡を継ぐと、信秀に従っていた鳴海城主山口教継が駿河の今川義元に寝返り、義元は大高城を手中にしました。それに対抗し、大高城と鳴海城の間を遮断するために、丸根砦と共に築かれ、守将として織田秀敏と飯尾定宗・尚清父子がが置かれます。しかし、桶狭間の戦いに際し、1560年(永禄3年5月19日)に今川方の重臣・朝比奈泰朝らの攻撃によって、陥落させられました。1938年(昭和13)に「大高城跡 附丸根砦跡 鷲津砦跡」として国の史跡に指定され、現在は長寿寺の裏山一帯が「鷲津砦公園」となっていて、頂上付近に石碑が建っています。
【丸根砦跡】(まるねとりであと)
愛知県名古屋市緑区大高町にある中世の砦跡で、大高城の北東約800mの丘陵上に築かれ、東西36m、南北28mの規模だったとされています。織田信秀の死後に息子の信長が跡を継ぐと、信秀に従っていた鳴海城主山口教継が駿河の今川義元に寝返り、義元は大高城を手中にしました。それに対抗し、大高城と鳴海城の間を遮断するために、鷲津砦と共に築かれ、守将として佐久間大学盛重が置かれます。しかし、桶狭間の戦いに際し、1560年(永禄3年5月19日)に今川方の松平元康(徳川家康)の攻撃によって、陥落させられました。1938年(昭和13)に「大高城跡 附丸根砦跡 鷲津砦跡」として国の史跡に指定、現在は公園となり、丘の頂きあたりには雑木林が残され、その一画に石碑が二基建てられています。
【沓掛城跡】(くつかけじょうあと)
愛知県豊明市にある中世の平城の跡です。築城年代については、諸説ありますが、14世紀頃、近藤宗光が初代城主としてこの地に住したと言われています。戦国時代になって、松平家についていましたが、織田信秀の勢力が強くなるとその支配下に入りました。しかし、信秀の死後は、息子の織田信長に背いた鳴海城主山口教継の調略で、この城は大高城とともに今川方の手に落ちたのです。この城が有名なのは、桶狭間の戦いの前夜、1560年(永禄3)5月18日(新暦6月11日)に、今川義元が泊まり、参陣の諸将を集めて軍議を行ったことによります。翌日、今川方は織田方に桶狭間の戦いで敗れ、今川義元は討ち死にすることになりました。この時の城主近藤景春は今川方に従い、沓掛城を死守していましたが、義元の戦死後織田方に城を攻めとられ、景春は戦死、城は空城となったのです。それからは、織田信長の勢力圏に入り、簗田出羽守政綱・左衛門太郎父子、信長の異母弟の織田越中守信照、川口久助らが居住していましたが、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦い後に廃城となりました。1981年(昭和56)年から4年をかけて豊明市による発掘調査が行われましたが、資料によると東西288m、南北234m、惣堀に囲まれた戦国時代の城としては、比較的規模の大きな城とのことで、今でも本丸と諏訪曲輪と二の丸の一部や空堀が残っていす。現在は、沓掛城址公園として整備されていて、見学することができます。
【鳴海城跡】(なるみじょうあと)
愛知県名古屋市緑区にあった中世の城跡です。室町時代の応永年間(1394~1428年)に足利義満の配下であった安原宗範によって築かれましたが、宗範の死後、廃城になったといわれています。戦国時代の天文年間(1532~55年)の途中までは、織田信秀の支配下にあり、山口教継が城主となっていました。しかし、信秀の死後は、息子の織田信長に背いて、今川方に寝返って以来、今川方の武将が駐屯し、その前衛となります。その後、教継は息子の山口教吉に鳴海城を任せますが、1553年(天文22)に、織田信長の800の兵での攻撃をしのぎます。そして、教継の調略で、付近の沓掛城と大高城は今川方の手に落ちることになるのですが、それから程なくして、山口氏父子は駿河へ呼び出され、今川義元の命により父子ともども切腹をさせられました。その頃から、今川家譜代の岡部元信が城主となっていましたが、これに対処するため、織田信長は、1559年(永禄2)頃に、この城を囲むように丹下砦、善照寺砦、中嶋砦の3つを築いたのです。1560年(永禄3)の桶狭間の戦いでは、今川軍が織田軍に負け、総大将の今川義元が討ち死にしてしまい、岡部元信は、織田信長との交渉の末、今川義元の首級と引き換えに城を明け渡すこととなりました。その後は、佐久間信盛・信栄父子が城主をつとめていましたが、天正年間(1573~93年)末期に廃城になったといわれています。現在は、天神社に城跡の石碑が立ち、通りを挟んだ反対側には「鳴海城跡公園」があるものの、遺構の状態はよくありません。
〇織田 信長(おだ のぶなが)とは?
戦国時代の武将・戦国大名です。1534年(天文3年5月12日)に、尾張守護代織田大和守家の奉行の一人であった父・織田信秀の三男(母・土田御前)として生まれましたが、幼名は、吉法師と言いました。
1546年(天文15)元服して三郎信長と名乗り、翌年三河へ初陣、1551年(天文 20)に父信秀が没して、家督を継ぎますが、一族内部の抗争が続きます。
ようやく、1559年(永禄2)に織田信賢を破って織田家をまとめ、翌年の桶狭間の戦いで今川義元を敗死させて、尾張一国を統一しました。
1562年(永禄5)に、三河の松平元康(後の徳川家康)と同盟を結び、美濃への進出を図り、1567年(永禄10)に、斎藤龍興を滅ぼして、稲葉山城を岐阜城と改め、拠点とします。
翌年、足利義昭を奉じて上洛し、室町幕府15代の将軍職につけ、その将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令しました。
その後、1570年(元亀元)の姉川の戦いで浅井・朝倉両氏を破り、翌年に延暦寺の焼き打ちを行います。続いて、1573年(天正元)には朝倉氏、さらに浅井氏を滅ぼし、足利義昭を追放して、室町幕府を滅亡させました。さらに、1575年(天正3)に長篠の戦いで、武田勝頼を破り、翌年には近江に安土城を築き、天下統一への拠点とします。
その中で、関所の撤廃、楽市楽座、検地等の革新政策を実施、キリシタン文化をも摂取して、華やかな安土桃山文化を興しました。
その後、中国経略を志して毛利氏と対立しますが、1580年(天正8)に本願寺と和睦し、石山から退城させて畿内一円を支配、1582年(天正10)には甲斐武田氏を滅ぼすなど着々と統一事業を進めました。
しかし、同年6月2日に、京都における本能寺の変で、明智光秀のために自刃させられ、48歳で生涯を閉じます。