織田信長は、1534年(天文3年5月12日)に、尾張守護代織田大和守家の奉行の一人であった父・織田信秀の三男(母・土田御前)として生まれましたが、幼名は、吉法師と言いました。
1546年(天文15)元服して三郎信長と名乗り、翌年三河へ初陣、1551年(天文 20)に父信秀が没して、家督を継ぎますが、一族内部の抗争が続きます。ようやく、1559年(永禄2)に織田信賢を破って織田家をまとめ、翌年の桶狭間の戦で今川義元を敗死させて尾張一国を統一しました。
1562年(永禄5)に、三河の松平元康(後の徳川家康)と同盟を結び、美濃への進出を図り、1567年(永禄10)に、斎藤龍興を滅ぼして、稲葉山城を岐阜城と改め、拠点とします。翌年、足利義昭を奉じて上洛し、室町幕府15代の将軍職につけ、その将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令しました。
その後、1570年(元亀元)の姉川の戦いで浅井・朝倉両氏を破り、翌年に延暦寺の焼き打ちを行います。続いて、1573年(天正元)には朝倉氏、さらに浅井氏を滅ぼし、足利義昭を追放して、室町幕府を滅亡させました。さらに、1575年(天正3)に長篠の戦いで、武田勝頼を破り、翌年には近江に安土城を築き、天下統一への拠点とします。
その中で、関所の撤廃、楽市楽座、検地等の革新政策を実施、キリシタン文化をも摂取して、華やかな安土桃山文化を興しました。
その後、中国経略を志して毛利氏と対立しますが、1580年(天正8)に本願寺と和睦し、石山から退城させて畿内一円を支配、1582年(天正10)には甲斐武田氏を滅ぼすなど着々と統一事業を進めました。
しかし、同年6月2日に、京都における本能寺の変で、明智光秀のために自刃させられ、48歳で生涯を閉じます。
〇織田信長関係略年表(日付は旧暦です)
・1534年(天文3)5月12日 織田大和守家の奉行の父・織田信秀の三男(母・土田御前)として生まれる
・1546年(天文15) 古渡城にて元服し、三郎信長と名乗る
・1547年(天文16) 三河へ初陣する
・1548年(天文17) 美濃の斎藤道三の娘と結婚する
・1551年(天文20) 父・織田信秀が没して、家督を継ぐ
・1555年(弘治元) 清洲城の織田信友を討って、居城とする
・1557年(弘治3) 弟織田信行らの反乱を抑える
・1559年(永禄2) 岩倉城の織田信賢を破って織田家をまとめる
・1560年(永禄3)5月19日 桶狭間の戦で今川義元を敗死させて尾張一国を統一する
・1562年(永禄5) 三河の松平元康(後の徳川家康)と同盟を結ぶ
・1563年(永禄6) 美濃攻略のために本拠を小牧山城に移す
・1567年(永禄10) 斎藤龍興を滅ぼして、稲葉山城を岐阜城と改め、拠点とする
・1568年(永禄11) 足利義昭を奉じて上洛し、室町幕府15代の将軍職につける
・1569年(永禄12) 北伊勢の北畠氏を屈伏させる
・1570年(元亀元)6月28日 姉川の戦いで浅井・朝倉両氏を破る
・1570年(元亀元)9月12日 本願寺との間で石山合戦が始まる
・1571年(元亀2)9月12日 比叡山延暦寺を焼討ちする
・1572年(元亀3)12月22日 三方ヶ原の戦いで、織田・徳川連合軍が武田軍に敗れる
・1573年(天正元) 朝倉氏・浅井氏を滅亡させる
・1573年(天正元) 室町幕府15代将軍足利義昭を追放して、室町幕府を滅亡させる
・1574年(天正2)9月29日 長島の一向一揆を壊滅させる
・1575年(天正3)5月21日 長篠の戦いで、武田勝頼を破る
・1576年(天正4) 近江に安土城を築き、天下統一への拠点とする
・1580年(天正8)4月 本願寺と和睦し、石山から退城させて畿内一円を支配する
・1581年(天正9)2月28日 京都御馬揃えを行う
・1582年(天正10)3月11日 甲斐武田氏を滅ぼす
・1582年(天正10)6月2日 京都の本能寺の変で、織田信長が明智光秀に攻められ、自刃する