ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2018年04月

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 今日は、江戸時代前期の1613年(慶長18)に、鉱山開発等で活躍した武将大久保長安の亡くなった日ですが、新暦では、6月13日となります。
 大久保長安(おおくぼ ながやす/ちょうあん)は、戦国時代の1545年(天文14)に、甲斐国で、甲斐武田氏の猿楽衆大蔵大夫の次男として生まれましたが、名前は初め藤十郎といいました。
 蔵前衆(代官)として、武田家に仕えていましたが、その滅亡後は、徳川家康の家臣に取り立てられ、大久保忠隣の庇護を受けて、大久保十兵衛と改称して、甲斐の民政を担当します。
 1590年(天正18)の小田原征伐後、徳川家康の関東入国後は、抜擢されて代官頭となり、直轄地支配、知行割、検地などで活躍しました。その業績により、1591年(天正19)には、徳川家康から武蔵国八王子に8,000石(実質的には数万石とも?)の所領を与えられます。
 1600年(慶長5)の関ケ原の戦いでは、徳川秀忠軍の先鋒として木曾路に入り、木曾の森林資源と運材河川の利権を確保しました。
 翌年には、彦坂元正と共に東海道、中山道の伝馬制を定め、一里塚を設置し、伊奈忠次と関東諸国の検地を行い、甲州総代官、大津町奉行ともなりました。
 また、1603年(慶長8)に石見銀山兼佐渡金山奉行となり、同年伊豆銀山奉行ともなって、全国の鉱山を管轄しました。1605年(慶長10)頃には、大和・美濃の国奉行を兼ねて強大な権限を持ち、駿府城再建工事、丹波篠山城、亀山城などの普請にもかかわります。
 しかし、1613年(慶長18年4月25日)に、駿府において、68歳で亡くなりました。
 没後、生前に不正があったとされて、お家断絶となり、家族が切腹、大久保忠隣、石川康長らが連座して改易となる「大久保長安事件」が起こります。
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 今日は、昭和時代前期の1932年(昭和7)に、目黒競馬場で第1回東京優駿(日本ダービー)が開催された日です。
 これは、イギリスのダービーにならって創設されたサラブレッド系の4歳(現3歳)馬のレースでした。
 日本競馬界の父といわれる安田伊左衛門が創設し、最初は目黒競馬場の芝2,400mの「東京優駿大競走」として、4歳(現3歳)牡馬・牝馬限定のレースとされます。
 その後、第3回より会場を現在の東京競馬場 (府中)に変更し、1938年(昭和13)に名称を「東京優駿競走」と変え、1945年、1946年は太平洋戦争のために中止されました。
 戦後復活し、1948年(昭和23)名称を「優駿競走」と変え、1950年(昭和25)に「東京優駿競走」に名称変更とともに「日本ダービー」の副称が付されるようになります。1964年(昭和39)より「東京優駿(日本ダービー)」となって現在に至りました。
 尚、「皐月賞」、「菊花賞」とともに“三冠競走”と呼ばれるようになり、クラシックレースの一つで、中央競馬の重賞競走(GI)とされています。

〇東京優駿 (日本ダービー)の優勝馬一覧

・第1回(1932年4月24日)ワカタカ 牡 騎手:函館孫作
・第2回(1933年4月23日)カブトヤマ 牡 騎手:大久保房松
・第3回(1934年4月22日)フレーモア 牡 騎手:大久保亀治
・第4回(1935年4月29日)ガヴアナー 牡 騎手:井川為男
・第5回(1936年4月29日)トクマサ 牡 騎手:伊藤正四郎
・第6回(1937年4月29日)ヒサトモ 牝 騎手:中島時一
・第7回(1938年5月29日)スゲヌマ 牡 騎手:中村広
・第8回(1939年5月28日)クモハタ 牡 騎手:阿部正太郎
・第9回(1940年6月2日)イエリユウ 牡 騎手:末吉清
・第10回(1941年5月18日)セントライト 牡 騎手:小西喜蔵
・第11回(1942年5月24日)ミナミホマレ 牡 騎手:佐藤邦雄
・第12回(1943年6月6日)クリフジ 牝 騎手:前田長吉
・第13回(1944年6月18日)カイソウ 牡 騎手:橋本輝雄
・第14回(1947年6月8日)マツミドリ 牡 騎手:田中康三
・第15回(1948年6月6日)ミハルオー 牡 騎手:新屋幸吉
・第16回(1949年6月5日)タチカゼ 牡 騎手:近藤武夫
・第17回(1950年6月11日)クモノハナ 牡 騎手:橋本輝雄
・第18回(1951年6月3日)トキノミノル 牡 騎手:岩下密政
・第19回(1952年5月25日)クリノハナ 牡 騎手:八木沢勝美
・第20回(1953年5月24日)ボストニアン 牡 騎手:蛯名武五郎
・第21回(1954年5月23日)ゴールデンウエーブ 牡 騎手:岩下密政
・第22回(1955年5月29日)オートキツ 牡 騎手:二本柳俊夫
・第23回(1956年6月3日)ハクチカラ 牡 騎手:保田隆芳
・第24回(1957年5月26日)ヒカルメイジ 牡 騎手:蛯名武五郎
・第25回(1958年5月25日)ダイゴホマレ 牡 騎手:伊藤竹男
・第26回(1959年5月24日)コマツヒカリ 牡 騎手:古山良司
・第27回(1960年5月29日)コダマ 牡 騎手:栗田勝
・第28回(1961年5月28日)ハクシヨウ 牡 騎手:保田隆芳
・第29回(1962年5月27日)フエアーウイン 牡 騎手:高橋英夫
・第30回(1963年5月26日)メイズイ 牡 騎手:森安重勝
・第31回(1964年5月31日)シンザン 牡 騎手:栗田勝
・第32回(1965年5月30日)キーストン 牡 騎手:山本正司
・第33回(1966年5月29日)テイトオー 牡 騎手:清水久雄
・第34回(1967年5月14日)アサデンコウ 牡 騎手:増沢末夫
・第35回(1968年7月7日)タニノハローモア 牡 騎手:宮本悳
・第36回(1969年5月25日)ダイシンボルガード 牡 騎手:大崎昭一
・第37回(1970年5月24日)タニノムーティエ 牡 騎手:安田伊佐夫
・第38回(1971年6月13日)ヒカルイマイ 牡 騎手:田島良保
・第39回(1972年7月9日)ロングエース 牡 騎手:武邦彦
・第40回(1973年5月27日)タケホープ 牡 騎手:嶋田功
・第41回(1974年5月26日)コーネルランサー 牡 騎手:中島啓之
・第42回(1975年5月25日)カブラヤオー 牡 騎手:菅原泰夫
・第43回(1976年5月30日)クライムカイザー 牡 騎手:加賀武見
・第44回(1977年5月29日)ラッキールーラ 牡 騎手:伊藤正徳
・第45回(1978年5月28日)サクラショウリ 牡 騎手:小島太
・第46回(1979年5月27日)カツラノハイセイコ 牡 騎手:松本善登
・第47回(1980年5月25日)オペックホース 牡 騎手:郷原洋行
・第48回(1981年5月31日)カツトップエース 牡 騎手:大崎昭一
・第49回(1982年5月30日)バンブーアトラス 牡 騎手:岩元市三
・第50回(1983年5月29日)ミスターシービー 牡 騎手:吉永正人
・第51回(1984年5月27日)シンボリルドルフ 牡 騎手:岡部幸雄
・第52回(1985年5月26日)シリウスシンボリ 牡 騎手:加藤和宏
・第53回(1986年5月25日)ダイナガリバー 牡 騎手:増沢末夫
・第54回(1987年5月31日)メリーナイス 牡 騎手:根本康広
・第55回(1988年5月29日)サクラチヨノオー 牡 騎手:小島太
・第56回(1989年5月28日)ウィナーズサークル 牡 騎手:郷原洋行
・第57回(1990年5月27日)アイネスフウジン 牡 騎手:中野栄治
・第58回(1991年5月26日)トウカイテイオー 牡 騎手:安田隆行
・第59回(1992年5月31日)ミホノブルボン 牡 騎手:小島貞博
・第60回(1993年5月30日)ウイニングチケット 牡 騎手:柴田政人
・第61回(1994年5月29日)ナリタブライアン 牡 騎手:南井克巳
・第62回(1995年5月28日)タヤスツヨシ 牡 騎手:小島貞博
・第63回(1996年6月2日)フサイチコンコルド 牡 騎手:藤田伸二
・第64回(1997年6月1日)サニーブライアン 牡 騎手:大西直宏
・第65回(1998年6月7日)スペシャルウィーク 牡 騎手:武豊
・第66回(1999年6月6日)アドマイヤベガ 牡 騎手:武豊
・第67回(2000年5月28日)アグネスフライト 牡 騎手:河内洋
・第68回(2001年5月27日)ジャングルポケット 牡 騎手:角田晃一
・第69回(2002年5月26日)タニノギムレット 牡 騎手:武豊
・第70回(2003年6月1日)ネオユニヴァース 牡 騎手:M.デムーロ
・第71回(2004年5月30日)キングカメハメハ 牡 騎手:安藤勝己
・第72回(2005年5月29日)ディープインパクト 牡 騎手:武豊
・第73回(2006年5月28日)メイショウサムソン 牡 騎手:石橋守
・第74回(2007年5月27日)ウオッカ 牝 騎手:四位洋文
・第75回(2008年6月1日)ディープスカイ 牡 騎手:四位洋文
・第76回(2009年5月31日)ロジユニヴァース 牡 騎手:横山典弘
・第77回(2010年5月30日)エイシンフラッシュ 牡 騎手:内田博幸
・第78回(2011年5月29日)オルフェーヴル 牡 騎手:池添謙一
・第79回(2012年5月27日)ディープブリランテ 牡 騎手:岩田康誠
・第80回(2013年5月26日)キズナ 牡 騎手:武豊
・第81回(2014年6月1日)ワンアンドオンリー 牡 騎手:横山典弘
・第82回(2015年5月31日)ドゥラメンテ 牡 騎手:M.デムーロ
・第83回(2016年5月29日)マカヒキ 牡 騎手:川田将雅 友道康夫
・第84回(2017年5月28日)レイデオロ 牡 騎手:C.ルメール
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 今日は、「子供読書の日」です。これは、2000年(平成12)の「子ども読書年」を契機として、子どもの読書活動の推進をするため、翌年12月12日に成立、公布・施行された「子どもの読書活動の推進に関する法律」第十条 によって定められました。
 シェイクスピアとセルバンテスの命日である4月23日をユネスコが「世界・本と著作権の日」と宣言していることなどにちなんだものです。
 この日を中心に、国や地方公共団体では、子供の読書に関する様々な取組が進められてきました。毎年この日に「子どもの読書活動推進フォーラム」が開催され、読書活動優秀実践団体等に対して文部科学大臣表彰が授与されています。
 また、4月23日~5月12日までは「こどもの読書週間」と定められ、全国にある多くの公共図書館では、子供を対象とした読書に関する各種イベント(絵本展示会、おはなし会、子供映画上映会、一日司書体験など)を実施してきました。
 ちなみに、2018年・第60回「こどもの読書週間」の標語は、「はじまるよ! 本のカーニバル」となっていて、ポスターが図書館や学校等に配布されています。

〇「子どもの読書活動の推進に関する法律」とは?

 2001年11月に議員立法で「子どもの読書活動の推進に関する法律案」が提出され、同年12月12日に成立、公布・施行された法律です。
 目的として、「子どもの読書活動の推進に関し、基本理念を定め、並びに国及び地方公共団体の責務等を明らかにするとともに、子どもの読書活動の推進に関する必要な事項を定めることにより、子どもの読書活動の推進に関する施策を総合的かつ計画的に推進し、もって子どもの健やかな成長に資することを目的とする。」と定められました。
 そして、基本理念として、「子どもの読書活動は、子どもが、言葉を学び、感性を磨き、表現力を高め、創造力を豊かなものにし、人生をより深く生きる力を身に付けていく上で欠くことのできないものであることにかんがみ、すべての子どもがあらゆる機会とあらゆる場所において自主的に読書活動を行うことができるよう、積極的にそのための環境の整備が推進されなければならない。」とされました。
 それに関わって、国の責務として、「国は、前条の基本理念にのっとり、子どもの読書活動の推進に関する施策を総合的に策定し、及び実施する責務を有する。」とされています。
 そして、これを推進するために、第十条て゜「国民の間に広く子どもの読書活動についての関心と理解を深めるとともに、子どもが積極的に読書活動を行う意欲を高めるため、子ども読書の日を設ける。」され、その日が毎年4月23日と定められました。

☆「子どもの読書活動の推進に関する法律」(全文) 2001年(平成13)12月12日成立 法律第154号

(目的)

第一条 この法律は、子どもの読書活動の推進に関し、基本理念を定め、並びに国及び地方公共団体の責務等を明らかにするとともに、子どもの読書活動の推進に関する必要な事項を定めることにより、子どもの読書活動の推進に関する施策を総合的かつ計画的に推進し、もって子どもの健やかな成長に資することを目的とする。

(基本理念)

第二条 子ども(おおむね十八歳以下の者をいう。以下同じ。)の読書活動は、子どもが、言葉を学び、感性を磨き、表現力を高め、創造力を豊かなものにし、人生をより深く生きる力を身に付けていく上で欠くことのできないものであることにかんがみ、すべての子どもがあらゆる機会とあらゆる場所において自主的に読書活動を行うことができるよう、積極的にそのための環境の整備が推進されなければならない。

(国の責務)

第三条 国は、前条の基本理念(以下「基本理念」という。)にのっとり、子どもの読書活動の推進に関する施策を総合的に策定し、及び実施する責務を有する。

(地方公共団体の責務)

第四条 地方公共団体は、基本理念にのっとり、国との連携を図りつつ、その地域の実情を踏まえ、子どもの読書活動の推進に関する施策を策定し、及び実施する責務を有する。

(事業者の努力)

第五条 事業者は、その事業活動を行うに当たっては、基本理念にのっとり、子どもの読書活動が推進されるよう、子どもの健やかな成長に資する書籍等の提供に努めるものとする。

(保護者の役割)

第六条 父母その他の保護者は、子どもの読書活動の機会の充実及び読書活動の習慣化に積極的な役割を果たすものとする。

(関係機関等との連携強化)

第七条 国及び地方公共団体は、子どもの読書活動の推進に関する施策が円滑に実施されるよう、学校、図書館その他の関係機関及び民間団体との連携の強化その他必要な体制の整備に努めるものとする。

(子ども読書活動推進基本計画)

第八条 政府は、子どもの読書活動の推進に関する施策の総合的かつ計画的な推進を図るため、子どもの読書活動の推進に関する基本的な計画(以下「子ども読書活動推進基本計画」という。)を策定しなければならない。
2 政府は、子ども読書活動推進基本計画を策定したときは、遅滞なく、これを国会に報告するとともに、公表しなければならない。
3 前項の規定は、子ども読書活動推進基本計画の変更について準用する。

(都道府県子ども読書活動推進計画等)

第九条 都道府県は、子ども読書活動推進基本計画を基本とするとともに、当該都道府県における子どもの読書活動の推進の状況等を踏まえ、当該都道府県における子どもの読書活動の推進に関する施策についての計画(以下「都道府県子ども読書活動推進計画」という。)を策定するよう努めなければならない。
2 市町村は、子ども読書活動推進基本計画(都道府県子ども読書活動推進計画が策定されているときは、子ども読書活動推進基本計画及び都道府県子ども読書活動推進計画)を基本とするとともに、当該市町村における子どもの読書活動の推進の状況等を踏まえ、当該市町村における子どもの読書活動の推進に関する施策についての計画(以下「市町村子ども読書活動推進計画」という。)を策定するよう努めなければならない。
3 都道府県又は市町村は、都道府県子ども読書活動推進計画又は市町村子ども読書活動推進計画を策定したときは、これを公表しなければならない。
4 前項の規定は、都道府県子ども読書活動推進計画又は市町村子ども読書活動推進計画の変更について準用する。

(子ども読書の日)

第十条 国民の間に広く子どもの読書活動についての関心と理解を深めるとともに、子どもが積極的に読書活動を行う意欲を高めるため、子ども読書の日を設ける。
2 子ども読書の日は、四月二十三日とする。
3 国及び地方公共団体は、子ども読書の日の趣旨にふさわしい事業を実施するよう努めなければならない。

(財政上の措置等)

第十一条 国及び地方公共団体は、子どもの読書活動の推進に関する施策を実施するため必要な財政上の措置その他の措置を講ずるよう努めるものとする。

附 則

この法律は、公布の日から施行する。

       「総務省法令データ提供システム」より
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 今日は、明治時代後期の1910年(明治43)に、彫刻家荻原守衛(碌山)の亡くなった日です。
 荻原守衛は、1879年(明治12)12月1日に、長野県南安曇郡東穂高村(現在の安曇野市)の農家で、父・勘六、母・りゃうの5男として生まれました。
 幼少のころから絵が好きでしたが、18歳のとき心臓病にかかり、井口喜源治のキリスト教思想に基づく研成義塾に参加します。
 1899年(明治32)に画家を志して上京し、小山正太郎の不同舎で洋画を学びました。1901年(明治34)に洗礼を受け、同年渡米して、ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグその他で学びます。
 1903年(明治36)に渡仏し、J.-P.ローランスに学びますが、現地でロダン作『考える人』を見て感動し、彫刻に転じました。フランスのアカデミー・ジュリアンの彫刻部に入り、1907年(明治40)にはロダンを訪ね、この頃から「碌山」の号を用いるようになります。
 1908年(明治41)に帰国し、第2回文展に『文覚』が入選し、三等賞を受賞しました。翌年の第3回文展でも『北条虎吉像』が三等賞を受け、生命感あふれる清新な作品として評価されます。
 東京新宿の中村屋に出入りしていましたが、突然喀血し、1910年(明治43)4月22日に、30歳の若さで急逝しました。死後の第4回文展で、遺作となった『女』は三等賞を受けます。
 尚、1958年(昭和33)郷里安曇野に碌山美術館が設立されて、作品が収蔵され、公開されました。

〇荻原守衛(碌山)の主要な作品

・『女の胴』(1907年)
・『坑夫』(1907年)
・『文覚』(1908年)
・『北条虎吉像』(1909年)石膏原型が国指定重要文化財
・『デスペア』(1909年)
・『労働者』(1909年)
・『母と病める子』(1910年)
・『女』(1910年)石膏原型が国指定重要文化財
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 今日は、安土桃山時代の1583年(天正11)に、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が羽柴秀吉に敗北した日ですが、新暦では6月11日となります。
 この戦いは、北近江の賤ヶ岳(現在の滋賀県長浜市)を中心に行われた豊臣秀吉と柴田勝家との戦いでした。
 本能寺の変後、織田氏の後継者を決める清須会議で豊臣秀吉と柴田勝家が対立します。その両者が、織田勢力を二分する激しい戦いを繰り広げることとなりました。
 1583年(天正11)3月12日、柴田勝家は佐久間盛政、前田利家らと約3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、布陣を完了します。一方、羽柴秀吉は、3月19日に約5万の兵力を率いて木ノ本に布陣しましたが、しばらく膠着状態が続きました。
 4月16日に、一度は羽柴秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の滝川一益と結び再び挙兵、岐阜城下へ進出したので、翌日に羽柴秀吉は美濃に進軍し大垣城に入ります。
 これを好機ととらえた、佐久間盛政軍が4月19日に秀吉方の大岩山砦を攻撃し、守将の中川清秀は討死し、賤ヶ岳砦の守将桑山重晴も撤退を開始しました。
 しかし、岐阜城から羽柴秀吉が急遽駆けつけ(美濃の大返し)、4月21日早朝に佐久間盛政軍を追って賤ヶ岳で撃破、昼頃柴田勝家軍を攻め、越前に敗走させます。この時に、秀吉方で功名をあげた兵のうち7人(脇坂安治、桐且元、平野長泰、福島正則、加藤清正、糟屋武則、加藤嘉明)が後世に賤ヶ岳の七本槍と呼ばれるようになりました。
 その後、羽柴秀吉軍は長途、柴田勝家の後を追い、居城である越前北ノ庄城を攻め、とうとう、4月24日に柴田勝家を自害させます。
 この賤ヶ岳の戦いで、秀吉が勝利することによって、その立場を確固たるものにし、天下統一へと向かっていくことになりました。

〇清須会議とは?

 本能寺の変後、山崎の合戦を経て、安土桃山時代の1582年(天正10)6月27日に、織田氏諸将が清洲城(愛知県清須市)に集まって、織田家の跡目や遺領の配分を決めることを目的に行った会議です。
 集まった織田家家臣は、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で、滝川一益は関東地方へ出陣中で欠席したとされています。
 織田信長の次男信雄と三男信孝が後継争いをしましたが、羽柴秀吉の強い主張で長男信忠の遺児三法師が後継者と決まりました。この会議の結果、柴田勝家の影響力が落ちて、羽柴秀吉の影響力が増し、織田家内部の勢力地図が替わることになります。
 その後、両者の対立が深まり、翌年の賤ヶ岳の戦いにつながったと言われています。

〇賤ヶ岳の戦い関係年表

<1582年(天正10)> 
・6月2日 織田信長と嫡男織田信忠が明智光秀の謀反によって横死(本能寺の変)
・6月13日 山崎の戦いで羽柴秀吉が明智光秀を討つ
・6月27日 織田氏の後継者を決める会議(清須会議)が開かれ、柴田勝家と羽柴秀吉との間で激しい対立が生じる
・12月18日 約3万の兵力の羽柴秀吉軍が美濃国へ入る
・12月20日 羽柴秀吉軍に包囲された岐阜城の織田信孝が降伏する
・12月 柴田勝家の甥の勝豊が守る近江の長浜城が、羽柴秀吉に攻められて降伏する

<1583年(天正11)>
・1月1日 伊勢の滝川一益が柴田勝家への旗幟を鮮明にして挙兵する
・2月20日 羽柴秀吉軍が一益方の伊勢の国府城を落城させる
・3月3日 羽柴秀吉軍が一益方の伊勢の亀山城を落城させる
・3月12日 柴田勝家は佐久間盛政、前田利家らと約3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、布陣を完了する
・3月19日 羽柴秀吉は約5万の兵力を率いて木ノ本に布陣する
・3月27日 羽柴秀吉は一部の軍勢を率いて長浜城へ帰還し、伊勢と近江の2方面に備える
・4月12日 羽柴秀吉軍が一益方の伊勢の峯城を落城させる
・4月16日 一度は羽柴秀吉に降伏していた織田信孝が伊勢の滝川一益と結び再び挙兵、岐阜城下へ進出する
・4月17日 羽柴秀吉は美濃に進軍し大垣城に入る
・4月19日 佐久間盛政軍が秀吉方の大岩山砦を攻撃し、守将の中川清秀は討死する
・4月20日 劣勢と判断した賤ヶ岳砦の守将桑山重晴も撤退を開始するが、岐阜城から羽柴秀吉が木之本に駆けつける
・4月21日 羽柴秀吉軍が、早朝に佐久間盛政軍を追って賤ヶ岳で撃破、昼頃柴田勝家を攻め、越前に敗走させる(賤ヶ岳の戦い)
・4月23日 羽柴秀吉軍は長途、柴田勝家の後を追い、居城である越前北ノ庄城を攻める
・4月24日 越前北ノ庄城で柴田勝家が自害する
・5月2日(4月29日説あり) 尾張国知多郡内海で織田信孝が自害する
・7月 滝川一益が北伊勢5郡を秀吉に差し出して降伏する
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